R・ポーター「啓蒙主義」

  岩波書店 2004年
  
 本文が100ページちょっとの本であるが(それに10ページ以上の訳者解説と20ページ弱の参考文書、6ページほどの日本語文献案内がつく。それぞれがとても充実している)、とても内容の濃い本であると思った。
 ポストモダン思想は一時の力をもたなくなったとされるけれども、それでも反=近代の思想はいまだに根強いものがある。しかし、わたくし自身は、近代をそんなに悪いものとは思っていない。
 批判するひとにとっての近代とは、「科学」であり「産業」なのであり、さらには「進歩」であり「理性」なのであろう。西欧で、そういう進歩への信仰が決定的に失われたのが、第1次世界大戦のときである。その後、ナチズムがあらわれ、ソヴィエトも崩壊した。近代の評判が悪いのはよくわかる。それでもわたくしには近代というものがそんなに悪いと思えないのは、近代とは啓蒙思想に通じる何かなのではないかと思っている点にある。もちろん、批判するひとにとっては啓蒙主義こそが近代をもたらした諸悪の根源であるのかしれないのだが。つまりわたくしは啓蒙主義の信者なのである。それで啓蒙思想、あるいは啓蒙主義には関心がある。本書はたまたま書店でみつけたものだが、自分の関心にこたえるものとして、大変面白く読めた。
 
 第一章「啓蒙主義とはなにか」
 イギリスでは啓蒙思想の評判はずっと悪かった。19世紀のヴィクトリア時代のひとびとは、それを「抽象的な理性」を過信する「浅薄で機械的」な思想であるとみなした。またロマン主義者は、お気楽な啓蒙主義者は「想像力」とか「感情」とか「伝統や歴史の有機体的力」とか「魂の神秘」を理解できない浅薄な人たちであるとした。またその「人間中心主義」がフランス革命とその後の人間性への犯罪を引きおこすことになったという。
 啓蒙主義は保守派からもポストモダン派からも評判が悪い。18世紀を「理性の時代」と誇ることには反発するものが多く、ロマン主義者からはそれは魂を欠いた時代であり、保守主義者からはあまりに急進的な時代と見えた。
 18世紀の啓蒙家は、デカルトの「きわめて明晰な理念」やライプニッツの合理性をきらった。啓蒙主義者は「合理主義者」ではないし、フィロゾーフと呼ばれた人たちは何よりも「批判派」であったのであり、実生活で生きる人々であり、説得をこころみるひとであり、ジャーナリストであり、活動家であった。その根底にあったのは「自分の頭で考える」ことの志向であった。
 
 第二章「目標は人間科学」
 啓蒙の精神の持主が心に期したのは本当の「人間科学」の追求であった。それは、ラ・メトリーにとっては、精密機械としての人間の生理学の探究、ロックにとっては、人間の思考メカニズムの探求、ヴィーコにとっては、未開状態から人間が抜け出る足取りと段階の探求、モンテスキューやヒュームにとっては、個人と社会全体の相互作用を支配する政治・経済法則の探求であり、ポープのいったように「人類にふさわしい研究対象は人間」だった。ヒュームは「道徳科学のニュートン」たらんとした。
 ルネサンスの研究家のブルクハルトは、「個人としての」人間の発見がルネサンスであったとした。しかし、その時期の人間像はキリスト教的であり、聖書の記載にしたがう完全な人間という像であった(「ウィトルウィウス的人間」)。古代ギリシャ的な「人間中心」で「地球中心」の像を信じていた(コペルニクスを除いて)。しかし17世紀を通じて地球が宇宙におけるとるに足らない星であることが明らかになってきた。カトリックプロテスタントの争いもおきてきた。人間についてはまだわかっていないとする見方が生じ、それを研究するためには「科学的な方法」が必要であるとされた。
 啓蒙の側のひとたちは、自然科学の方法により「学問が進歩」するとするベーコンの信念に鼓舞されていた。それはキリスト教の原罪もストア派の悲観も否定するものであった。ロックなどによって「白紙の状態」でうまれる人間ということが強調された。
 21世紀の今日でも、西洋文明は、啓蒙主義が描いた経済成長や、科学のイノヴェーションや、進歩に対する人間の飽くなき衝動という現世的なヴィジョンに帰依している。
 それはエデンの神話にかわる新しい神話なのだというひともいる。ロマン主義の夢想家であるブレイクは「暗黒の、悪魔の作業場」を弾劾し、その背後には「ベーコン、ロック、、ニュートンヴォルテール」がいるとした。
 
