J・ル・ゴフ「子どもたちに語るヨーロッパ史」

    ちくま学芸文庫 2009年
 
 アナール派の中世史家が語る一筆書きのヨーロッパ史である。この本には「子どもたちに語るヨーロッパ」と子どもたちに語る中世の二つが収められているが、断然「子どもたちに語るヨーロッパ」が面白い。それで、文庫本で150ページ弱の「子どもたちに語るヨーロッパ」について書いてみる。
 一読して驚くのが、著者が抱く、ヨーロッパというものが実態として存在しているということへの確信の強さである。著者はヨーロッパ統合への強い希求をもっている。ヨーロッパを守り、維持していかなければならないという強固な信念を抱いている。これに類似したものとして以前に読んだのがゴンブリッチの「若い読者のための世界史」であるが、これも世界史といいながら、西欧以外はほとんどつけたしの実際には西洋史の本であった。
 パリから3時間の飛行でトルコのイスタンブールにつく。ここはヨーロッパである。しかし橋を渡って狭い入江をこえるとアジアになる。トルコはヨーロッパとアジアの両方に属する。モスクワから東にむかう。数時間でウラル山脈をこえる。そうするとヨーロッパからアジアにでる。
 著者によれば、ヨーロッパは地理的な概念であると同時に歴史が規定したものでもある。それで「ギリシャ人がヨーロッパを発明した」ということになる。「ヨーロッパ文明は、考え方や行動のしかたの基礎にある共通の精神、同じ文化的共同体への帰属感のうえに成り立っている。」 それを最初に指摘したのはいヒポクラテスなのだそうである。「荒々しいが自由を重んじるヨーロッパ人と、平和を愛し、戦争より技芸に興味をもつけれども、たやすく暴君や専制君主に従属してしまうアジア人」ということをいったらしい。
 ギリシャの遺産としては、民主主義(民衆の統治)、都市国家の市民の法の前での平等、公務参加への希求の3つがあるとル・ゴフはいう。ひとことでいえば「人間中心主義」である、と。
 ローマが征服した地域がヨーロッパの土台になった。ラテン語がヨーロッパの基本言語となった。そして多神教のローマがキリスト教にかわる。ローマ帝国の西側ではラテン語が、東側ではギリシャ語が話される。1054年、その二つが断絶する。正教会カトリック教会の分離(教会分離)である。この二つの分離は現在のヨーロッパの建設にとっても大きな問題となっている。たとえばスロヴァキア人とクロアチア人はカトリックセルビア人は正教徒である。また旧ユーゴのボスニアには多くのムスリムがいる。ここで著者は「民族的純血」などという主張は不毛であり、混血から生じた民族は、文明や制度の面から見てより豊かでたくさんのものを生み出すと、強くいっている。
 異民族はしだいにキリスト教に改宗していったが、それは今でいえば国際連合に加盟するようなものである、と著者はいう。
 8〜9世紀にかけてのフランク族カロリング王朝は、ガリア・ゲルマニア・イタリアを統一し、王朝の分裂後にまで大きな遺産を残した。フランスとドイツがのちのヨーロッパの中心をなす対となる。シャルルマーニュの宮廷で、キリスト教と再発見された古代ローマの遺産が結びついた。このヨーロッパこそが西ヨーロッパである。シャルルマーニュはまたギリシャ正教の世界でおこっていた聖像破壊の動きが西に及ぶのを防いだ。これはヨーロッパの人間中心主義の発展にとって決定的に重要であった。
