柴田元幸「代表質問」

   新書館 2009年7月
   
 柴田氏が、ギャラガー、カッチャー、パワーズ、リンク、ダイベック村上春樹、ユアグロー、パルパース、吉田日出男、沼野充義内田樹岸本佐知子にしたインタビューと、柴田氏創作のアーヴィングへの架空インターヴューを収めたものである。この中で読んだことがあるのは、村上春樹内田樹の両氏だけである。
 ここでは内田氏へのインターヴューを主としてとりあげる。このインターヴューは内田氏の「村上春樹にご用心」(アルテス・パブリッシング 2007年)の出版記念におこなわれたものということである。
 そこで内田氏は、これは村上春樹にささげる分厚いファンレターであり、ぜんぜん客観性のない「贔屓の引き倒し」であり「えこ贔屓」に満ちたものであるといっている。そういう主観性べったりな物言いは、当然のことながら学問的には許されることではない。しかし、と内田氏はいう。自分よりあまりに大きな存在と対する場合には、その前に己を虚しくして身を投げ出し、ひたすらそれを讃えるといういきかたしかない。そうしている自覚が著者にあり、読者に「この本はものすごい主観的バイアスがかかっていますよという情報を告知してさえいれば、ぎりぎりの学術性は担保できる」のではないかといっている。
 これを読んでちょっと驚いたのは、以前「村上春樹にご用心」を読んだときに、これはファンレターであって一切の客観性のない本である、などというようなことはどこにも書いてなかったように記憶していたからである。ただ「村上春樹にご用心」というタイトルだけが解せなかった。「内田樹村上春樹論にご用心」というふくみだったのだろうか?
 作家と批評家の関係において、批評家が作品についていろいろと偉そうなことを書く。作家は「ご大層に、うるさいな。そんなことをいうなら、お前が書いてみろ」と思っているということはあるだろうと思う。村上氏もまたそう思っているに違いない。自分についての批評は一切読まないそうである。
 そして「村上春樹にご用心」において、内田氏が己を虚しくして、ただ村上氏を賛美してとはとても思えない。
 このインターヴューにおいて議論されるのは、なぜ村上氏の作品が世界中で読まれているのかということである。柴田氏は、ハルキは何らかのかたちで hit the nerve するといわれているという。日本語では琴線に触れるだろうか? 読んだひとの胸のなかで何かがゴーンと鳴るのだ、と。
 村上氏の作品が世界中で読まれているのは事実である。それは何故なのかという仮説を内田氏は提示する。
 フィンランド語に翻訳された村上作品を読んで、あるフィンランド青年の nerve が hit されたとする。しかし、その青年にはなぜ胸のなかで何かがゴーンと鳴ったのかはわからない。そこに内田氏がでてきて、それはですね、こういうわけなんですと教えてくれる。かりにその青年がなるほどそうかと思ったとして、それによってその青年のなかの胸の響きはより豊かになるだろうか? 個別の事象を一般論で説明することで、その個別の事象の理解はさらに深まるだろうか? 批評にはいつもそういう問題がついてまわる。
 内田氏の提示する仮説は以下のようなものである。村上氏がさまざまな社会状況のひとたちから支持されているとすると、ある特定の状況をうまく描いているからということはありえない。この世に存在するものは常に変化する。そういう個別のものではない、この世に存在しないもの、この世に欠けているものを村上氏の作品が指し示しているからこそ、その作品は読まれるのである、と。
 その存在しないものとは何か? 「村上春樹にご用心」では、ある場所では「死者たちの切迫」といわれ、ある場所では「父の不在」といわれる。「死者たちの切迫」とは、「死者が欠性的な仕方で生者の生き方を支配することである」というのだが、欠性的というのはわかりにくい言葉である。死者はその場に存在しない(あたりまえである)。しかし、その存在しないことによって、かえって生者の行動を規定する、というようなことらしい。
 「父の不在」の「父」とは、生物学的な父ではなく、「聖なる天蓋」「すべての価値の最終担保者」、われわれの世界システム全体を説明してくれるような、世界を一望俯瞰する視座のことであるという。どのよなものを「父」とするかは、それぞれの社会で異なる。だからローカルな「父」をえがいても決して世界性を獲得することはできない。
 しかし、「ローカルな神」が存在しないことの不安は普遍的である。「「ローカルな神」というのは価値の担保者を切望する我々の無意識な欲望がつくり出したイリュージョンに過ぎない。実際には、「父」なんかどこにも存在しない。誰も世界の秩序を担保していない。世界を満たしているものには何の価値もない。そのような「システムの底抜け」についての恐怖は、世界中のみんなが持っている。実は我々の世界では誰も「聖なる天蓋」の柱を支えていないんじゃないかという恐怖は世界共通」であるというのが内田氏の村上氏の作品がなぜ世界中で読まれるかという疑問への解答である。なんだかニーチェの「神は死んだ」とカミュの「シジフォスの神話」を足して二で割ったような話である。