 第三章「啓蒙主義政治学
 バークなどの反フランス革命派は、啓蒙主義者の政治理念を「子供じみた合理主義」であると批判した。大半のフィロゾーフの政治論は床屋談義の域をこえていなかったのかもしれない。ルソーは「小規模の貧しい共和制」こそが市民の徳を育むとした。ファシズムの源泉のひとりとしてルソーの名をあげるひともいる。
 アメリカ独立戦争フランス革命のあとでは、人民による人民のための人民の政府、普通選挙、民主主義と自由、議会、選挙、代議制度、政党政治を、みな信じている。しかしフィロゾーフはこれらを支持したわけではない。フィロゾーフが活躍した当時において、議会は貴族の既得権益の牙城であり、政党は私的な利益追求のための派閥にすぎず、代議制度は腐敗選挙の温床であった。直接民主制古代ギリシャの過去の制度と思われた。その当時、住民の大半は文字も読めなかった。ドイツでは農奴がまだ存在した。だから、問題は人民を賢明に支配するか、不完全に支配するかということであるとされた。誰が権力を握るべきかを追求したのがモンテスキューの「法の精神」であった。それは専制政治よりは君主制をよしとするものである。啓蒙主義の思想家の目標は専制制度の広がりを食い止める手段の発見なのであった。そこに衝撃をあたえたのが、1776年のアメリカの独立宣言であった。それは共和制が近代においても可能であるかもしれない可能性を示したのである。
 
 第四章「理性による宗教改革
 上記のように政治にかんしてはフィロゾーフの態度は煮え切らないところがあった。しかし宗教に対しては一貫した。教会として組織された宗教が容認できないことは明らかであった。偽りの信仰に取り憑かれた個人は、けっして自分というものをもつことができないのだから。
 フィロゾーフたちは洗練された寛容の精神を誇ったが、宗教に対しては非寛容であった。啓蒙思想家は宗教一般を否定したのではない。ギボンはローマの宗教について、「一般の人びとはそれを本物だと信じ、哲学者は偽りだと考え、支配者は有用だと知っていた」といった。フィロゾーフの多くは宗教を二層で考えた、エリート用の「簡素で、純粋で、合理的な宗教」と、一般民衆用の「絢爛豪華な信仰」。後者の頂点がフランス革命時の「至高存在」の祭典であった。フィロゾーフたちは「合理的な宗教」として、キリスト教有識者が安心して信用できる最小限のものにそぎ落した。しかし無知蒙昧な一般民衆を導くためには、新約聖書に記録されたような「啓示宗教」も必要とした。
 16世紀から17世紀にかけての宗教戦争の悲惨を見、18世紀になっても、若い男女が修道院にはいり、天罰の恐怖に子供がおののくような状態をみて、フィロゾーフたちは、それらは絶対に否定されねばならぬとした。それらは断固として悪であった。「宗教がからめば、人間はどんな悪事でもおかす」(ルクレティウス)のだから。
 
 第五章「誰が啓蒙主義者か」
 「百科全書」などを購入したのは、上層専門家階級(法律家、行政官、官職保持者)であり、高位聖職者であり、地主貴族であり、地方の名士たちであった。しかし1780年代になって新しいタイプの啓蒙主義が生まれた。大衆向けのジャーナリズムである。そこには上流階級の特権全般に対する心底からの憎悪があった。無産者の世界に啓蒙主義を持ち込んだのは彼らだったのである。彼らの守護聖人は洗練されたヴォルテールではなく、お上品な社会にポピュリスト的にたちむかうルソーであった。どんなに急進的な考えを抱いていたとしても、啓蒙主義の指導者は育ちがいいひとたちなのであった。
 
