羽入辰郎「学問とは何か −「マックス・ヴェーバーの犯罪」その後−」(2)
ミネルヴァ書房 2008年6月
「六〇年代末の大学紛争は、大学における学問のあり方をめぐって行われた」と羽入氏はいう。また、養老孟司氏はいう。「全共闘は大学解体を叫んでました。学問とはなんだ、研究はなんのためだ。紛争が収まってから、私のほうは、それに対する返事をまだ考えてたわけです。」「東大紛争が起こったとき、私は助手になって二年目でした。学位論文が済んで、次の論文を書いて、それが英国の雑誌に採用されたところでした。」 それが紛争による研究室封鎖で研究室を追い出された。研究活動を物理的に阻害されたわけである。全共闘の問いに応えて自分から研究をやめたのではなく、意志に反して無理矢理研究を止めさせられた。「でも私自身の研究は本気でしたよ。だから研究室を追い出されたとき、本気で腹を立てました。はたで見ていた人が「顔色が真っ青だったよ」と、あとでいってたくらいです。・・あの当時私が本気だったからこそ、いまだに考えてるんですよ。本気の行為を「暴力で」潰されちゃったんだから。」 それがなかったら養老氏は普通の研究者になっていただろうという(「運のつき」 マガジンハウス 2004年)。本当にそうなのだろうと思う。
ところで、羽入氏もいうように68年前後の事態を大学紛争と呼ぶか、大学闘争と呼ぶかに、そのひとの1968年という時代への姿勢が問われる。わたくしはその渦中にいた人間(教養学部のある駒場から本郷の医学部に進学したばかりの医学部の最下級生)であるが、それに主体的にかかわったことはなく、つねに傍観する立場にいたので、以下、紛争と記す。
ところでその頃、高校生であった羽入氏や、すでに大学教官であった養老氏とは異なり、あの事態のなかにいた人間ではあるが、それが「学問とは何かを問う」ものであると感じたことは一度もなかった。大体、後から考えれば東大紛争/闘争であるが、本郷に進学してきた時、すでにその年の1月から上級生がストライキ(というのは変なのであるが、要するに授業を受けることを拒否していた)をしていて、当然お前たちもストだぞということで訳が分からないうちに本郷で授業のない日々が始まった。
ストはインターン制度廃止のためということになっていて、前年もおこなわれていたが、前年は3月末には解決というのかとにかく中止されていた。それでその年は少し長引いているが、いずれまた同じような解決になるのだろうと思っていて、一年間そのままの状態になるだろうということは、予想だにしていなかった。それでのんびりとアテネフランセに通ったりしていた。第一次世界大戦もはじまった時は、誰もがすぐに終わると思っていたらしい。歴史というのはそのようなものなのだろうと思う。おそらくこのストライキの過程での事実誤認処分ということがなければ、なんとなく前年と同様の経過をとったのではないかと思う。その誤認処分と大学側の対応のもたつきで長引いたが、6月末には大学側は処分を撤回している。いわゆる「ノンポリ」学生はいい加減いやになっていて、もうやめようよという気分が充満していた。
これまた変な話なのであるが、各学年でクラス会というのが行われていてスト突入というのもそこで決められたのだが、そこで厭戦気分に対抗して「事態打開のための安田講堂占拠」という提案がされたが、6月14日すべての学年で否定された。それでも、その方針を出した人たちが6月15日、安田講堂占拠を強行した。それに対して、大学側が17日機動隊を導入した。安田講堂は全学の建物であるから、それにより運動が全学化した。28日には文学部が無期限ストに、7月5日には教養学部が無期限ストに入った(これらの詳細な日時をわたくしが記憶しているわけではない。すべて山本俊一氏の「東京大学医学部紛争私観」(本の泉社 2003年)の記載によっている)。
もちろん単純に機動隊導入により紛争が全学に広がったわけではなく、以前から燻っていたものに機動隊導入で火がついて急に燃え上がっただけなのであろう。いずれにしても、そこから先はインターン制度反対とか誤認処分撤回とかいった医学部の問題はどこかにいってしまった。
