W・サローヤン「僕の名はアラム」

僕の名はアラム (新潮文庫)

僕の名はアラム (新潮文庫)

 村上春樹柴田元幸のコンビの企画で、昔文庫にあったがいつの間にか消えてしまった作のいくつかを復活させようとするものの一冊らしい。確かにサローヤンという名前も昔きいたことがあったが読まないままにいつの間にか消えてしまった。柴田さんの訳はJ・ロンドンの焚き火の話が圧倒的に面白かった記憶があり、それで書店で手にとってみて、柴田氏の解説が面白くて買ってきてしまった。
 といっても実は、面白かったのはそこで引用されている同じサローヤンの著「人間喜劇」を訳した小島信夫氏の訳者あとがきなのである。いわく「小説は悪人を書いてきた。悪人でないまでも悪的要素をこれでもか、これでもかと書くためにこそ、あらゆる手法を発展させてきたのである。・・個性とは悪のバライエティだといってもいいくらいなのである。」 日本の私小説なども、人間がいかに酷い醜い存在かということの暴露合戦だったのかもしれない。
 しかし、さらに凄いのはその先。「いったいバイブルというものを読むと、私の偏見からもしれぬが、キリストでさえも、善人とは思えない。天と地の間にある、この特殊な位置が、おそらくキリストを、いいようのないきびしさと孤独と逆説とに満ちさせたにちがいないが、時に悪人の相さえも呈する気がする。キリストには寛容の精神などない。寛容と見える場合にも、私たちは油断することが許されない。次に寛容は別の人に向けられる。寛容にさえもきびしさがつきまとうからなのだ。私たちは寛容をあたえられた場合にも、次におびえなければならぬことになりかねない気がする。」 うーん。
 わたくしなどはウッドハウスのジィーヴスものなどを読んでも、なんで西欧の人士があれほどウッドハウスを賞賛するのかよく理解できないけれども、それは、西欧を覆う罪の意識の重さを実感として感じることができないためなのだろうと思う。西欧の人たちはおそらくウッドハウスの描く罪の意識のない世界を読んで救われるのである。キリストの眼差しのない世界に憧れるのである。すべての人が罪人である世界はつらい。それで、このサローヤンの短編集は悪人のいない世界、「善人の部落」を描くものらしい。
 ところで、この短編集は原題が「My name is Aram」で、まさに「僕の名はアラム」なのだけれど、「僕の名はアラム」というのは日本語としてどうもしっくりこない気がする。「ぼくはアラム」「アラムって名前」「おいらはアラム」・・なんでもいいけれども、「僕の名はアラム」といういい方はしないような気がする。漱石の「我輩は猫である」を「I am a cat」と訳したら変である。福原麟太郎氏は確か「Here am I, a cat」と訳していたように記憶する。