 第六章「統一性か多様性か」
 啓蒙主義の大事な価値観の一つがコスモポリタニズムであった。普遍的な正義があると信じ、自然法を説いた。国際人を自認し、視野の狭い偏見を嗤い、頑迷固陋なナショナリズムを嫌った。ラテン語が衰退していくなかで国際語はフランス語となっていった。しかし啓蒙主義の歴史において、17世紀のオランダと1688年の名誉革命は重要である。
 17世紀のオランダ共和国は、民族的に多様で、プロテスタントカトリックもさらにはユダヤ人や異端までもいた。「総督」は君主からは遠いお飾り的な存在で、政治は地方分権的、、支配するのは貴族ではなく都市民であり、その富は土地からではなく商業から得られていた。それは啓蒙主義の理想を体現しているようにみえた。「専制支配からの自由」「宗教上の多元主義と寛容」「経済的繁栄」「平和的な外交政策」である。しかし啓蒙主義者で17世紀のオランダを賛美するものはいなかった。オランダ人は金に汚い、けちな商人であると軽蔑されたのである。だから、18世紀に入り、富裕金融家と貿易商人による寡頭支配体制となり衰微していっても誰も驚かなかった。
 イギリスもまた18世紀以前にすでに啓蒙主義の理想を体験したといえる。経験を通じての進歩というイギリス人の信念には根拠があった。だから18世紀イギリスの課題はすでにできたものを守り、それを有効に機能させることであった。そこでの問題は、個人が豊かになることと社会のまとまりは両立できるかということであった。利潤追求が野放しにされた場合、社会は分裂し、人と人の関係が疎遠なものとなるのではないかという怖れであった。それに対してスコットランド啓蒙は、利潤追求により経済が発展すると、消費社会が生まれ、それによってマナーが洗練され、社会は平和になり、感情も穏やかになり、同胞との結びつきも強固になると説いた。スコットランドは経済的には遅れていたが、彼らは、その将来が、社会の近代化と経済の発展にかかっていることを理解していた。
 ヨーロッパの啓蒙派はオランダを学ぶことには熱心でなかったが、イギリスは手本になりうるとした(ヴォルテール哲学書簡」)。しかしイギリスの政体は歴史のなかでたまたま生まれてものであったので、それをそのまま利用することはできなかった。フリードリッヒ大王やエカテリーナ女帝といった「啓蒙絶対君主」というものが生まれる余地がそこに生じた。中央あるいは東ヨーロッパでは「上」からの官僚的な啓蒙が展開した。一方、北アメリカでは、合衆国建国の父たちが、ゼロからの啓蒙の政体の構築という実験をおこなっていた。そういう中で、むしろフランスが例外だったのであり、フランス革命を生んだのが啓蒙主義であるとはいえないにしても、旧体制の不安定化に啓蒙主義者が貢献したことは事実なのである。
 
 第七章「運動か、それとも心性か」
 啓蒙主義の信念は「座して他の人びとの生き方を判断してはならない」ということであった。「その環境という文脈で理解し」「彼らについての知識を用いて自分自身についての理解を深めなければいけない」とした。啓蒙主義の思想は多くの小説のなかで表現されている。たとえば「ロビンソン・クルーソー」である。
 啓蒙の時代にベンサムによって提唱された死刑にかわる長期にわたる収監という刑罰については、それが人道的であるかいまだに議論が続いている。
 
 第八章「結論 ― 啓蒙主義は重要であったのか」
 フランス革命に害悪をみたものは、そのすべての責任をフィロゾーフに押しつけた。しかしフィロゾーフたちは具体的な政体を提案したりしたのではなかった。批判という行為によって、人間をもっとよく理解しようとしたのである。青写真を描くよりも分析しようとしたのであり、結論をだすのではなく、問いを発することのほうに関心があった。ただ一つの結論よりも両義性を重んじたのであり、それこそが「近代」なのであった。それはキリスト教が占有していきた人間の理解からの脱出であった。来世志向の枠組みから手を切ったこと、それこそが啓蒙主義の急進性の根幹であった。それはヨーロッパ世界を世俗化しようとした。フランス革命への反動として一時福音主義と教会組織が復活したこともある。しかし啓蒙主義以降、キリスト教が公的な文化を独占することはもはやなかった。ロマン主義とは魂から宗教が流出してしまったあとに残されたものだったのかもしれない。
 啓蒙主義の浸透により、宗教戦争に終止符が打たれ、魔女狩りや異端裁判が中止され、魔術や占星術がすたれ、悪魔とその手先といったものは信じられなくなった。超自然的なものが公的な生活の場から姿を消した。それにかわるものとして、たとえば「愛国心」が登場したのであるが。
 啓蒙主義の時代とは、多くの有力な世俗型のインテリゲンチャが勃興し、聖職者に挑戦できるようになった時代だったのである。教会の外部にあっても有識者が知識と執筆によって生計をたてることが可能になった。出版物という第四身分ができたのである。しかし19世紀になると啓蒙思想は支配体制の支柱となった。19世紀の実証主義は「陰鬱な科学」となった。現代の都市化された工業社会が直面する諸問題を生んだのもまた啓蒙主義であった。そしてそれを分析し解決するためにわれわれが用いている枠組みもまた、啓蒙主義の産物なのであり、現代を批判するための価値観の多くも啓蒙主義に由来している。科学もまた啓蒙主義の子である。
 「このように、今日もなお私たちは啓蒙主義の申し子なのである」と著者は結論する。
 
