(13) 文明

 文明の状態は我々が人を人と思ふといふことに尽きる・・

 「ヨウロツパの世紀末」の第2章から。以下前後の部分も引用してみる。
 「例へば我々が古代、或は少くとも十五世紀頃までのメキシコの文明といふ言ひ方に何か納得出来ないものを感じるのはその時代にメキシコで建築が如何に発達し、精巧を極めた美術品が作られたのであつても司祭が人身御供で自分が終始血だらけになつてゐるのを誇りにするといふ風なことがある集団を文明とは見做せないからで、それと同様にもしホメロスの詩で歌はれてゐるのがミュケナイ時代のギリシャであるならば二人の戦士が戦つて勝った方が負けた方の死骸を戦車の後に付けて引きずり廻すといふ種類のことが行はれたミュケナイ時代のギリシャは文明ではない。それ故に文明は人智が或る段階以上に達して始めて現れるものと考へられて、この文明の状態は我々が人を人と思うといふことに尽きるが。それは技術が或る所まで来るとか、或は幾人かの優れた人間が卓越した業績を残すとかいふことで得られるものではない。」
 
 わたくしの若い頃、ポスト・モダン思想というのが結構大きな力を持っていた(今でもある程度の力はあるのかもしれないが、かつてほどではないだろうと思う)。ここでのモダンというのは「西洋近代」のことで、ポスト・モダン思想というのは、「西洋近代」のものの考え方は現在の世界を支配しているように見えるけれども、それは偶然の産物であって、西洋のものの見方や考え方が優れていたからそうなったのではない。西欧の思想は西欧という地域でのローカルな思考の仕方なのであって普遍的なものではない。さまざまな地域のものの見方や考え方は、それがものの見方や考え方であるという点においてすべて等価であってそこに優劣はない、というようなものではなかったかと思う。
 吉田健一の「ヨオロツパの世紀末」も、「西洋近代」を否定的にみるものであった点でポスト・モダンの言説の一部として数えられないものでもなかったのかもしれない。氏はわれわれが西欧と思っているものはヨーロッパ19世紀という畸形のヨーロッパ、異常なヨーロッパであって、本当のヨーロッパは18世紀ヨーロッパなのだと言った。はじめてその論を見たときとても驚いたのであるが、その後少し勉強してみると、西欧の中では吉田氏のような見解は主流派ではないかもしれないが、一部に根強く存在するものらしいということがわかってきた。「ヨオロツパの世紀末」は吉田氏独創の論ではなく、西欧の一部に以前からすでに存在していた一つの思潮の紹介であったわけである。(もっとも氏の論の進め方は極めてユニークなものであり、世紀末の思想をきわめて健全なものと見るというアクロバットがおこなわれているのであるが・・。)
 
 世の中には、つねにその時代を支配している多数派に反対し、少数派に肩入れすることを自己の信条をとしているひとがある数存在する。西欧近代が世界を支配しているように見えていた時に、それとは違うものとして有力に見えたものの一つにイスラム圏であるのだと思う。イスラムの考えを積極的に支持するのではなくても、それを西欧に対抗するものとして評価しようとしていた。
 いまイスラム圏で目につくようになってきている動向は、吉田健一流に言えば文明ではないということになる。そして同時に、それに対する現在の西欧の反応もまた文明ではないということになるのかもしれない。
 現在の西欧も基本的には19世紀西欧の連続の中にあるのだとすれば、それも当然なのかもしれないが、カトリックプロテスタント宗教戦争で懲りて生まれた「寛容」の精神も第一次世界大戦の阻止には無力だった。その破壊と消耗に呆然としたにもかかわらず(あるいはそれ故に)もう一度世界大戦をくりかえすことになり、欧州は疲弊した。
 それに東西の対立という緊張がさらに加わったが、東側の崩壊でそれは解消したように見えたにもかかわらず。西欧文化圏内での対立とはまったく別種の対立が、予想もしていなかったところから出てきたというのが現在なのかもしれない。
 「人を人と思う」ということは、歴史の中でもきわめて例外的にしか出現しないことなのかもしれない。そして崩れる時には瞬時に崩壊する。
 ツヴァイクは「昨日の世界」で最初の章を「安定の世界」を題し、自分が育った第一次世界大戦以前の時代を黄金の安定期と呼び、「戦争とか革命とか転覆とかがあろうなどとは、何びとも信じなかった。過激なもの、暴力的なものはすべて、理性の時代においては、すでにありうべからざることのように思われていた」と書いている。オーストリア・ハプスブルグ君主国が永遠に続くもののように思われていた時代があったのである。
 

ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)

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昨日の世界〈1〉 (みすずライブラリー)

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