 十字軍はヨーロッパの歴史に非常に大きな負の遺産を残した。軍事的拡張という精神を残し、相手の側に聖戦という対抗感情を残した。またこの十字軍のころからそれまでなんとか共存できていたユダヤ人が次第に迫害されるようになっていった。またユダヤ人ほどではないにしてもインドをでて15世紀にヨーロッパに到達したロマの民もまた迫害されることになる。
 ルネサンスとともに批評精神が生まれ、寛容の精神が現れる。古代の精神と福音書の精神が融合する。
 宗教改革によってヨーロッパはカトリックプロテスタントに分裂する。今日では北アイルランドを除いてはカトリックプロテスタントのあいだには敵意はほとんどみられないとしても。両者は四旬節と謝肉祭を共通にもつ。(著者は四旬節の厳格がプロテスタントのもので、謝肉祭の奔放がカトリックのものといいたいらしい。)
 科学技術は中国で発見されていたが、ヨーロッパで開花した。科学的思考もまたヨーロッパで進んだ。そこから「進歩」の思想が生まれた。著者は現在、「進歩」という考えがいたって旗色が悪いことを認めながらも、「わたしたちはそれが一時の事故にすぎなかったということになるように対処しなければなりません。ヨーロッパがまっさきに実現し、定義し、人類に差し出した進歩に向かって、ふたたび歩みはじめなければならないのです」と、また強くいう。
 フランス革命は、自由と平等をもとめたが、それは本来、寛容に結びつかなくてはならないのに、その反対になってしまったという。フランス革命はいまだにヨーロッパに左翼と右翼の対立という負の遺産を残しているともいう。ナポレオンによるヨーロッパ征服の野望はヒトラーにより繰り返されたともいう。ルソーにはじまるロマン主義は現在までヨーロッパ人の感性に強く残っているともいう。
 19世紀は機械とお金の資本主義の時代となった。新しいタイプの人間、技術者があらわれる。ナショナリズムという良い面と悪い面を併せ持つ運動があらわれる。
 19世紀の植民地主義は十字軍の再現かもしれない。19世紀はまたイデオロギーの世紀でもある。自由主義社会主義マルクス主義・・。自由主義は労働者を市場の法則の犠牲者にした。科学とイデオロギーの境界にダーウインがいる。その見解のいくつかは今日強く批判されている(と著者はいう)。著者によれば、イデオロギーは理想的なもの、すなわち目標でありめざすべき規範であるとすべきものであり、寛容な思考にもとづく論争の対象にするべきものであるとされる。また市場は社会の不平等と不正を助長する傾向があるので、国家による節度ある統制のもとにおかれなければいけないとする。
 著者は20世紀において第一次世界大戦の悲惨のあとにおいてもヒトラーユダヤ人大虐殺がおきてしまったこと、スターリンによるラーゲリについてを決して忘れてはならないとする。
 ヨーロッパはもはや世界を支配していない。しかしヨーロッパが結束すれば、アメリカや日本あるいはこれから台頭するであろう国々と同じくらいには強くなれるのであり、そうしなければアメリカ化、日本化の波に呑み込まれてしまうと、著者はする。ドイツとフランスが和解したのだから、それは達成できない目標ではない、ともいう。
 ヨーロッパ同士が相戦うことはもうないだろう。民主主義はいきわたり、死刑は廃止された。イギリスはもっとヨーロッパ人になるようにしてほしい。文化と文明のヨーロッパになるべきである。それがヨーロッパの切り札であると著者はいう。ギリシャ=ローマ、キリスト教ヒューマニズムバロック啓蒙主義を想起せよ、そう著者はいって、この短い論文を終える。
 