 わたくしが啓蒙主義に関心をもつようになったきっかけは、吉田健一氏の「ヨオロツパの世紀末」(新潮社 1970年)を読んだことだったように思う。そこで吉田氏はヨーロッパ文明の精髄は18世紀にあるというようなことをいっていた。最初に読んだときはこれを吉田氏の独創であると思って、何という奇矯かつ新鮮な見方と思って驚いた。今となってはこれはヨーロッパの一部の知識人にとっては常識的でさえある見方であることがわかってきたが、吉田氏がこれを書いた当時はそれを指摘するひとはあまりいなかったように思う。
 吉田氏のこの本のことを知ったのは、河上徹太郎氏の「有愁日記」(新潮社 1970年)の「象徴派的人生(二)」という文章の末尾で「吉田健一君が最近「ユリイカ」に連載してゐる「ヨオロツパの世紀末」といふ長編論文」は「吉田君の書くものでも従来と格段の円熟を示すもので、文明全体の核心を衝き、一寸類のない近代文明史が出来さうである」とあったのを見た時である。「一寸類のない」というのを信じてしまった。また石川淳氏の「文林通言」(朝日新聞での文芸時評を収めたもの)(中央公論社 1972年)では、「ヨオロツパの世紀末」を評して、「フランス革命以前の十八世紀文明は、いかに巨視的に見たにしても、ちとの異物もまぜずによく単純に「優雅」でありえたといへるものかどうか」という異論をとなえてはいたが、「記述は博捜にぎやかに、論證はときに定説をやぶつてひらめく」としていた。「定説をやぶって」いるのだと思った。
 吉田氏の論がとにかく新鮮であったということは、その当時、われわれがいかに深くマルクス主義的なものの見方にとらわれていたかを示すのであろう。ここで吉田氏がいっていたヨーロッパ18世紀というのが今にして思えば「啓蒙主義」のことなのである。つまりヨーロッパ文明の精髄は「啓蒙主義」にありということになる。
 しかし、「啓蒙主義」がフランス革命を生み、フランス革命ロシア革命を生んだとすれば、なんだか変である。吉田氏によれば、フランス革命などは19世紀の「野蛮」に道をひらいたようなものである。だから、ながく18世紀ヨーロッパの「優雅」と「啓蒙主義」は結びつかなかった。
 「ヨオロツパの世紀末」でとりあげられている18世紀ヨーロッパ人、ヴォルテールとかワルポール、デツファン夫人、ギボン、ヒューム、モルレ神父などという名前は、ヴォルテールやギボン、ヒュームはともかく、ホレス・ワルポールやデツファン夫人、モルレ神父などという名前はきいたこともなくて、吉田氏は何でそんな人たちを知っているのだろうといぶかしく思ったものである。それらの名前がリットン・ストレイチーの「てのひらの肖像画」(みすず書房 1999年)にみなでてくることに気づいたのは最近である。モルレ神父、ヒューム、ギボンはそれぞれが章立てされているし、デファン夫人とホラス・ウォルポールの恋は「メアリー・ベリー」の章でくわしく描かれている。そう思って読み返すと「ヨオロツパの世紀末」の中にストレイチーの名前は何回もでてくる。
 ストレイチーはブルームズベリー・グループの重要なメンバーの一人であり、吉田氏の留学先のケンブリッジでの指導者であったディキンソンはブルームズベリー・グループの周辺にいたひとである(Q・ベル「ブルームズベリー・グループみすず書房 1972年 による)。ブルームズベリー・グループヴィクトリア朝的ものに反発した(例えば、L・ストレイチー「ヴィクトリア朝の偉人伝」みすず書房 2008年)。一方、啓蒙主義者たちはカトリックの教会支配に敵対した。それらにはパラレルなものがあるように思われる。啓蒙主義者→カトリック支配 ブルームズベリー・グループヴィクトリア朝的偽善(すなわちヨーロッパ19世紀的なもの)、という図式である。