それなら、この大学紛争はなぜ拡大していったのか? あるいは1968年当時に世界中で類似の運動がなぜ相次いで起きたのか? それについてはいろいろの説があるようだが、あまり納得できる説明はきいたことがない。
日本に限っても様々な伏線があった。まず、60年安保以来の学生運動における共産党系と反=共産党系の主導権争いということがある。この頃はヴェトナム戦争の最中である。それと関連して、67年末には第一次・第二次羽田空港事件があり、68年1月にはエンタープライズ入港阻止闘争があった。中国では文化大革命が進行中である。一部の新聞では毛沢東とホー・チミンは聖者のような扱いであった。5月にはパリが燃えた。何かがおきていたのである。今ではとても理解できないような政治の季節であった。インターン制度反対闘争も、学生運動を昂揚させ維持継続拡大していくための一つの手段として掲げられていたのであり、それ自体が目的とされていたということはないと、わたくしはその当時思っていたし、今も思っている。
「六〇年代末の大学紛争は、大学における学問のあり方をめぐって行われた」ように見えたとしても、それは政治運動のための手段としてのスローガンであって、その運動をしていたひとたちが、本気で「学問とは何か」という問いを出していたとは思えない。もしも学問と関係するものがあるとしたら、革命によって「王道楽土」が出現するまでは、不要不急の学問といった営みはすべて停止せよという、学問活動自体の否定であったと思う。だからもし、羽入氏が本書で主張しているような学問を、もしその当時の東大でしたいたら、それは論議の対象にすらならず、あっというまに「粉砕」されてしまったであろう。だがすでに研究生活に入っていたひとの中には、その問いをわがこととして受け止めたひとがいたのも事実であろう。山本義隆氏や最首悟氏や宇井純氏がそうであるし、上述のように養老孟司氏もそうであったのだと思う。
しかし、政治の季節といっても、本気で運動に挺身していた学生がそんなに多数いたわけではない。問題は、なぜ68年当時、それに共感する全共闘シンパ、ノン・セクト・ラディカルといったひとが多数輩出したかであろう。これについてもあまり納得できる説明を聞いたことはない。いちばん説得的であると思ったのは、橋本治氏のもの(「ぼくたちの近代史」河出書房 1992年)で、「全共闘シンパの人っていうのは、自分の分かるようにしか分からないの。何を共有するかっていう理論がないから、シンパシーって形でつながっちゃってるから、・・つながってる時は、つながってるの ―「一体感」っていう形で。でも「これは何でつながってるんだろう?」って根拠を探し始めるとよく分かんない。だからぐちゃぐちゃ。」「「大学入ってきて、こういう友達しちゃうってことが、全然なかったな」ってことになるから、全く次元を異にするチャンバラごっこというか、戦争ごっこが始まることによって、初めて「友達」が生まれてくっていう風になるのね」というものである。 うーんとうなるような説明で、いくらなんでもチャンバラごっこ?ということはあるけれども、要するに大学に入ってからの勉強というのが少しも面白くなく、ストがはじまってからの時間のほうがずっと濃密であったということなのだと思う。
わたくしは大学紛争が「学問とは何か」を問う運動であったとは思わないけれども、大学で学問といわれていたものが、学生たちにとって少しも血沸き肉躍るものではなかったことが、結果として、運動が盛り上がったこととある程度は関係しているとは思う。まだ、この時代の学生たちは学問というものに何ほどかの期待をよせていたのであり、学問が聖なるものという幻想もかすかには残っていたからこそ、その反動として、教授のつるしあげなどということがおこなわれたのであろう。