 著者はフランス人であり、そのエスノセントリズムが匂うような気がしないでもない。あるいは自国中心主義ではなく、自ヨーロッパ中心主義。
 現在、広い意味での西欧文明が世界を席巻していることは間違いない。さてそれは、西欧文明が優れていたためなのか、たまたま?西欧で発達した科学技術が西欧を軍事的に優位にしたのかである。優れたものが勝ったのではなく、強いものが勝ったに過ぎないのはないか? あるいは一般的にいって文明は野蛮に弱いのであり、西欧は野蛮であるが故に、東洋やイスラムの文明に優位にたつことができたのではないか? おそらく西欧で科学が発達したのは「たまたま」ではない。西欧文明というのは「モノ」ついて関心をもつというきわめて異例の文明なのである。多くの文明においては大事なのは「こころ」であって、「モノ」などというのはけがらわしい、論ずるも値しないものなのである。要するに西欧は「モノ」によって世界を征服したのであって、文明にとって一番大事であるはずの「人間の魂」の問題において勝利したのではないとするひとは多いはずである。さてそれでも、民主主義とか人間中心主義というのも西欧が世界にもたらしたものなのではないか? しかし、それは文明社会においてならどこにでも現れるものであって、西欧に固有のものとはいえないかもしれない。
 西欧もまた一つの文明ではあって、だからこそ民主主義も人間中心主義もそこに出現したのだが、それは西欧文明がなければ、世界に生まれなかったものではないのかもしれない。一番の問題は、西欧文明の中に潜む野蛮の要素を濃縮したような国がアメリカであって、そのアメリカが衰えたといってもまだまだ世界の中心にいるということなのであろう。ヨーロッパというときにはアメリカは決してその仲間には入れてもらえないのである。そのアメリカが世界の中心にいるというのは、その地政学的な利点と豊富な石油によるのであり、その思想的指導力によってではないと多くのひとが感じているのではないだろうか? わたくしなどはアメリカが今のようであるときに、「ダーウインの見解のいくつかは今日強く批判されている」などといってもらうと困るなあと思ってしまう。ものが分かった人に対してそのように言うのは構わないのであるが、前世がどうとか、「気」がどうとか、変なことを言っているひとが多いところでは、そういう発言はまずいなあと思ってしまう。
 本書の最大の問題点はヨーロッパの鬼子であるアメリカというものがまともに論じられていない点にあると思う。ヨーロッパはヒトラーを生む素地をもっているだけでなく、アメリカという奇怪な国を生む素地もまた持っているわけである。ヒトラーだってスターリンだって、それが倒れたのは何かの偶然であって、そのたどった運命は歴史の必然ではないのかもしれない。それらが勝利していれば、今頃は、民主主義などというのは過去の美しい徒花とされていたはずである。中華人民共和国はいまだに健在であって、それが将来世界を席巻しないとは誰もいえないだろうと思う。ロシアという国や中国という国がかつて共産主義をえらび、今は現在のようにであるのはそれなりの必然があるのだろうと思う(中国はいまだにマルクス主義の、共産主義の国なのだろうか? いまだに共産党と名乗る政党が支配しているのではあるが)。
 問題は、日本が明治のはじめに曲りなりにも西欧を受け入れ、例外的に成功してきた国であることにある。ギリシャもローマもキリスト教もなしにであるから、「機械とお金の十九世紀」だけが日本に残ったのかもしれない。それを苦しいと感じるひとがいて当然で、戦前の「近代の超克」も、戦後の「平和憲法」も、西欧をまるごと受け入れるのは苦しい、そこから外してくれ!、あるいはそこの例外にしてくれ!という叫びなのではないかと思う。
 医学という、科学の末席を汚してもいないかもしれないが、とにかくも科学と関係がなくもない分野にいる人間として、そのことがいつも頭から離れない。ロシアだって中国だって、病気への対処法は基本的には同じになってきているのである(漢方とかその地に固有の伝承の医療というものはあるであろうが、しかし本当の病気、というのは変な言い方かもしれないが、とにかくも何とかすれば何とかなるかもしれないかもしれない病気に対する対応については西洋医学の威力は圧倒的である。もちろん、その代償として、古来から医者の仕事の大部分を占めていたであろう何もできない状態への対処能力は著しく低下しているのであるが)。技術だけがその思想的背景なしに入ってきてしまっているのである。もはや和魂洋才などと嘯くこともできない。なにしろ、和魂などというものはわれれれのどこを探しても見当たらないのである。
 ヨーロッパというものをこれだけ信じることができるル・コフというひとは幸せなひとであると思う。
 

子どもたちに語るヨーロッパ史 (ちくま学芸文庫)

子どもたちに語るヨーロッパ史 (ちくま学芸文庫)

若い読者のための世界史

若い読者のための世界史