広岡裕児「EU騒乱」(完)

 
 「終章」と「あとがき」
 「終章」は、ユーロ圏での国際金融センターの一つであり、欧州司法裁判所、欧州投資銀行などがあるルクセンブルクへの訪問記と欧州への一般的な感慨が並列される構成。
 2015年のパリ同時多発テロイスラム国により周到に準備されたものではあったが、敵はフランス外にあるのではなく、フランスにおける格差と差別から生じてくるのであると広岡氏はいう。いくらイスラム国を攻撃しても、この格差と差別が残る限りは、この戦いには終わりはない、と。
 EUとイスラム国の戦いには日本は一切かかわるべきではなく、絶対局外中立で難民対策と戦争終結後の平和の準備こそが日本の役割である、と氏はする。
 国内に「ソシアル」であろうとすると、国際的にはエゴであることになり、国際的に「ソシアル」であろうとすると、国内に格差をおこすというジレンマを欧州は抱えている。
 現在の資本主義の枠組みの中では、人の労働は富の源泉ではなくなっており、人を大切にすることの経済的合理性はなくなってきている。その中で、国際的な連帯と国民の「ソシアル」はどうしたら両立できるだろうか?
 ユーロの悲劇は、まだ共産圏が健在で地球の半分が市場経済体制にはいっておらず、コンピュータや通信もまだまだ未発達であった時代に構想が練られたことにあるのではないか、と広岡氏はいう。
 EUは第一次世界大戦から生まれた。ドイツとフランスが永遠に戦争をしないようにする、というのがEUの原点である。
 大きな視野からみれば、第一次世界大戦第二次世界大戦は一続きのもので1914年から1945年までの30年戦争である。17世紀の30年戦争からウエストファリア条約が生まれたように、今度の30年戦争から国連が生まれ、EUが生まれた。しかしグローバル資本主義という「スーパー国家」がそれを呑み込もうとしている。
 
 ここでみられるように広岡氏の視点ははっきりとしている。EUの理想を支持し、グローバル資本主義に反対する。「ソシアル」を支持し、「リベラル」に反対する。
 それは本を読む人、すなわち知識人としての氏の判断なのであるが、日々の暮らしに生きている欧州の普通の人々もまたグローバル資本主義に反対し、「ソシアル」を支持しているという認識が、広岡氏の言説を、一知識人としての個人的な言説ではなくもっと大きな思潮のうねりの中にあるのだという思いに導いているのだろうと思う。
 しかし一方では、その「大衆」はEUにノンという方向にもいっているように思われる。なぜそうなっているのかといえば、グローバル資本主義がもたらす格差への不満がそうさせているのであるが、不満が本当の敵のグローバル資本主義には向かわず、難民問題といった疑似問題へと矛先がむいてしまっている、それが問題なのだと広岡氏はしている。
 しかし難民の問題は労働力供給の問題、特に単純労働のようなあまりスキルを要さない仕事を誰が担うかという問題にかかわっているわけで、それはグローバル資本主義とも深くかかわっている。「ソシアル」を志向するとどうしても視点はドメスティックなものとなり、「リベラル」に親和性のつよいグローバル資本主義と対立することになる。
 広岡氏の議論の根底には、EUは国境を超えた「ソシアル」をめざすものであったという思いがある。とすれば、問題は欧州という単位でのソシアルは可能であるかということに帰着することになる。そして広岡氏の議論は「べき」論、知識人としての論であって、日々の暮らしのなかで生きるひとの生身の声、「そんな理想論はどうでもいい。おれたちの仕事を奪っているのは誰だ!」という議論の前では、おそらく無力なのである。
 
 本書の「あとがき」で、広岡氏は欧州における「エリート」と「エリートを批判する民」の乖離と対立をいい、エリートの言説に惑わされてはならない、という。ここでのエリートとはEUの官僚であり、政治家(特にドイツの?)であろう。しかし本書に書かれているように、EUの構想にはキリスト教民主主義といったエリートの抱いた理想論が深くかかわっている。
 氏はさらに「ソシアル」ということについてもっと多く述べたかったし、その準備もしたのだが、とてもまとまらず、放棄したということをいっている。「ソシアル」もまたエリートの胸の中に生じた理想論に発するのであるが、たまたま現在、「俺たちに仕事を!」という民の声とベクトルが一致している。
