吉田健一 「ヨオロツパの世紀末」

  [新潮社 1970年9月30日 初版]


 久しぶりに読み返してみて、本というのはこういう風でなければいけないと思った。何か考えてみたいことがあり、それについて、ある長さの文章を書くことで、自分が考えてみたかったことの輪郭が、はじめてはっきりとした形をとってくる、それが考えるということであり、文章を書く意味であり、本を出すということの意味である。そういう本来の本というのが最近あまりに少なくなってきているように思う。
 この「ヨオロツパの世紀末」という論についてはじめて知ったのは、1970年に河上徹太郎の「有愁日記」が刊行された時(同年4月新潮社より刊行)で、その中の「象徴派人生(二)」の章の末尾に、「吉田健一君が「ユリイカ」に連載している「ヨオロッパの世紀末」は吉田君の書くものでも従来と格段の円熟を示すもの・・・」云々というのを読んだときだった。吉田氏はすでに原書房からすでに全集を出しており、垂水書房版の著作集は古本屋に山積みになっていたし、さらにはそのころ「余生の文学」などという本を出して、書きたいことはもうみんな書いてしまった、あとは余生でいままでの繰り返しを書くだけ、というようなことを書いていたので、その吉田氏が今までとは格段に違う境地のものを書いているという河上氏の言が意外だった。
 それで刊行と同時に買ってきた。その「後記」に、「最初はビアズレイの絵や象徴派の詩に就て多少詳しく書けば」と思ったが、「仕事を始めてそんなことですむものではないことが解つた。」「ヨオロツパに、何か解らないことがあつたらそれに就て一冊の本を書くといいという格言がある。これは本当のやうであつてヨオロツパに就て今度これを書いてゐるうちに始めて色々なことを知つた気がする。」というのは、おそらく掛け値なしに吉田氏におきたことで、この本を書くことでヨーロッパへの吉田氏の態度が決まったのである。
 ここで吉田氏がいっていることはヨーロッパが完成したのは18世紀であり、そこで成熟し、文明期をむかえたヨーロッパは19世紀に入ると堕落し、野蛮で粗野なものとなってしまったが、その19世紀の野蛮を批判し、18世紀の文明を回復しようという動きが「世紀末」なのであるというものである。
 この本は「ヨオロツパの世紀末」というタイトルにはなっているが、実はヨーロッパの真髄はヨーロッパ18世紀にあるということを主張した本なのであり、吉田氏がこの本を書く過程で発見したのは世紀末ではなく18世紀なのである。
 読んでつくづくと感じるのは、これが学問の本ではない、学術書ではないということである。歴史家がみたらただ呆然としてあきれるであろうような本である。ヨーロッパ18世紀を論じながら、そこでの農民の生活などというものは一顧だにされない。でてくる人間はルイ14世であり、ヴォルテール、ギボン、ワルポール、デッフォン夫人、ヒュームなどである。貴族ないし、貴族社会に出入りする人々であり、その人たちが形成する社交の場である。
 「文明は人智が或る段階以上に達して始めて現れるものと考へられて、この文明の状態は我々が人を人と思ふといふことに尽きる・・・」というのが本書のキーワードである。フォースターの「ハワーズ・エンド」の中に、「この小説にでてくる人間は紳士か紳士のふりをしようとしている人間であり、あまりに貧乏な人間はでてこない。そういう人間をあつかうのは統計学者か詩人である」といった部分があるが、それに従えば、歴史家というのも統計学者の一種なのかもしれず、とにかくも本書はある論を提示したものであっても、学問的な主張をしたものではない。そもそも学問などというのが19世紀的なものだということになるのかもしれない。
 ギボンの「ローマ帝国衰亡史」を論じて、なぜローマ帝国が滅びたかということについてのギボンの説が事実その通りであったかどうかを論じても意味がない。国の滅亡とか戦争とか革命とかについて確かにいえるのはそれがおきたということだけであり、歴史家に求められるのは原因の説明ではなくて、それがおきた状況を提示することなのであるといっている。そうすると歴史家の数だけ違った状況提示があることになるのかもしれない。
 最初読んだときには感じなかったが、このたび読み返してみて、後の著作、たとえば「時間」などにくらべて、何かせわしないというか余裕のない書き方を感じた。いいたいことに追われている感じがあり、不機嫌な感じがある。とくに19世紀を論じている部分がそうであって、そういう俗悪への嫌悪感がありありと感じられる。
 第10章冒頭の「我々がヨオロツパの世紀末に覚える郷愁は再び戻つて来たヨオロツパというものの懐かしさである。」という文は、ああこれからは厭な19世紀ではなく、自分の好きなことを書けるのだという喜びの声にもきこえる。
 この本において、最大に嫌悪されるものは観念である。そこで神あるいは宗教、信仰が問題となる。吉田健一はヨーロッパを深く愛するひとではあったが、日本人であり、神を必要としない人間であった。しかしヨーロッパにはキリスト教がある。そこでおそるべきことがいわれる。「ヨオロツパのキリスト教の神はヨオロツパ人なのである・・・」「キリスト教の神がヨオロツパの世紀末でのやうに人間的になったことはなかった・・・」「このやうな神は我々にとつては一向に有難くないものであつてもそれが我々が信じる必要がないことがそれを信じるものには実在することを保障している・・・」 このように蒸留されてしまったものがそれでも宗教でありうるのか、わたくしにはわからない。ギリシャ・ローマ・ユダヤが合体してヨーロッパができたのであるとしても、吉田健一ユダヤが苦手なのである。
 このヨーロッパ19世紀嫌悪論を読んでいて感じるのは、世界の中でいまだヨーロッパ19世紀のままであるのがアメリカであるのだなあ、ということである。ヨーロッパ世紀末をになったのは少数の覚者であったのかもしれないが、そのあと、ヨーロッパは二度の大戦を経験し、日本は第一次大戦は経験せずにすんだが、第二次大戦という大惨禍を体験した。しかし、アメリカは南北戦争以後、自国内での戦争を経験していない。アメリカには永遠に世紀末がこないのだろうか?


(2006年4月23日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)

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