与那覇潤 「平成史 1989-2019 昨日の世界のすべて」(文藝春秋 2021)最終回(「跋」)

 最後にふされている「跋」は全体で7ページほどで、一部はこういう出版物の例にもれず、本書の出版にかかわった方への謝辞である。問題はそれ以外の部分で、現在の日本の人文学の現状(惨状?)の指摘と、それへの批判である。
 2016年のトランプ当選&ブレグジット以来の排外主義と相互不信のなかにわれわれはいるのだが、学者さんたちはそれに対する有効な言説を何も提示できていない。
 第一次大戦と第二次大戦の間には綺羅星のように思想家を多く排出している。ツヴァイクフロイトホイジンガグラムシアーレントベンヤミンルカーチマンハイム・・・。
 しかし、と与那覇氏はいう。現在ではシュペングラーを気取る予言屋たち(E・トッドさんも?)が跋扈するのみ・・。『原発事故で世界は終わる・二酸化炭素で世界は終わる』と呼ばわる「エコロジー左翼の過激派」が大活躍している、と。
 とすると、グレタ・トゥーンベリさんの大人版? どうもわたくしはグレタさんという方の顔つきが好きでなくて、こましゃくれたというか、人間の眞を信じる気がまったくないというか? 「汝らのうち、罪なき者、まず石を投げうて」という言葉を知らないのか? 
 彼女以外の「エコロジー左翼の過激派」達の顔も、グレタさんに似ているかもしれない。一般に左派の欠点というのは「言葉しか見ない」点にあると思う。言葉のニュアンスあるいはその言葉を発している人全体を見ないということがあるのではなだろうか。
 与那覇氏はこの本が「歴史学者」として自分が著す最後の本である、という。氏は日本の大学の「人文学の分野」少なくとも「歴史学」の分野の現状に深く絶望していて、もうこんなところからは足を洗おうと決意したらしい。
はるか昔である1987年頃の中沢事件、あるいは2002年頃の羽入辰郎氏『マックス・ヴェーバーの犯罪』をめぐる折原浩氏の醜態などを思い出す。「俺は東大教授なるぞ! ヴェーバー学の大権威なるぞ! この自分をさしおいて、羽入の論文を評価できるものがいるか? 羽入の論文は間違いだらけ! そもそも論文の体さえなしていない、評価以前!・・と一人で息巻いていた。当時わたくしも面白がって、羽入氏の本と折原氏の論を読み比べてみたが、文句なく羽入氏の勝ち。
 中沢事件にかかわることによって、西部氏は大学を離れて在野のひとになったと記憶する。『学者 この喜劇的なるもの』はこの事件をめぐって書かれものだったと思う。
 最後のほうに、虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」が引かれている。与那覇氏はこの貫く棒を歴史と解している。
 わたくしは、俳句などの短詩形式のものはあまり解釈を限定しないほうがいいと思っているけれど、個人的には「去年と今年を貫く棒のようなもの」とは「命」あるいは「生命力」をいうものではないか?と思っている。
久保田万太郎の有名な「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」だって、何を言っているかなど考えなくていい、あるいは考えないほうがいい句だと思う。背景としては長男の死、同棲していた芸者さんの死といったことがあるらしいが、それもこれも含めて、あるいはそれを超えて「いのちのはてのうすあかり」なのだと思う。日本ならこれを辞世の句にしてもいいのかも知れない。
 わたくしはアカデミーという場所は、他では生きていけない、社会生活にうまく適応できない人間が集まる場所で、彼らのアジールとして機能していると思っている。わたくしは医者であるが、病院あるいは大学医学部というところだって、変人奇人をかくまってくれるアジール的場所でもあるはずである。わたくしも医師免許証一枚を晒しに巻くことができたから今まで生きてこられたのだと思っている。
 わたくしには、本書は(特に後半になって)少し力みが目立ってくるように感じる。現在の歴史学者は文献ストーカーで「調べもの屋」にすぎないと氏はいうのだが、その荒廃のなかから一人でも網野善彦がでてくることはないのだろうか?
 アマゾンで頼んだ氏の「歴史なき時代に」がそろそろ着くころかと思うで、大学文学部がかかっている病の診断について判断するのはそれを読んでからとしたい。
 ところで、今ふと思いついたことでさしたる根拠はないのだけれど、与那覇氏が批判する歴史学者の方々の歴史は時計によって刻まれているのではないだろうか? そうだとすれば、それはのっぺりとした平坦なものでしかありえない。そうではなく歴史というのは身体の中を流れる時間、ある時には濃く、あるときは淡く流れる時間、伸縮する、ひとそれぞれに異なって流れる時間の上に成り立つものであり、その流れる時間を読者に感じさせることができる本が本当の歴史の本なのではないだろうか?
 古文書はただそこにあるだけでは、文字通りの古い文書である。そこから当時生きた人々の息吹が蘇ってくる時、それは初めて「古文書」になるのではないだろうか?