 18世紀の啓蒙主義者がそれ以前のカトリック的なものの支配を克服しようとしたにもかかわらず、19世紀を支配したのはヴィクトリア朝的な俗悪であった。それを否定し本来のヨーロッパである18世紀を取りもどそうとしたのが「ヨーロッパの世紀末」であるというのが、吉田氏のかかげた図式であったが、ここで「ヨーロッパの世紀末」といわれているものはブルームズベリー・グループがかかげた理想と深くつながるのではないかと思う。「ブルームズベリー・グループの人たちは、一方では俗物的なヴィクトリアニズムに反発して新しい生き方を模索したけれども、他方でヴィクトリア朝よりも昔の時代の古い生き方に固執しようとする面も持っていた。(中略)一八世紀に強い関心と愛着を寄せたのも、その表れである。」(橋口稔ブルームズベリー・グループ中公新書 1989年)ということであれば、吉田氏も「俗悪な現代日本に反発して別の生き方を模索したけれども、他方で古い生き方に固執しようする面も持っていた(たとえば「東京の昔」中央公論社 1974年)。十八世紀ヨーロッパに強い関心と愛着を寄せたのも、その表れである」ということになるのかもしれない。
  二十歳ごろから吉田氏を読んできて、六十歳を過ぎてやっとそんなことに気づくというのは随分とのろまな話であるが仕方がない。吉田健一氏は啓蒙主義者だったのである。河上徹太郎氏は吉田氏のことを「文明開化」だといっていたのだそうであるが、そのことの意味がようやく少し見えてきた。
 本書の最初のほうでは「イギリスでは啓蒙思想の評判はずっと悪く、19世紀のヴィクトリア時代のひとびとは、それを「抽象的な理性」を過信する「浅薄で機械的」な思想であるとみなした」ということがいわれていた。これは明らかにフランス革命への反発である。一方、ロマン主義者は、「啓蒙主義者は想像力、感情、伝統や歴史の有機体的力、魂の神秘などを理解できない浅薄な人たちであるとした、とされていた。だがフランス革命を生んだのはロマン主義に通じる何かであるという見方もまたあるはずである。
 啓蒙主義は右からも左からも評判が悪い。著者は、18世紀の啓蒙家はデカルトの明晰やライプニッツの合理性をきらったのであり、批判するひとという点では共通点をもつが、共通の思想とか主義主張をもったひとたちではなかったとする。大事なのは実生活であり、それを少しでも改善するにはどうしたらいいかを「自分の頭で考える」ことを志向したとする。イギリスからの批判はデカルトやライブニッツになされるべき見当違いのものであるとするわけである。一方、ロマン主義者は「実生活」には関心をもたないのであるから、啓蒙主義と対立するのは当然である。
 ヒュームは、人間の大半は「ものごとを浅薄にしか考えることができないため真理にまでは到達できぬひとびと」と「ものごとを深淵に考え過ぎてしまい真理を通り越してしまうひとびと」に二分されるとした(「市民の国について(下)」 岩波文庫 1982年)。ロマン主義者は後者であって、そうであるなら啓蒙主義者がロマン主義者からみて「浅薄」とみえるのも当然である。
 本書の原著初版は1990年だから、当然、9・11の前であり、サブプライム危機もおきていない。この訳書は2001年の第二版の訳だそうであるが、もし9・11の後に書いたとすれば、「21世紀の今日でも、西洋文明は、啓蒙主義が描いた経済成長や、科学のイノヴェーションや、進歩に対する人間の飽くなき衝動という現世的なヴィジョンに帰依している」ということを断定できたか否か、少し疑問の点もあるように思う。
 その点で興味があるのが、ブルームズベリー・グループの活動がヨーロッパが自らの文明への信頼を大きくそこなうことになった第一世界大戦の前後にまたがっていることである。ベルの「ブルームスベリー・グループ」は1914年以前、第一次世界大戦、1918年後をわけて論じているのだが、それがどのように影響をあたえたのかは読んでも今一つぴんとこなかった。
 初期のブルームズベリー・グループにムアの「倫理学原理」が大きな影響をあたえたことはよく知られている。清水幾太郎氏の「倫理学ノート」(岩波書店 1972年)は「ケインズ、ロレンス、ムア」と題する章からはじまる。そこで氏は「この書物にブルームズベリー・グループが感じた興奮と熱狂」と「今自分がそれを読んで感じる恐るべき退屈」ということをいっている。清水氏の本で紹介されている限りにおいてムアの本はまったく退屈なものであるとしか思えない。それに感激したブルームズベリー・グループのナイーブさというのはちょっと信じられない思いである。
