加藤典洋「戦後入門」(1)
ちくま新書 2015年10月
本書の購入の記事を書いたときに、なぜ本書が新書で出版されたのかとの疑問をしるしたが、本書を読み終わって、おそらく加藤氏は本書を少しでも廉価なものとしてなるべく多くのひとに読んでもらいたいと思ってそうしたのではないかと感じた。
異様に熱の籠もった本で、「あとがき」に「たぶん私の書いた本で一番読みやすいだろう」とあるように実に平明な文章で書かれている。しかし「すぐに読めてしまうだろう」というのは600ページある本書では無理で、まる二日かかった。
そして感想としてはまず、昔読んだ加藤氏と橋爪大三郎氏、竹田青嗣氏の鼎談「天皇の戦争責任」を読んだ時の「異様に煩瑣」というものが浮かんだ。これでは、ほとんどの読者はついてこられないのではないか? 氏の情熱のよってきたるところがわからないのである。しかし、本書の提言の方向に向かわないと日本が先導して第3次世界大戦がはじまり世界は破滅するのではないかと半ば本気で危惧しているように思える部分さえある。そうであれば、本書は世界を救う本なのである。少しでも多くの読者に読まれるように思うのは当然である。
「あとがき」の最初に「これまで発表してきた『アメリカの影』、『敗戦後論』での主張を誰も引き取ってくれないので、ほかに仕方がなく、自分ですべてを引き受けるつもりでもう一度戦後について考えてみた」とある。
『敗戦後論』は本を読む人びとの間ではある程度話題になったように記憶しているが、その反応の多くは困惑であったのではないだろうか。『敗戦後論』は1997年の刊行であるからほぼ20年前である。「敗戦後論」「戦後後論」「語り口の問題」の3つの論を収めたもので、「敗戦後論」は1995年の発表されていて、1991年の湾岸戦争での文学者たちの反戦署名声明から論をおこしている。その声明が「戦後の自己欺瞞が半世紀も続くとどうなるものかを示す、好個の例になっている」というのである。その声明は「戦後憲法が、原爆の威力と軍事威圧のもとに強制的に押しつけられた事実を隠蔽して、日本人が自力で策定、保持したかたのようにいい、戦争放棄条項について、これは、「とりわけアジア諸国に対する加害への反省」に基づくものであると述べているが、日本人はたんに戦争はもうごめんだという「一国平和主義」の心情にもとづいてこの条項を保持していることから目を背けているのだと。
「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」で村上春樹は、「湾岸戦争のときにぼくはアメリカにいたんですけど、あれはずいぶんきつかったです。結局、日本人の世界の理屈と、日本以外の世界の理屈はまったくかみ合っていないというのがひしひしとわかるんですね。ぼくもアメリカ人に説明できない。なぜ日本は軍隊を送らないのかというのは、ぼくは日本人の考えていることはわかるから、説明しようと思うんだけれど、まったくだめなんですね。・・自衛隊は軍隊ですよね。それが現実にそこに存在するのに、平和憲法でわれわれは戦争放棄をしているから兵隊は送れないのだと、これはまったくの自己矛盾で、そんなのどう転んだって説明できないですよ。・・そうすると、ぼくらの世代が60年代の末に闘った大義はいったいなんだったのか、それは結局のところは内なる偽善性を追求するだけのことではなかったのか・・これはやはり日本にいたら気付けなかったことだと思うのです。理屈ではわかっていても、ひしひしとは肌身に迫ってこなかったんじゃないか・・いまの日本の社会が、戦争が終わって、いろいろつくり直されても、本質的には何も変わっていない、ということに気がついてくる・・湾岸戦争と日本の関わりをどう説明すればいいのか、ぼくはいまでも考えているのですが、まったくできないですね。論理的に追求していけば小沢一郎なんかの主張していることも筋がとおってるような気がするけれど、あのとおりにやったら、結局むちゃくちゃなことになりかねない」といっている。それに対して河合隼雄は「日本は、まあ、いえば、非常にずるい方法をやっているのですね。だから世界中がもっとずるくなったらいいんじゃないかという気がしているのです(笑)」と答えている。それに対して村上春樹は「ぼくは思うのですが、近代の日本を戦争に導いたものというのも、結局、そういうずるさ、あいまいさではないですか」というのだが・・。
「敗戦後論」で加藤氏が指摘していたのは戦後憲法を国民投票で再承認せよということであった。もう一つ氏がいっていたのがこの大戦における「2千万のアジアの死者」対「3百万の自国の死者」ということだった。加藤氏は「第二次世界大戦は、残された者にとってそこで自国の死者が無意味な死者となるほかない、はじめての戦争を意味した」という。そして「わたし達に原爆の死者があったことは、戦争の死者をわたし達に弔いやすくするための外的な偶然だった」という。
これは当然靖国神社の問題につながってくるわけで、そこにA級戦犯が合祀されていることが問題を見えにくくしているが、もしもそれが別に分祀されているとして、そこに首相が参拝したとしたら、それは今次大戦という日本にとって義のない戦争、侵略戦争という悪を肯定するものであることになるだろうかということである。もちろん、大戦が義のあるものであって侵略戦争ではないという立場もあるが、加藤氏はそうではない。「敗戦後論」で氏がいっていたのは、「護憲派は、原爆の死者を「清い」ものとし、同じく改憲派は兵士として死んだ自国の死者を「英霊」として「清く」する。しかし加藤氏は死者は「汚れている」という。しかしそれでもこの自分たちの死者を自分たちは深く弔うと内外に言うこと、それがわれわれがアジアの2千万の死者を弔うことが本当のものと受け取られる前提となるのだという。
この加藤氏の「敗戦後論」が出たとき、多く護憲派陣営から、何か困ったことをいう奴がいるなあというような反応があったような記憶がある。そこで憲法再認をいっていた氏はこの「戦後入門」では、それでは駄目で憲法改正が必要という見解になっており、具体的な改憲の案を提示している。それは1)国土防衛隊をつくり、それは日本の国際的に認められている国境に悪意をもって侵入するもの対する防衛の用にあてる。それは治安出動はしない。平時は国内外の災害救援にあたる。そして残りの戦力は国連待機軍として国連の平和維持活動および国連憲章第47条による国連の直接指揮下における平和回復運動へのみに参加し、国の交戦権は国連に委譲する。核兵器を作らず、持たず、持ち込ませず、使用しない。今後、外国の軍事基地、軍隊、施設は、国内のいなかる場所においても許可しない。それは当然、アメリカとの関係を一時的には悪化させるであろうが、フィリピンの前例を引いて、長期的にはかえって良好な安定した関係を形成できるとしている。
「国際的に認められている国境」という場合にそれを認める主体が誰であるのかとか、「悪意をもって侵入する」という場合の「悪意」を認定するのは誰かとか疑問は多々あるのであるが、そもそも実際に国連というのが現在、平和維持の上にどの程度有効に機能しているのだろうか? その活動の方向を決定しているのは誰なのだろうか? 本書でしばしば「国際世論」というような言葉が出るのだが、それは何であり、どの程度現実の力を持っているのだろうか?