 「あとがき」の最後に、かなり唐突に、1980年ごろまでの日本の資本主義、「日本は資本主義国ではない、社会主義国だ」と揶揄された「お上」が「下々」を指導するという官僚主導の体制は、同時に「会社を株主のものとは思わず、ただの従業員を社員と呼び、異常な高給取りのスーパー経営者はなく、労使協調し、社会的モビリティも備わった全員中流化という日本の行き方」をとりあげ、それが「ソシアル」の一つのモデルであるとする。だが、その日本もすっかりと「リベラル」帝国に呑み込まれてしまっていることを残念がり、しかしいまならまだやりなおせる、日本がEUとともに21世紀の民主主義のリーダーになる可能性は残っている、として筆を擱くのである。
 
 欧州の現在は古典ギリシャ・ローマからキリスト教中世を経て、ルネサンス啓蒙主義からフランス革命を経て現在にいたるすべての歴史の上にできあがっているはずで、同様に日本の場合も、江戸の藩から、開国、明治維新、昭和の前半と敗戦、昭和後半の混乱から成長また停滞という戦後のすべての上に現在があるはずである。
 そして1980年ごろまでの日本の資本主義というのも、江戸時代の藩を引きづっているのと同時に1960年ごろからの高度成長という今後もうふたたび繰り返すことはないであろう出来事の上になりたったわけある。90年代以降の失われた10年・20年での成長の停止と、今後の少子高齢化ということを考えると、そのような社会主義的資本主義というか会社主義的社会主義というかを日本においても、ましてそれを欧州で再現しようというのは不可能の追及ではないかと思う。広岡氏はまだ間に合う(残された時間は少ないが)というのであるが・・。氏の認識ではそのような日本の「ソシアル」を破壊したのもグローバルな資本主義であるとされているためにそのような主張になるのではないかと思う。「グローバル資本主義をとめなければならない!」「そのためのモデルたりうる経験を日本は持っている!」ということである。
 この辺りの論をみていると、どうしても「日本の平和憲法を守れ! それは世界の今後への積極的モデル足りうる」という日本の(一部の)知識人の主張を想起してしまう。「日本国憲法」もまたアメリカの知的エリートの夢が生んだものであった。そこには生活の感覚といったものが欠けている。
 わたくしが30年以上前に学位論文を書いたときには原稿用紙に手書きであった。ワードプロセッサもまったく世に存在していなかったわけではないが、個々人が自由に使えるようなものではなかった。病院勤務時代、病院からの呼び出し手段は、電話からポケット・ベル、PHS、携帯からスマートフォンへとどんどんと変わっていった。1980年と今とではまったく社会の仕組みが変わってしまった。当然、仕事のやりかたも一変している。80年代は、日本という国がどんどん拡大していった時代であったわけで、そういう背景がなければ日本的経営も成立しないはずである。そういう背景を考えずに、それをひとつのモデルにしようというのは説得力に欠ける論であるように思う。
 結局は「ソシアル」と「リベラル」という問題に帰着するのではないだろうか? 本書での「ソシアル」は我が国での(米国でも)「リベラル」にかなり近いものであるので、用語としてわかりにくいし、広岡氏自身も十分に展開できなかったと感じているようである。
 このあたりがとても難解なのは、市場経済体制というもの自体はニュートラルというか、無色透明というか、その中には特別な価値観をふくんでいないことが大きいのではないかと思う。広岡氏はグローバルな資本主義をリベラルの側に位置させているように思う。それはグローバルな資本主義がソシアルをこわすことをしているからである。
 しかしグローバルな資本主義は資本を増やすということ以外には目的がないわけで、ただそれが近年では投資よりも投機に比重が傾いてきていることを広岡氏は問題にしている。そしてその広岡氏にして、市場経済体制以外の経済運営体制はないとしているのである。
 しかし、ある段階までの社会においては、計画経済体制のほうがうまくいくことだってありうると思う。生産力が低く情報伝達も遅く、計算も紙と鉛筆という時代にあっては計画経済のほうが市場経済よりも効率がいいという局面もあったかもしれない。ただ現代のように生産力が高まり情報処理能力が爆発的に進展していく時代においては、もはや市場経済体制しかないということなのであろう。
