江國香織他「新しい須賀敦子」 村上龍「ラスト ワルツ」

 

新しい須賀敦子

新しい須賀敦子

 須賀敦子の本は「ミラノ 霧の風景」をはじめにかなりのものを読んでいると思う。素晴らしい日本語を書くひとというのが、誰でもそうなのかと思うけれど、第一の印象で、ユルスナールを読んだりしたのも、氏の本でそれを知ってということであったと思う。
 謎の部分もあって、その第一が信仰というである。氏の本を読んで感じる孤独とそれと表裏の関係にあるようにも感じられる強さがともに信仰とその根においてかかわっているのであろうとは思うが、やはりよくわからない部分が残る。
 日本の女子の学校の多くがキリスト教を背景にしていることが日本の文化にあたえている影響は決して小さくはないのではないかと感じる。
 そういう謎の部分が本書を読んでも明かされるということはないだろうが、書店で立ち読みして、江國香織氏と湯川豊氏の対談、特に江國氏のいっているところが面白く、それで買ってきた。
 
 
ラストワルツ

ラストワルツ

 村上龍村上春樹の両名は日本で今小説を書いているひとのなかで飛び抜けた能力の人であると思うが、私見では春樹さんは最近調子が悪く、龍さんの書く小説はちょっと小説というものから少し外れてきているように思う。
 このエッセイ集の「最近、読書量が減った」という文では「この20年くらい、小説はほとんど読まなくなった」と氏は書いている。また別のところで、小説というのは「言いたいことを言う」手段ではなく、「本質的な疑問を提出する表現」だ、と書いている。小説というのが何かのための手段かどうかがわたくしにはわからないのだが、氏が考える小説が多くの小説好きの考える小説とは少しずれてきているのは確かではないかと思う。その点では春樹さんの書く小説のほうが従来からの多くのひとの小説観に合致しているのかもしれないが、最近は合致しすぎて、物足りない感じになってのかもしれない。
 「実はわたしの肺活量は6000近くあった」では、氏は幼稚園のころから「お前はサラリーマンにはなれない」といわれていたのだそうで、それで身近の「非サラリーマン」モデルが開業医で、医者になるしかないかと考え、高校は進学校で当然理数系で、3年のときは医学部進学クラスにいたのだそうであるが、高校2年くらいからまったく勉強しなくなり、医学部志望がだめになったのだそうである。全共闘運動などの反体制運動とヒッピー運動の影響で勉強しなくなったのだそうである。わたくしは周囲からお前はサラリーマンにはなれないといわれたことはないが、高校1年くらいの時、「ヤバイ、サラリーマンにはなれない」と自覚するところがあり、それで医学部をえらんだ。氏のいうように「どうやって生きていくか」を考えたのではなく、「根性」とか「自衛隊体験入学」とかへの適性がゼロであるということを自覚しただけなのであるが、世にサラリーマンに向いていないひとはたくさんいるだろうと思う。そういう人たちの多くを救済していたのが大学の教員という仕事、特に文科系の学問分野であるように思うのだが、最近、文科系、人文科学系の学問への風当たりは強い。サラリーマンにはむいていないひとにはこれからいよいよ生きにくい時代がくるのではないかと思う。
 村上氏は、誰も本気になって文化としてのバブル、文化としての全共闘運動を検証しようとしていない、それどころか、高度成長や終戦直後までまるで存在しなかったように「置き去り」になっている、という。80年代という「戦後の焼け跡から出発して思いがけず金持ちになって有頂天になっていた無知蒙昧丸出しの時代」、どこも底抜けに明るく、デフレのデの字もなかった時代を完全に忘れてしまっているという。今読むと氏の「テニスボーイの憂鬱」はそれを描いた希有な小説だったのかもしれない。
 本書が、左開きという洋書スタイルで作られ、横書きになっているいる意味がよくわからない。