 村上氏の作品が世界中で読まれているということから、それは存在しないものを描いているから、という仮説を導く手続きは、内田氏も自認するように、とても学問的に成立するものではない。そして、《「ローカルな神」が存在しないことの不安》を描いている文学など世にゴマンとあるはずである。あるいは、現代のほとんどの文学のテーマはそれではないだろうか? 《「ローカルな神」が存在しないことの不安》を描いていることが村上氏の作品が読まれる理由になるはずはない。もしどうしてもそれを関係づけたいのであれば、それをうまく納得できるように描いているという、もっと地に足がついた検証が必要になるはずである。
 村上氏の文学が読まれている理由はもっと簡単で、「お文学」ではないからだと思う。村上氏が「柴田元幸と9人の作家たち」でのインターヴューでいっている(「村上春樹にご用心」からの孫引き)「(既成の小説は)みんな読者と作家のあいだだけで、ある場合には批評家も入るかもしれないけど、やりとりが行われていて、それで煮詰まっちゃうんですよね。そうすると「お文学」になっちゃう」の「お文学」である。たぶん「お文学」の世界では、《「ローカルな神」が存在しないことの不安》を描くやりかたについても読者と作家(と批評家)のあいだで暗黙の了解ができていて、その約束事のなかで作品が書かれるから、なにもあたらしいことがでてこないのだと思う。村上氏はこのインターヴューで「うなぎ説」という変なことを言いだすのだが、小説を書くときには、作者と読者とうなぎの三者が必要なのだという。ここでのうなぎとは、「お文学」の世界のそとにいる素人のことなのであろうと思う。
 さて、内田氏は、村上氏の長篇小説は、「この世界の秩序を担保するものは実はどこにも存在しない。にもかかわらず無意味な世界で生きてゆかなくちゃならない。正しい生き方のマニュアルが存在しえない世界で、人はなお正しく生きることができるか」という、われわれが目をそむけてみないようにしている問いを、物語を通して問うているのだという。一種の「逆聖書」であると(柴田氏は「裏聖書」というが)。
 この「逆聖書」というところが語るに落ちている部分で、このあたりは典型的なカトリックのレトリックであると思う。世界にはあるものが欠けている。しかし、なぜ欠けている、不在であるとわかるのか? それはわれわれが完全である状態というものを知っているからである。なぜ、それを知っているのか、完全である「神」が存在するからである。「神」が存在しないならば、われわれは欠けていることに気がつきさえしないはずである、というようなレトリックである。「正しい生き方のマニュアルが存在しえない世界」という言い方で、「正しい」という言葉が導入されてしまう。それは「神」なしには存在しえない言葉であるということが、そこで同時に導入されてしまう。
 内田氏は村上氏の文学の解説をしているのではなくて、レヴィナスの哲学の紹介の手段として村上氏の文学を使っているのだと思う。内田氏は、1989年、離婚してぼろぼろな精神状態で自分が訳したレヴィナスの文章を読み、その文章が自分に呼びかけてくるのを聴いたという。その言葉の一つ一つが身に沁みたという。内田氏は本当のことを言っているのだと思う。その時、内田氏にとってのレヴィナスが把握され、以後それが内田氏の世界を測る物差しとなった。そのぼろぼろの状態で読めた数少ない文学者として村上氏がいたという(あとはチャンドラーとフィッツジェラルド)。村上氏とチャンドラーとフィッツジュラルドは三者ともにカトリックへの親和性があるのだろうか? レヴィナスユダヤ教徒であるからカトリックではないはずだが、一神教徒ではある。
 レヴィナスはとんでもなく難解な哲学者なのだそうだが、内田氏はそれをわれわれにとってなんとか手がかりがあるものとしてくれている。内田氏がそう感じるのであるから、村上氏にはどこかカトリックに通じるところがあるのだろうか? それは村上春樹読者にあたえられた一つの意味のある問いかけであろう。
 村上氏が世界で読まれているのは、もっと単純なことだと思う。グローバリズムが進行し、科学が世界を席巻していく中で、すべてがモノによって支配されてしまおうとしている趨勢に、どうしても納得できないものがあるひとがたくさんいるということによるのだと思う。「聖なる天蓋」「われわれの世界システム全体を説明してくれるような世界を一望俯瞰する視座」などあるはずがないのである。われわれは進化の産物として偶然生じた生物の一種であるに過ぎないのだから。しかし、われわれは同時に進化の過程で「意味を求める」「物語を求める」動物となったらしい。それが進化の過程でわれわれが生き延びる上で有用であったらしい。エルサレム講演での「壁と卵」もそれに通じるのであろう。
 「壁」とはすなわちシステムのことと村上氏は説明しているが、むしろ「事実」の側すべてをいうのではないだろうか? 一方、「卵」とはわれわれが脆い弱い生物でありながら意味をもとめる存在であること、つまり「価値」の側すべてをいっているように思う。
 養老氏は、自然科学優勢、理科優勢の時代における人文科学、文科の側の反乱として構造主義を捉えていた。「壁」とは「理科」であり、「卵」とは「文科」であるといえば、とんでもない単純化になってしまうが、村上氏もまた文科の側の反乱者の一人なのであろう。
 

代表質問 16のインタビュー

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村上春樹にご用心

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