羽入氏は「学問とは何か」を真摯に受け止めたひとの例として、山本義隆氏の名前をあげる。氏は素粒子論のホープとされていたが、この紛争で全共闘議長となり、紛争後、予備校教師となり学問の世界から降りている。しかし、しつこい人もいるので、養老孟司氏は、その山本氏の書いた本「磁力と重力の発見」がある賞を受賞したときに選者であったが選評を拒否し、「山本義隆、こらお前、総括しろ」などと「運のつき」で書いている。山本義隆氏のその後の生き方と、その書いた本は、かれらが提示した問い「学問とは何か」に対する答えにはなっていないというのである。もしも、この紛争が問いかけたものが、「素粒子論? そんなものに何の意味がある?」であるとすれば、山本氏は答えていない、というのであろう。たぶん、養老氏はトガリネズミのヒゲか何かの研究をしていたはずで、養老氏はそれに命をかけていた。おれが命をかけていた研究を粉砕した。お前はその落とし前をどうつけてくれるのだ、そう養老氏はいう。だから養老氏は「学問とは何か」を考え続けたのだ、と。
その山本氏の生き方を「彼ほどの才能が埋もれていくのを筆者は惜しむ」と羽入氏はいう。しかし、そういう言い方はノーベル賞を崇拝するような世間的価値観にそのまま従ったものなのではないだろうか? 総じて、この本は「学問とは何か」と題されてはいるけれども、学問世界の全体に目配りしたものではなく、自然科学系統の学についてはほとんど一般常識的な見解以上のものは持ってはいないように思える。
本書で問われているのは、思想系の学問、あるいは人文社会学系の学問であって、羽入氏によれば、それは「人間はどう生きていけば良いのか、かくも“私”が生きにくいのはどうしてであるのか、“私”はどうしていつも人と違って変なことを考えてしまうのか、を問う学問である」ということになる。「何が哀しうて学問などやるか? “生きる意味を知りたいからだ”」などと驚くべきナイーブなことをいう。
しかし、これが「マックス・ヴェーバーの犯罪」とどう呼応するのかがさっぱりわからない。それが魅力的であったのは、ある年代の聖書にある言葉がどう翻訳されているかといった「事実」の探求によって「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という論文の根底に虚偽があると推理していく手続きにあるのである。その手続きはきわめて自然科学的で即物的であり、それが「人間はどう生きていけば良いのか」とかかわるとは、読者には思えない。かりに「人間は誠実に生きなければいけない」と羽入氏が考えているとして、ヴェーバーが「知的誠実性」を欠くということを証明したくて本を書き、読者がなるほどヴェーバーは知的に誠実でないと思ったとしても、それはヴェーバー個人についての判断であり、そこから人間一般の倫理に飛躍することなどできるはずがない。
「学問は人にどう生きるべきかを教える。なぜなら学問は、人が生きることに行き詰まった時に、生き難いと思われた時に、その悩みから、どう生きたら良いのかを模索する中から初めて生まれ出て来るものだから」と羽入氏はいう。これは「職業としての学問」でトルストイの言葉として出て来る「学問は無意味である。なぜなら学問は、我々にとって重要なただ一つの疑問、『我々は何をなすべきなのか、どう生きるべきなのか』という問いに何ら答えてくれないから」という見解にヴェーバーが肯定的であるように見えることへの羽入氏の反論である。
ここの「学問」という翻訳は間違いで、「自然科学」と置き換えるべきではないかとする見解があることは前に書いた。そうであるなら「自然科学」が答えないことは当然であるのかもしれないわけで、ヴェーバーの肯定も当然なのかもしれないのだが、もともと「自然科学」はそれを目指したものではないとすれば、このトルストイの言葉は、相手にないものねだりをすることにより、結果として「文学」的な何かを自然科学より優位におこうという策略でもあることになる。
そもそも『我々は何をなすべきなのか、どう生きるべきなのか』という問いを発することが、「西欧キリスト教的な何か」を裏からひそかに導入しているのかもしれないわけで、『我々は何をなすべきなのか、どう生きるべきなのか』を教えてくれるものがどこかに存在しているはずであるという前提を密かに持ち出してきている。
問題は、「自然科学」が答えないとはいえなくなってきていることで、『我々は何をなすべきなのか、どう生きるべきなのか』を教えてくれるものは《どこにも存在しない》という答えを、さらには《我々が生きることには意味がない》という答えを、それは出しているかもしれない、ということである。つまり、「文学」的な何かの優位はとっくに失われているのかもしれないことになる。