 都知事選で鳥越氏を担いだ人たちは日本では「リベラル」(本書では「ソシアル」)といわれるようである。それは、政治的には安倍首相の憲法改正志向に反対している側ということになる。安倍首相は「保守」といわれるのであろうが、わたくしからみると「ソシアル」(本書の意味での)である。第一次の安倍政権では、その取り巻きたちが、ようやく自分たちの時代が来たとはりきって、「美しい国」といった方向を性急に追及しようとしてうまくいかなかった。それで今回は勉強して、「アベノミクス」などといってまず経済を前面に出してきているが、それは、生活の安定がないと安倍政権は支持されず、支持されなければ憲法改正もできないという論理からで、安倍首相自身は経済には興味がなく、というか(わたくしと同じで)経済のことはよくわかっていないのではないかと思う。
 それでなぜ憲法改正したいのかといえば、今の憲法が国よりも人という方向になっているからではないかと思う。国あっての人ではないか、国よりも人が大事というのはおかしい。国が大事であれば、国防もまた大事であることは自明である、とするような論理からなのであろう。
 一方、日本の「リベラル」の人たちは、国よりも人のほうが大事であることは自明とする人たちで、国のために人が死ぬなどということは絶対にあってはならないことになる。国が侵略されても、戦って死ぬよりは無抵抗で生き延びるほうがいいではないかということになる。個人が国の上にある。
 さて、広岡氏がここで「ソシアル」といっているものは、個人を尊重する方向をその根底においているものであるように思うが、個々の人間が持つ価値観の間には一切の優劣はなく、それぞれが尊重されるべきとしている。だが個々人が持つ価値観は無の中から生まれてくるのではなく、そのひとがどこで生まれどのように育ったかに決定的に影響される。そうすると、その人が持つ価値観は実はその人のものではなく、そのひとが生まれそだった社会が作ったものであるということにもなるかもしれない。この「社会」の範囲をたとえば日本の国にまで広げるとどうなるだろう? 安倍首相の「ソシアル」と重なってくる部分はないだろうか? 安倍首相は、日本人が持つ価値観は他国のそれよりも優れていると思っているであろう。一方、日本での「リベラル」の側の人たちは、敗戦の結果としてわれわれが持つようになった「日本国憲法」と日本は唯一の被爆国であるという事実によって、日本は世界の中で聖別された特異な国家であるとしているように感じる。日本が特別であるという思いは、日本の「右」も「左」も共有している。「EUとイスラム国の戦いには日本は一切かかわるべきではなく、絶対局外中立で難民対策と戦争終結後の平和の準備こそが日本の役割である」とする広岡氏の論も、「左」の側の日本特別の匂いをわたくしなどは感じてしまう。難民問題ほど日本人にピンとこないものはなく、戦争という事態ほど日本が戦後一貫して避けようとしてきたものはないのだから戦争終結という事態もまたほとんど理解の外であるはずである。そういう日本が「難民対策と戦争終結後の平和の準備」に何らかの貢献ができるとはとても思えない。結局、お金を出せばいいというだけのことになっていくような気がする。
 国といっても、その規模はルクセンブルグとフランスではまったく異なるが、日本というのはアルザス地方のようなつねにドイツとフランスの狭間にあって帰属の変更を繰り返してきたといった歴史はもたず比較的均質なままできたという非常に例外的で特異な歴史を持つ国である(日本のアルザスは沖縄であろうか?)。非常に多様なものの共存という広岡氏のいう「ソシアル」という概念がどうにもピンとこない国である。
 一方、「リベラル」(本書の意味での)の極北にあるのがリバタリアニズムであって、「ソシアル」の側からは蛇蝎のごとく嫌われる。安倍首相もまた大嫌いであろう。しかし、個々のひとの持つ価値観の尊重という方向はリバタリアニズムと無関係ではいられない。「自立した個人」こそがリバタリアニズムの根幹にあるものだからである。そして日本の「リベラル」も欧州の「ソシアル」もその根底に「自立した個人」をおいている。もちろんリバタリアニズムも共同体を否定はしない。しかしそれは個人が自分の選択として参加し、自分の意志で退出できるものでなくてはならないとする。
 しかしそんなことは可能か? とするのが「コミュニタリアニズム」である。「自立した個人」などというのはただ不幸なだけの存在ではないか? われわれはわれわれが生まれそだった地域と伝統の産物であることを忘れた抽象論の産物に過ぎないのではないか?
