内田樹 「死と身体 コミュニケーションの磁場」

  [医学書院 2004年10月1日初版]


 「ケアをひらく」という、主として看護師を対象としたシリーズの一冊、ではあるが看護とか介護とかに直接言及した部分はないので、ケアという問題に関心があって本書を手にしたひとは呆然とするであろう。本書は内田がカルチャーセンターでした身体論の講演を医学書院の人が原稿にし、それに内田の若干の書き下ろし(おそらく前書き部分)を加えたものであるらしい。テーマが身体論であるのでケアとは直接関係ない。なんでこのシリーズに本書が収載されることになったのか、どうもそれがよくわからない。何か最近の本の作り方は安易であるような気がする。
 ある少年が少女に、「オレのこと好き?」と聞く。少女が「うん、好きよ」と答える。少年は「その『好き』じゃなくて!」という。最初の少女の『好き』は、「人間としては好きだけれど、異性としては興味がない」という意味である。それがどうしてそうだとわかるのかというと、質問に対して間髪を入れずに答えるとそうなるのだそうである。異性として好きな場合は、「・・・うん、好きよ」ということになるのだそうである。ほんまかいなと思うが、とにかく、文章として書いた場合には「うん、好きよ」として表現されるものが、「うん」の前にわずかな間があるかどうかで正反対の意味になってしまうわけである。
 また別に内田が書いていることであるが、子供たちがどこかに出掛ける相談をしているところにクラスメートが通りかかる。子供たちの一人が「ねえ、あなたも行く?」と声をかける。この「ねえ、あなたも行く?」が、本当の誘いなのか、「わたしは誘う気もないのに『ねえ、あなたも行く?』と声をかけるくらいにあなたの気分に配慮しているんだから、あなたも『あなたなんか来てほしくない』というわたしの気分にちゃんと配慮してね」という意味なのか、どうすれば区別がつくか? という問題もある。こういうことはコンテクストがわからなければ判断のしようがない。そしてコンテクストを読み間違えるということはしばしばあり、それはささいな恥から大きな悲劇までさまざまなドラマを生む。
 ということから、だから医療という基本的に対人関係に依存する場においてマニュアル化は限界があるとか、インフォームド・コンセントは難しいというような方向にいくのであれば、ケアにもつながるのであるが、そうは問屋がおろさない。師弟論、武道論、身体論へと展開していってしまう。頭の考えたことではなく、身体が要求することに従え。
 人間以外の動物にとって「死者」は基本的にモノである。「生体」と「死体」の間に「死者」おいたのが人間である、というようなところはすぐに脳死の問題に展開する議論であるが、そうならない。
 読む人が読めばケアに通じるものを潜在的に含んでいる本であろうが、一般には、内田の主張をわかりやすく述べた本として利用されるのであろうか?


(2006年4月23日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

死と身体―コミュニケーションの磁場 (シリーズ ケアをひらく)

死と身体―コミュニケーションの磁場 (シリーズ ケアをひらく)