しかし羽入氏は「文学」的な何かの優位を疑っていないので、氏にとって、自然科学は手続きあるいは方法だけの問題となってしまう。「学問である以上、正確さの部分で妥協することは出来ない。・・論理的明晰が絶対的に必要となってくる。・・論理的明晰さというものは、真正な学問にとって本来的に必須なものである」などという部分を読むと、中沢事件における折原氏の批判を思い出してしまう。
中沢事件をあつかった西部邁氏の「剥がされた仮面 東大駒場騒動記」(文藝春秋 1988年)、「学者 この喜劇的なるもの」(草思社 1989年)などを読んでいると、羽入氏には悪いが、「羽入−折原論争」よりも、この中沢事件(造反教官報道の後、久しぶりに折原氏の名前を見たのは、中沢事件の報道でだったが、意外だったのが、折原氏が反中沢派の急先鋒であったことであった。折原氏は全共闘運動に肩入れしていたのであり、中沢新一氏はどうみても全共闘運動の側に人気がある学者であると思っていたので、なんでそうなったのか、不思議に思った)のほうがよほど「学問とは何か」という問いにかかわっていると思う。
西部氏は、「折原浩教授と学問論をする気に私にはない、いやそれを私は嫌悪する。最後の教授会の席上、折原教授の中沢批判を聞きながら、私の隣にいた村上(泰亮)教授が次のようにフランス語で書き留めているのをみた。訳すると「前現象学的、前解釈学的、前言語哲学的、前構造主義的」ということである。つまり、この教授の学問論にはマックス・ヴァーバーを別として、今世紀がすっぽり抜け落ちているのである」と書いている。中沢氏を批判する人は「百年おくれの実証主義」「専門主義」を奉じているということになる(「剥がされた仮面」)。
「大学というのは、ストランド街(ロンドンの繁華街)の舗道で生存競争にさらされたとしたら直ちに退化してしまうような珍種の生き物を保存している聖域であるように思われる」というヴァージニア・ウルフの言葉を西部氏は紹介している。西部氏からはやや批判的にあつかわれている長尾龍一氏などはその典型からもしれない。折原氏などもまたそうなのであろう。大学紛争が問いかけたものがあるとすれば、ストランド街では生きられない珍種の生き物がしていることはわれわれの生活と一体どんな関係があるのだ、ということであるかもしれない。折原氏は、その「ほとんど病気の域に達している」「誠実さ」によって、それまでの自分の生き方を自己批判し、ストランド街のための学問をしようと志し、挫折して、やはり自分は生存競争にはたえられない弱い珍種の生き物であることを自覚して、大学内部に戻ったのであろう。
「何が哀しうて学問などやるか? “生きる意味を知りたいからだ”」であるとしても、それはその人自身の問いであり、そうであるなら、学問はそう問う自分自身のためのものである。自分自身のために問いを探求しているひとに、なぜ大学がある場を提供し、給与を支払うのかは決して自明ではない。仕事が「他人の必要に応えること」であるとすれば、そこには他人の必要はまったく存在していない。あるのは自分の必要だけである。
羽入氏の答えは必然性のある内発的な自分の問題意識から出発した学問であるならば、他人の問題にも答えとなる可能性をもっている、ということである。自分の問題から出発していない学問は他人に響くものを持つ可能性がないから無意味であることになる。(ヴェーバーはそういう内発的な動機から学問を始めていないから駄目というのが羽入説であるが、内発性をもっていないとはわたくしには思えず、説得的と思えなかった。むしろ、詐欺を働いてでも自説を展開したいくらいいいたいことがたくさんあったひとなのではないかと思う。そして、「では、書いているヴェーバー自身をすら結局救うことの出来なかったヴェーバーの学問は、我々にとって果たして意味を持つであろうか。この疑問に答える能力も力量も、今の筆者は持たない。この疑問は本書ではこのままにしておこう」というのは完全な逃げであると思う。論理の明晰を欠く。ここは論理からは「意味を持たない」とせねばならない。そうでなければ、この厚い本を書いてきた意味はないのではないかと思う。) 「思想的な学問分野」は悩みをもつ「不健康」な人こそが来るべき場所であり、悩みのない「健康」なひとは、そういう分野に来るな、ということになる。世には「不健康自慢」というのがあって、自分がいかに傷つきやすい弱い人間であるかを自慢するひとがいる。三島由紀夫はそんなものはボデービルでもやれば雲散霧消していまうといったけれども、不健康は別に自慢するようなことではないと思う。
