中沢新一 「僕の叔父さん 網野善彦」

  [集英社新書 2004年11月22日初版]


 僕の叔父さんというのは比喩ではない。中沢氏の父の妹と網野氏が夫婦であったということであり、網野氏と中沢氏は血縁として親交があり、相互に影響を与え合った間柄であったことが書かれている。実際に網野氏の「蒙古襲来」「無縁・公界・楽」「異形の王権」などの著作の成立には、中沢氏および中沢一族との交際と議論がふかく関与しているらしい。そのことは本書をみる限り間違いないようである。「蒙古襲来」「無縁・公界・楽」「異形の王権」などは網野氏の著作の中でも、かなり正統な学問の範囲からははみだした部分がある本である。地道な古文書の読み手としての網野氏は本書にはいない。
 網野氏が歴史学者として異例のスターであったのは、これら正統的学問手続きからは何程か逸脱した著作によってであり、それゆえに正統派の学者からは仲間外れ的なあつかいをうけたようである。網野氏の死によってその主張が止んでしまえば、歴史学の分野からは、網野氏は急速に忘却されていくことになるのかもしれない。そういうことを考えると、あきらかに「いかがわしい」部分をもつ中沢氏と網野氏の密接な関係が明らかにされたことは、網野氏の著作の今後の読まれ方にとっては、必ずしもプラスにはならないのかもしれない。少なくとも網野氏の著作のスケールの大きさと、多分それと裏腹である、ある種の論理の飛躍は、中沢氏という存在を中間項とすると、読者にとってそれなりにすんなりと腑に落ちるものになるかもしれない。しかしあんまり簡単に腑に落ちてしまうことは、いいことではないかもしれないのである。それが事実を根拠としない「お話」として理解されてしまうかもしれないから。
 実は、この本を読んで一番印象に残ったのは、中沢一族の議論のなかででてくる「農業共同体を土台にしている日本の社会は、クロポトキンの言うような『相互扶助』という生物学的原理にもとづいてつくられている。欧米社会のような弱肉強食の競争原理ではなく、強いものが弱い者をいたわりながら、たがいに助けあってひとつの共同体つくっている」という議論であった(p126)。田中角栄も日本の官僚機構も終身雇用制度の会社も、あるいは談合も、おそらく、みなここに根をもっている。敗戦間際に日本の指導層が国体ということにあれほどこだわったのも、西欧風の価値原理では日本は運営できないと思ったからであろう。
 この議論は天皇制を議論する場ででてくるのだが、このような相互補助共同体は縄文時代に起源をもつとされる。網野氏は一貫して日本の非農業民にこだわった。日本には農業的原理とは異なるもう一つの原理があることを主張し、さまざまな場のなかからそういうものを探し出し、拾い出してきた。この部分を読んでいて感じたのは、橋本治氏が「ひらがな日本美術史6」で論じていた日本における縄文と弥生の相克という問題である。明らかに日本の(美術の)メインストリートには弥生がいる。縄文はつねにそれを刺激する脇役でしかない。網野氏が日本の歴史の中から探し出そうとした「何か荒々しいもの」「過剰なもの」「生命的なもの」「躍動するもの」といったものは縄文につながる何か、日本の歴史においてはつねに排除されようとされてきた何かなのではないだろうか? 網野氏の発想の根底には明らかに反権力と自由への希求がある。それは相互扶助や共同体とは異なる何かである。網野氏によれば、縄文時代の人間はもっと自由だったのであって、それが農業をいとなむようになってその必要上やむなく共同体を運営せざるをえなくなったのである。共同体は人間に決して幸福をもたらすものではない、それが網野氏のいいたいことだったのではないだろうか? そういう氏は徒党をくまず弟子を作らなかった。徒党と弟子をもたない学者は、神輿をかついでくれる人がいないので、死後は急速に忘れられるのだそうである。
 網野氏の重要なモチーフに飛礫があるが、その発想の震源が1968年の原潜エンタープライズ入港阻止の学生運動の投石であったことが、ここでいわれている。アジールへの関心ともあわせ、網野氏の根底に、支配されることへの強烈な身体的な反発があったことは明らかである。それが網野史学の人気の秘密であったのだと思われるが、それが網野氏の肉体に骨がらみの感情に根をおくものだけに、網野氏の死後に、その存在感が次第にうすれていっても、それでも網野氏が主張したことが力を持ち続けるのかどうか、それが問題として残されるように思われる。


(2006年4月23日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

僕の叔父さん 網野善彦 (集英社新書)

僕の叔父さん 網野善彦 (集英社新書)