 「倫理学ノート」では、主としてケインズとロレンスの対立が焦点になっている。ロレンスの批判をうけて、ケインズも「ヨーロッパ大陸の思想家たちが辿った十八世紀の啓蒙思想から十九世紀の歴史意識への転換」をまた辿ったのだという。「人間を動かす盲目的なパッション」をわすれていて、そのために「「美的鑑賞」という領域を不当に高く評価しすぎたことを、ケインズは反省する。
 「人間を動かす盲目的なパッション」ということであれば、ロレンスの出番である。わたくしは福田恆存氏の著作から思想世界に入門し、ロレンス的なものに若いときにいかれたのだが、今では、若気の過ちだったと思っている。ロレンスは歴史意識とはまったく違う位置にいたひとと思うが、ロレンスからみてブルームズベリー・グループの人間が「自分自身の堅い殻に閉じこもって、そこから喋っているのです。一瞬の感情の発露もなければ、一片一粒の敬虔な気持ちもありません」というように見えたというのはよくわかる。彼らは「合理主義者ではあるがシニックな人間」であって、このシニックな部分がひとをいらだたせるのである。ルソーがヴォルテールを攻撃したのもそういうそういうことが大きいであろう。
 しかし「人間を動かす盲目的なパッション」は《「新ヘーゲル主義」の曖昧で荘重で厳粛で深刻な言葉の氾濫》のほうに容易にいってしまう。これはちょうど啓蒙思想の正反対のものである。そういう荘重な言葉は決して「自分の言葉」にはならない。ヘーゲルの体系はしばしば宗教に近づく。それはしばしば「座して他の人びとの生き方を判断するもの」となった。 やはり問題はフランス革命である。
 吉田氏の「ヨオロツパの人間」(新潮社 1973年)に「フランス革命」の章がある。その前の「ヴォルテエル」の章の明快から一転して晦渋でよくわかないところが多い。「吉田君は理性と自由といふ二つの軸を使つて、「快楽の追求」を「精神の正常な働き」と見て、「優雅」な十八世紀の文明を説いてゐる。ヨオロッパ人がヨオロッパの地に、観念ではなくて、意識的に生活を徹底させたところに文明ができあがつたといふ説である。「優雅」は文明の必然的な性格なのだらう。しかるに、一七七六年のアメリカ独立につづいて、一七八九年、フランス革命に依つて成文の憲法が作られてから以後は、カアライルのいふ「憲法屋」の仕立てた観念の流行服が至るところに民主主義とともに普及するにおよんで、「ヨオロッパがヨオロッパでなくなる」はうに崩れだしたことになる。すなわち「ヨオロツパの歴史で恐らくは最も低劣な時代」である十九世紀がここにはじまる。(中略)「十九世紀の性格」を「野暮、野蛮、滑稽」また「愚劣、偽善、粗雑」と見て、そこに「複雑なものを感じさせる」原因は「観念に奉仕するといふことに尽きる」といふ巨視的な大観には、とくにこまかい分析を対立させる必要もない」(石川淳 前掲書)のはずなのだが、吉田氏は、「フランス革命は寧ろ十八世紀のヨオロツパそのものの到達せざるを得なかつた結論だつたと言へる」という。ただ、「十八世紀といふのは人間が人間の限界を熟知していた時代だつた」のに対して、ロベスピエェルでは「人間の限界が見失はれている」という。「人間あつての観念で」あるのに、「観念の価値」のために「人間が犠牲にされた」という。そしてフランス革命から後、人間に対して観念を優位におくことが始まったのだともいう。ヨーロッパには「論理をその決着まで追つて行かなければ止まない性格がある」というのである。十九世紀は科学の時代であるが、自由や平等という観念も科学における物質概念とおなじようなものとしてあつかわれたのだと。
 わたくしがなぜ啓蒙主義に親近感を覚えるのかというと、カトリック的な何かが嫌いだからなのだと思う。カトリック的な何かというのは変な言い方だが、人間は一人でいると不幸なのであり、自分を超える何かと合一する感覚をもてるときその不幸を脱することができるというような論法である。余計なお世話ではないか、ひとりで不幸にさせておいてくれと思ってしまう。こういう論法は福田恆存氏の著作「芸術とは何か」とか「人間・この劇的なるもの」で最初に触れた。そのころ世に跋扈していた進歩的文化人の能天気にくらべて何と深いのであろうかと、入れ込んだものである。