そうはいっても、ストランド街の舗道で生存競争にさらされたとしたら直ちに退化してしまうような珍種の生き物はすべて絶滅してしまえばいいということにもならないとも思う。生物には多様性があることが大事であり、今は弱く、ニッチで辛うじて息を潜めて生きている動物が、次の環境においてはうまく適応するということもあるから、保護しておいたほうがいいのだろうと思う。だが、スピノザはレンズ磨きで生活したといわれるし(というのは神話という説もあるらしいが)、多くの思想家は貴族などのパトロンの保護で生き延びた。大学という公的なものが保護しなくてはならないとは論理上はならないと思う。“生きる意味を知りたい”なら、それは余暇に考えるべきことであるかもしれないし、そもそもそうういう疑問への解答にアマチュアもプロもないのではないかという疑問も残る。“生きる意味”を考える専門家というのは何か変なのではないだろうか?
ヴェーバーの研究者が学生にはドイツ語を教えている場合、この人の給与は語学を教えているということに対してのものなのだと思う。それなら、それならヴェーバーの研究者が学生にヴェーバーについて教える場合、その人の給与の根拠は? わたくしが思いつく理由としては、この世にはいろいろな見方や考え方があることを知るのは有益であるということくらいしかない。しかし、そのためにはたくさん本を読めばいいではないかという反論には十分には答えられないように思う。
小谷野敦氏は「バカのための読書術」(ちくま新書 2001年)で、「中沢事件」について「実を言うと、その当時私は、中沢支持派だったし、村上(陽一郎)のこの文章(「事実でさえも呪物であってはならない」)を、心地よく思った。/ しかし、私は間違っていた、と今、思う。・・私自身が研究者として生きてゆき、いくつかの論争的な出来事に関わった結果、「事実」を根底に据えなければ個々人の主観だけがぶつかりあい、合意は得られず、暴力の介入を引きおこすしかない、と考えるに至ったからだ」と書いている。
わたくしもまた村上陽一郎氏から科学哲学の面白さを教えられた。「剥がされた仮面」における西部邁氏の反中沢派批判は、賛成するにせよ反対するにせよ、20世紀の学問に決定的な影響をあたえた文化人類学をはじめとする諸学問、科学哲学もふくめて西洋を相対化し、近代を相対化するさまざまな試みについて、かれらは何も関心がないし何の勉強もしていないではないかということである。文化人類学などは、それ自体が学問であるばかりでなく、他の学問に対してメタの存在でもありある。養老氏でいえば、トガリネズミの研究はやめて、解剖学とは何かという方向にいくことである。
小谷野氏は中沢氏の論を知っていて、あるときはそれを是とし、後に否定的となったわけである。ポスト・モダンの状況に自分なりの判断をしているわけである。しかし、どうも中沢事件当時、折原氏は中沢新一氏の名前すら知らなかったらしいのである。
反対派は、「中沢氏は数学をよく分からずに使っている」などと、ソーカルのラカン、クリステヴァ、ボードリヤール批判に通じるようなことをすでに言っている。明らかに中沢氏はポスト・モダン派に通じるひとであるし、事実、この人事は駒場にポスト・モダン派のひとを入れようということから出てきた話らしく、浅田彰氏の名前などもあがったらしい。ポスト・モダン思想というのは西洋近代批判なのだから、明治に西洋近代を受けいれるための装置の一つとして作られた東京大学に対するアンチという位置にあるのは明らかである。
