三浦雅士編「ポストモダンを超えて」 平凡社 2016年3月

 タイトルと参加者の中に片山杜秀氏の名前があったので買ってきた。片山氏の書くものや言うことはいつも面白いのだが、まだ一部を斜め読みしただけだが、今のところあまり冴えていない。
 ポストモダンというのに興味があるのは、吉田健一の「ヨウロツパの世紀末」というのが一種のポストモダンの論なのではないかという思いがあるからということもある。吉田氏が否定した19世紀ヨーロッパというのが、ポストモダン陣営が否定したモダンとかなり重なるのではないかという変なことを考えている。
 ちらっと見たなかでは、第2章の「音楽論の現在」が圧倒的に面白い。ここでの報告者の岡田暁生氏の論にはとても迫力がある。以前から日本におけるクラシック音楽の作曲家とその作物に野次馬的な関心をこちらが持っているのは、日本のクラシック音楽というのは、江戸期まで日本にあった音楽を全否定して、いきなり自分達の歴史には一切存在しなかったものの構築を始めたわけであるから、日本の西洋受容の悲劇も喜劇もそこに濃縮されている筈と思うからである。いきなりベートーベンを手本に作曲を始めたりした人がいたわけである。
 それにしても本書を読んでも感じるのは、西洋とはベートーベンなのだなあということである。そして、ポストモダン陣営の(見えざる?)敵の一人もベートーベンだったのではないかとも思う。しかしベートーベン自身がすでにモダン批判をもちゃっかりとやっていて、それが後期のピアノソナタとか弦楽四重奏とかではないかと思う。要するにモダンとはロマン主義のことである。とすれば小林秀雄ポストモダン。西洋の学者たちがいったポストモダンの運動などはとっくに日本でもやっていた。いわく「近代の超克」。
 山崎正和氏の頑固な西欧中心主義が異彩をはなっている。
 巻末の三浦雅士氏の「あとがき」にあるチョムスキーへの論考には本当にびっくりした。
 「アメリカにおける思想の面白みは、プラグマティズムでもなければ、分析哲学でもない、・・進化生物学者たちによって担われてきた」というのにはまったく同感。