 そのころ福田氏から学んだのは、「個人のための愛の宗教」が「集団にとっては憎しみの宗教」となるというようなことである。もちろんキリスト教のことである。そのころの進歩的知識人の言動というのはこの「憎しみの宗教」説できれいに説明できるように思った。要するに言動は他人のためのものではなくもっぱら自分のためにのみなされているということである。他人より優位な立場にたつためだけに思想が道具として使われているのに、その利己的な動機にいささかも気づいていないのが不思議に思えた。指導者面をするのが嬉しいだけなのではないかと思えるひとがとても多かった。だから啓蒙思想などというのはとても胡散臭いものに思えた。
 福田氏から段々と離れるようになったのは、福田氏が結局《自分を超える何か》を信じることができていないのではないかと思うようになったからである。シェークスピアを訳して上演し、紀元節復活運動をしても、そこからは《自分を超える何か》が立ち上ってくるようには思えなかった。一度、福田氏の主宰する劇団の公演(「欅」だったと思う)を見にいったことがあるが、まるで学芸会であった。こんなもので《自分を超える何か》などと思った。実は三島由紀夫氏の《天皇》などというのも、福田氏の同類のものだと思っていて、自分以外のものをもたない進歩的文化人をからかうための冗談だと思っていた。氏の死のあとも、あれが本気だったのかどうか、未だによくわからない。
 福田氏の《自分を超える何か》には懐疑的になったのだけれども、その御輿であるD・H・ロレンスはそれを体で知っていたひとなのだと思う。そういう本物が少しはいるのである。それが側頭葉の変化によるのか、それはわからないけれども。そういう本物をそうでないひとがまねるのはみっともないと思うようになった。福田氏は「虎の威を借りろ」というのであるが。現在、福田氏の論法をうけついで駆使しているのが、内田樹さんだと思う。内田氏の論はとても面白く教えられるところも多いが、お師匠さんがユダヤ教レヴィナスであるためか、その論の骨幹はカトリック的な何かであると思う。それが出てくるたびに、その手には乗るかと思ってしまう。
 一方、吉田氏が一生にわたって追求したのはカトリック的な思考法の克服だったのだと思う。「魂の神秘」とかにいかないこと、「人間性の深淵」などといった空疎に逃げないこと、それはカトリックなものばかりでなく、ドイツ観念論的につらなる形而上学的なものすべてであったのかもしれないが。
 啓蒙主義は直接がカトリック教会の支配への抵抗としてでてきたものであるとしても、ドイツ観念論的なもの、形而上学的なものへの抵抗でもあったのだと思う。進歩的文化人が偉そうであったのはヘーゲル主義の尻尾をひきづっていたからで、啓蒙主義権威主義的でないのは、すべての権威をうたがうものだったからなのだと思う。問題は啓蒙主義が依拠する個人というのはとても弱いもので、この地上でそれが力を発揮できるときなどはあまりなく、これから先もさらにそれは続くだろうということなのだが。
 啓蒙主義には、もう一つ全然別のルートであるカール・ポパーからもたどり着いたのだが、この点についてはまた別の機会に考えてみたい。
 

啓蒙主義 (ヨーロッパ史入門)

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ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)

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てのひらの肖像画

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ヴィクトリア朝偉人伝

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ブルームズベリー・グループ

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