小谷野氏は、「ユングのすべてはオカルトで、中沢新一のすべてはいんちき」という。むかし中沢氏の「雪片曲線論」(青土社 1985年)などを読んだことがあるが、何が書いてあるのか少しもわからなかったけれど、それでもフラクタルがどうとかカントールの無限がこうとか書いてあるのをみて、やはり数学も知らねばならないのか思って、数学基礎論の解説書のようなものを読んだことがある。結構面白くて、カントールの対角線論法などという奇妙奇天烈な論法のことはいまだに覚えている。可付番の無限とか、自然数の数と偶数の数は同じとかいうのも鮮烈な印象だったのかまだ頭にある。なんで読んだのか忘れてしまったが、P・C・W・デイヴィスの「ブラックホールと宇宙の崩壊」(岩波現代選書NS 1983年)も強い印象を残している本で、その第2章「無限大とは何か」を読んだのが先で、それで数学基礎論の本を読もうと思ったのかもしれない。カントールというひとはとても奇妙なひとだったらしい。自分の無限大の理論が神の栄光と結びつくものとしていたらしい(P・チュイリエ「反=科学史」 新評論 1984年) カントール自身は自分のしていることが物理学とか宇宙の理解といったことにかかわるとはまったく考えず、ひたすら宗教のほうに興味があったらしい。数学者はただただ数のことを考えているので、自分が物理学の基礎の研究をしているなどとは毛頭思っていないであろう。学問というのは何がどのように展開するか、まったく先が読めない部分がある。
中沢氏の著作は、学問を相対化するためのものであり、こわばった学問や硬直した研究に水をさす役割を持つのであろう。折原氏の学問観はあまりに硬直している。しかし、羽入氏の学問観が柔軟であるかといえば、とてもそうはいえない。そして大学紛争が問いかけた問いというのも(後からみれば)きわめて視野の狭い硬直したものだったのである。おそらく文化大革命やポルポト派の知識人観に通じるような学問観がその背景にあったのではないだろうか? だから本書で羽入氏がずいぶんと悲壮な口調で論じている「学問とは何か」という問題も、とても偏ったものになっている(自然科学はほとんど無視されているし、経済学などもほとんど視野に入っていないように思う)。
小谷野氏は「まず「事実」に就くこと。「バカ」はそこから始めるべきだし、頭が悪くても知識があれば、頭のいい相手を論破することもできるのだ」といっている。「マックス・ヴェーバーの犯罪」はまさにそういう本なのだと思う。羽入氏が「バカ」だとか頭が悪いとかいうのではない。羽入氏という無名のひとが、マックス・ヴェーバーという超有名人と「事実」という地平では互角に渡り合うことができということである。事実、ヴェーバーという「頭のいい相手」を論破していると思う。
それにくらべると、本書はマックス・ヴァーバーなどとはくらべるべくもない折原氏という人物を無理に「東大的学問」の象徴に仕立てあげて、藁人形に盛大な攻撃をしかけているような印象である。そして「東大的学問」の無惨ということについては、西部氏の本のほうがずっと急所をついていると思う。
ソーカルが「「知」の欺瞞」で問題にしたようなポストモダン思想の思考のやりかたがとても杜撰でありながらも(小谷野氏が中沢氏のすべてがいんちきというのはそのことであろう)、それでも大きな影響を人文社会科学の分野でもったのは、『我々は何をなすべきなのか、どう生きるべきなのか』への答えを自然科学は一切もっていないと思われていたためであろう。いくら杜撰であろうとも、とにかく答えはだしているのだからと。
しかし、自然科学の側から、それへの答えがどうやらいくらかはでてくるようになってきたことで事態がかわってきているのではないだろうか? E・0・ウイルソンの「社会生物学」などをみなはてんでに馬鹿にしていたけれど、どうやらそこから少しは芽がでて花が咲いてきているかもしれない。
そもそも西欧近代を用意したのは思想ではなく、石油だったのではないかという疑問も沸いてきている。ヴェーバーは「資本主義の精神」については考えたかもしれないけれども、化石燃料のことなどただの一度でも考えたことはなかったであろう。そして、折原氏も羽入氏もまた、化石燃料のことなど考えているようにも思えない。石油が枯渇したら、資本主義は変貌せざるをえない。「事実」が世界を変えていく。
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