岡田暁生「クラシック音楽とは何か」(5)
岡田氏のいう「自己表現するロマン派」というのは、大きな視野でみれば、フランス革命の産物ということになると思うが、それと対立する「反=フランス革命」路線というのも、また西欧の思想のなかでつねに一定の勢力を占めてきている。わたくしが二十歳をすぎるころから親しんだ思潮もそういった「反=フランス革命」派であった。
最初にいかれた福田恒存はD・H・ロレンスを神輿にかつぐひとであったし、三島由紀夫とフランス革命の関係というと難しい問題になるが、あの最期あるいは晩年の天皇陛下万歳路線を横においておくと、三島はとにかく「明るい」ものが嫌いで、「暗い」方向を好むひとだったのだと思う。その点で三島は太宰治の系譜の属するひとであった(「明るさは滅びの兆しか。暗いうちはまだ滅びぬ」)。戦後民主主義派の能天気な明るさと対立する路線にわたくしはつねにひかれてきたように思う。
以前、清水幾太郎の「倫理学ノート」を読んでいて、D・H・ロレンスとブルームズベリー・グループとの対立ということを知って面白く思ったことがある。ロレンスもブルームズベリー・グループもどちらもビクトリア朝的道徳のようなものを仮想敵としたのだと思うが、ブルームズベリー・グループがそれを茶化す方向で対抗しようとしたのに対し、ロレンスはビクトリア朝的道徳を生命力に欠けた萎えた思想であるとして全否定した。そのロレンスから見るとビクトリア朝的道徳もブルームズベリー・グループも同じ穴の狢に見えたようなのである。
「倫理学ノート」にブルームズベリー・グループがそのころ刊行されたムアの「倫理学」に熱狂していたことが紹介されていて、そこに紹介されているムア「倫理学」のあまりに内容が空疎であることに唖然とした記憶がある。このムアの「倫理学」が現在の英米の哲学の主流である言語哲学の源流なのだそうで、それを知って、とにかく自分は欧米の思潮のなかでも主流派には一貫して共感できない人間なのだなということを思った。
なぜ、このようなことを書いているかというと、福田恒存、三島由紀夫とともに親しみ、結局、最終的に自分の神輿にすることに決めた吉田健一がブルームズベリー・グループの系譜のひとだと思うからである(特に、リットン・ストレイチー?)
吉田健一は反=観念論、反=カトリックの人というのがわたくしの見立てで、その点、D・H・ロレンスは長生きしたらカトリックにいっていたであろうとし、晩年、T・S・エリオットに入れあげていた福田恒存とまったく異なる立ち位置にいたひとなのだと思う。
ロマン主義というのはヨーロッパでの後進国ドイツが、イギリスやフランスを物質文明と腐し、自分たちは精神文明なのだから、彼らよりも上であるとする負け惜しみから生まれたとする説がある。ロシア正教を錦の御旗としたドストエフスキーもその系譜に属するということになるのであろう。われわれが親しんでいるクラシック音楽がイタリア・フランスのものよりもドイツ・ロシアのものに傾いているのもそのことと関係があるだろうと思う。
それで問題は「音楽での19世紀ロマン派」である。このロマン派によって開花したのが「自己表現」であると岡田氏はし、その祖はベートーベンであるという。その「英雄」でも「運命」でも「悲愴」でも「月光」でも「熱情」でも、あるいは中期の弦楽四重奏でも、それが「自己表現」であるかといわれると、少し違うような気がする。ベートーベンは人間にとって共通する感情の何かを自分は音によって表現できたと思ったのではないかと思う。それは自己表現ではなく、変な言い方だが、人間という「類」の表現であると考えたのではないだろうか? 人間という類には普遍的に共有される感情があるというような見方がまさにフランス革命の産物かもしれないわけで、その点、ベートーベンは間違いなくフランス革命の申し子なのかもしれないのだが、そういう類としての思考というような見方は、粗野で繊細さを欠くものでもあるので、われわれがベートーベンに感じるある種の野蛮さというのもまたそこに由来しているのだろう。
そのことは自身でも感じていたはずで、ベートーベン後期のピアノ・ソナタとか弦楽四重奏曲などは、自分の気持ちをひとに伝えるのではなく、今度は自分ひとりのために書く音楽に傾斜していく。その点、ベートーベンは公共的な音楽から私的な音楽まで一人でやってしまったため、後に続いた作曲家が大いに困っただろうということは容易に想像できるところである。
人間という類に共通の感情というような見方はどこかで《普遍》ということとつながるはずである。この《普遍》と、西洋音楽は西洋に固有のヨーロッパのローカルな民族音楽であるとする岡田氏の見方がどう関係するかである。《普遍性》の希求はギリシャに由来するヨーロッパのバックボーンの一つである。西欧クラシック音楽作曲技法に存在する非常に煩瑣な禁則も音楽の世界には普遍的に存在する正しいありかたがあるという信念からの探求の反映であるはずである。作曲について多くの規則ができあがっているので、勉強さえすれば誰でも一定の楽曲を作ることは可能である。
シェーンベルクが12音技法を発明?したときに、これでドイツ音楽の優位を100年保てるといったという話があるが、これも個々の作曲家の個性よりも法則のほうが上という信念を示しているのであろう。
西欧の文明を他の文明から区別するものとして、物質の尊重ということがあって、西洋文明を他から分別するものである科学もそれなしには生まれなかった。音は物質ではないとしても、一定の長さに張った弦というのはモノであり、だからこそピタゴラスの音階が生まれた。ピタゴラスの音階からはピタゴラスのコンマという不条理が生まれるが、そもそも二等辺三角形の対辺というきわめてありふれたものにさえ、無理数という不思議はすでに存在していた。
プラトンのイデアというのは、本来ピタゴラス教の徒であったプラトンが数学に潜む無理数という不条理を回避するために作り出したとするポパーの説がある。専門家にいわせるとポパーのプラトン理解というのはとんでもなくレベルの低いものであるのだそうだが、要するにいくら不条理に見えるものでも、それと対応するものがイデアの世界にあるとすることで、不条理を回避できてしまうということである。
普遍性への追求はヨーロッパという地域でのローカルな行き方である、などというとほとんど言葉遊びであるが、音楽の分野においてもヨーロッパはある普遍に達したのではないかと思う。岡田氏がいうように、「私たちが「クラシック音楽」と呼んでいるものは、18世紀前半から20世紀初頭、わけても19世紀に作曲されたヨーロッパ音楽の名作レパートリーのことであ」り、「20世紀は主としてアメリカ発のポピュラー音楽の世紀であった」のだとしても、ポピュラー音楽の語彙は19世紀のクラシック音楽の域を超えておらず、何よりもそのほとんどが歌詞をともなう音楽であるということは、ロマン派の自己表現の部分が主として歌詞という言語の表現として生き残り、声というどの楽器よりも感情表出に秀でた楽器によって表現されることになっているわけだから、21世紀の現在でもわれわれはロマン派の自己表現の世界に生きているともいえるのだろうと思う。ということは音楽の世界は19世紀ヨーロッパのままといえるのかもしれない。
ヨーロッパは18世紀ごろ「個人」というものを発見して、それがすくなくとも20世紀は世界を席巻した。21世紀になってもその勢いは続くと多くの人が信じていたにもかかわらず、どうも最近は雲行きが怪しいと感じているひとが少なからずでてきている。
とすれば19世紀の博物館であったクラシックのコンサート・ホールが、21世紀になりもっとアクチュアルな意味をもつ場になることだってないとはいえないのかもしれない。
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