おそらく日本人の多くは、加藤氏の改憲案を支持しないだろうと思う。日本の論は村上氏もいうように内向きで世界に通用しないものであるのだろうが、おおむね次のようなものではないかと思う。今次大戦は日本にとって義のない戦いであった。負けてよかった。負けることによって日本の癌であった軍の組織を根こぎにできた。それはわれわれの力では絶対にできないものであった。したがって今次大戦における死者は事実としては無意味に死んだのだが、その結果としてわれわれはわれわれ自身では絶対につくることのなかった今の憲法を持つことができた。死者に手向けるものは憲法であって、靖国に祀ることではない。また広島と長崎によって世界で唯一の被爆国となって、そのことによっていわば「聖別」された特別な国となった。被爆によってある特権を持てることになった。それは日本は軍事行為にかかわらなくてもいいという特権である。われわれはその特権の代償として原爆投下という非人道的な行為をしたアメリカを非難することを控えている。世界はいまだに硝煙が絶えない。しかし日本はその解決のために軍事の方面から参加することはしない。そもそもその今の憲法を日本に押しつけたのはアメリカではないか? その憲法を日本人は良きものとして受容したのである。もともと軍事的なことはしたくはないが、したくてもできないのである。「紅旗征戎吾ガ事二非ズ」 文化の方面から日本は世界に貢献する。
このような論理が世界で通用することはないにしても、日本においてのみ多数意見であればいいということなのではないだろうか? とすれば、アメリカとは一時対決とはなっても世界に向けて開かれていくという加藤氏の提言は、多くの日本人にとってもっとも目を向けたくない方向ではないだろうか?
わたくしが本書を読んで一番驚いたのが、本書が完全に政治的な提言の書であるということである。なにしろ憲法改正案の提示なのである。前著である「敗戦後論」をわたくしは文学の方面を論じたものとして読んだ。そこに収められた3つの論のうち「敗戦後論」は政治論であり、「戦後後論」が文学論、「語り口の問題」がそれらをつなぐものと加藤氏はしているが、「敗戦後論」でも論じられるのは美濃部達吉こそでてくるが(その憲法改正案の第一条「日本帝国ハ連合国ノ指揮ヲ受ケテ 天皇之を統治ス」)、あとは中野重治であり、太宰治であり、江藤淳なのであり、吉田満であり、大岡昇平であり、大江健三郎なのである。そもそも「ねじれ」とか「汚れ」というのは文学用語である。政治の用語ではない。「戦後後論」も太宰治とサリンジャーである。「語り口の問題」はアーレントをあつかっている。アーレントも人文方面では問題になっても現実政治にかかわるひとではないだろう。だから本書で本気で政治の提言を加藤氏がしているのをみて、面食らった。
上に書いたように、氏の提言が現実の政治に何らかの有効性を持つとはわたくしには思えないので、本書の内容につき具体的に考えてみることに意味があるのかどうかがわからない。しかし、あるいはしてみるかもしれないので、一応(1)としておく。
「敗戦後論」では、林達夫が「新しき幕開き」で、占領下の言論が Occupied Japan 問題ということから目を背けていることを自覚していないという不真面目さを指摘してることに加藤氏はふれているが、「新しき幕開き」で林氏は「えてして、政治にうとい、政治のことに深く思いを致したことのないほど軽はずみに政治にとびこみ、政治の犠牲になるというのが、わが国知識階級の常套である。政治くらい、人の善意を翻弄し、実践的勇気を悪用するものはない。・・眉唾ものの政治的スローガンに手もなくころりと「だまされる」ところにどうでも人が頼らなければならぬ政治のおぞましい陥穽があるともいえよう。私は化けの皮をかぶっていない政治というものには、未だかつてお目にかかったことがない」ともいっている。加藤氏が政治にうといとはいわない。政治のことに深く思いを致したことがないともいわない。もの凄い量の書物を読み大変な勉強している。本書でもたくさんのことを教えられた。しかし、いかにもナイーブだと思う。氏のような善意のひとが政治にかかわると、ただその犠牲になるだけではないかと、どうしても思ってしまう。
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