梅田望夫「ウェブ時代をゆく −いかに働き、いかに学ぶか」(7)「うなぎくん」

 
 「うなぎくん」というのは、内田樹氏の「村上春樹にご用心」に紹介されている柴田元幸氏のインタビューでの村上春樹氏の発言のなかにでてくる。

 村上:僕はいつも、小説というのは三者協議じゃなきゃいけないと言うんですよ。・・僕は「うなぎ説」というのを持っているんです。僕という書き手がいて、読者がいますね。でもその二人でだけじゃ、小説というのは成立しないんですよ。そこにはうなぎが必要なんですよ。うなぎなるもの。・・僕は、自分とうなぎと読者で、3人膝をつき合わせて、いろいろと話し合うわけですよ。そうすると、小説というものがうまく立ちあがってくるんです。・・でもそういう発想が、これまでの既成の小説って、あんまりなかったような気がするな。みんな読者と作家とのあいだだけで、ある場合には批評家も入るかもしれないけど、やりとりが行われていて、それで煮詰まっちゃうんですよね。・・
 柴田:その場合うなぎって何なんですかね(笑)。
 村上:わかんないけど、たとえば、第三者として設定するんですよ。適当に。・・僕としては、あまり簡単に言っちゃいたくなくて、ほんとはうなぎのままでおいておきたいんだけど。

 これをうけて、内田氏は、それがブランショの「複数的パロール」、レヴィナスの「第三者」、高橋源一郎の「タカハシさん」などに近いというような難しいことを言い出す。でも内田氏のいうように、「「うなぎ」とはまた・・なんと喚起的なメタファーだろう。「オルターエゴ」とか「《私》と名乗る他者」とか、そういうややこしいことを言わないでずばり「うなぎ」と言い切るところが村上春樹の作家的天才だと思う」ということであるのなら、融通無碍のうなぎのままでおいておいたほうがいいように思う。
 文章を書く場合、書く人がいて、読む人がいる。多くの場合、最初の読者は自分自身である。倉橋由美子氏のいう「私の中の彼」である。しかし、この「私の中の彼」は自分自身でもあるのだから、「自己内対話」はすぐに“煮詰まって”しまう。そこで自分のそとにいる第三者に書いたものを提示する。それにより文章は公共のものとなり、“煮詰まる”ことを予防できることになる。しかし読者であっても愛読者あるいは理解者などというものは危ない。それらの内部でだけで対話を続けていると、やはりすぐに“煮詰まって”しまう。必要なのは理解しないひと、わからないひと、誤解するひと、関心のないひと、である。
 柴田元幸氏が東大でおこなった翻訳の授業をおさめた「翻訳教室」(新書館 2006年)に、ゲストとして招かれた村上春樹氏の発言が収録されている。

 インターネットでウェブサイトをやっていたときは(読者の声を)全部読みました。僕がそのときに思ったのは、一つひとつの意見は、あるいはまちがっているかもしれないし、偏見に満ちているかもしれないけど、全部まとまると正しいんだなと。・・
 僕は、正しい理解というのは誤解の総体だと思っています。誤解がたくさん集まれば、本当に正しい理解がそこに立ち上がるんですよ。だから、正しい理解ばっかりだったとしたら、本当に正しい理解って立ち上がらない。誤解によって立ち上がるんだと、僕は思う。・・
 だから僕がいつも思うのは、インターネットっていうのは本当に直接民主主義なんです。だからその分危険はあるけれど、僕らにとってはすごくありがたい。直接民主主義の中で作品を渡して、それが返ってくる。すごくうれしいです。

 うなぎくんというのは、ここでいえば、小説を読むすべてのひと、読んだが「つまらない」と抛り出したひと、そんなもの読む気がないねというひと、小説なんか読まないという信条のひと、生活がいっぱいで小説を読むどころではないというひと、そういうすべてをふくんだなにかなのだと思う。もっと拡張すれば「みんな」である。
 《一つひとつの意見は、あるいはまちがっているかもしれないし、偏見に満ちているかもしれないけど、全部まとまると正しい》というのが、《「みんなの意見」は案外正しい》と合致するのか、不特定多数無限大への信頼につながるのかというのは、非常に微妙な問題である。村上氏は『正しい理解というのは誤解の総体だと思う』というのであるから。いわば、誤解への信頼が基礎になっているのであるから。
 「ブログ炎上」などというのは、“煮詰まって”しまったということなのであろう。そこに欠けているのは「誤解への信頼」なのだと思う。
 プライヴェートに日記を書くとすぐに“煮詰まって”しまうと思う(わたくし自身は、書いた経験がないので想像だけれども)。それは“本当のこと”を書かねばならないという圧力があるためである。ブログなどに「日誌」を公開するばあいには、自分に不利なこと、公表すると恥ずかしいこと、書くと自分の本性がばれることなどは書かないことが前提になっているから、いたって気が楽である。「ちょっと気どって」(@丸谷才一)書いていい、あるいは書くべきであるというのは、精神衛生にとてもいい。そして自分の書いた文章が自分が思ってもみなかった読み方をされる可能性があることも、とても楽しい。そういう読み方というのは「私の中にいる彼」からは期待できないものであるから。
 優れたテキストというのは、誤読の余地を豊富にもっているものなのだと思う。そこで生まれた「誤解」は新たな「問題」を提出する可能性が高い。その「問題」をめぐってまた誰かが新たなテキストを書いていく。そのようにして「知」がひろがっていく。
 グーグルのしようとしている情報の関連づけ、文脈づけというのは「誤解」よりも「正解」のほうにむかっているような気がする。秀才というのは「正解」を目指すのである。しかし「正解」からは思ってもみなかったものは生まれてこない。鈍才の「誤解」がときに「正解」をしのぐことがあるのかもしれない。ちょうど進化の過程の突然変異のように。もちろん、進化に有用な突然変異があらわれる確率はきわめて低いのであるが・・。
  

村上春樹にご用心

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