 もしも日本に生きるわれわれにいささかでも特徴的なことがあるとすれば、その「世俗性」ということにあるのではないだろうか? およそ超越的なものとは縁遠い存在となっているということである。しかし、世俗性は必ずしもひとを幸福にするとは限らない。「2015年のパリ同時多発テロイスラム国により周到に準備されたものではあったが、敵はフランス外にあるのではなく、フランスにおける格差と差別から生じてくるのである」と広岡氏はいい、「いくらイスラム国を攻撃しても、この格差と差別が残る限りは、この戦いには終わりはない」と広岡氏はいうのだが、ただの個人として生きるということは、しかも貧困のなかに生きるということは、「超越的な生」の方向をとても魅力的なものと感じさせるのである。「会社を株主のものとは思わず、ただの従業員を社員と呼び、異常な高給取りのスーパー経営者はなく、労使協調し、社会的モビリティも備わった全員中流化という日本の行き方」を広岡氏が一つのあるべく方向と考えるのは、そこが世俗性の世界であり、超越的なものなしで、人がいささかの満足をえることができていた世界であったからである。
 これからの日本が「格差と差別」の社会になっていくとすると、そこから「超越的なもの」への希求もまた一部で生まれてくるはずである。もっとも総中流化といわれた時代でもそれはやはりあったので、オウム真理教というのはその戯画であった。
 そしてかつてマルクス主義というのが一部のひとにとってなぜあれほど魅力的であったのかといえば、それが超越性への契機をとても多くもった思想、ほとんど「千年王国」説に近いようなものであったということがとても大きかったはずである。物質の言葉で語られたユートピアの構想。
 そして現在にある不幸のきわめて大きな原因の一つが1991年にソ連が崩壊して経済体制としての共産主義は機能しないということが現実の世界で白日のもとに明らかになってしまったことである。「超越への希求」の多くの部分を満たしていた、しかも「世俗的な論」が完全に息の根をとめられてしまった。「いくらイスラム国を攻撃しても、この格差と差別が残る限りは、この戦いには終わりはない」というのは正しいであろうが、いまイスラム国にむかっている欧州の若者たちは、一時代前であれば、マルクスのほうにむかったのかもしれないのである。今の世界を席巻している市場経済体制には超越性への志向などはまったくない。
 超越性への希求を持つ動物は人間だけである。それは個々にはきわめて弱い動物であるヒトが、仲間と協同してしか生き残ってこられなかったことという進化の過程で、生き残るための共同体を保持するものとして、それが有効に機能したからなのであろう。だからそれはわれわれにいつまでもついてまわるのであろうが、しかし、世俗性でやっている体制としてとにかくも現在の日本という例が存在している。
 「個人」というのはヨーロッパで生まれた。だから小説がヨーロッパで生まれた。一人の生は神々の生にも匹敵するドラマを持ちうることを、それは示した。そしていま「個人」は世界を覆っている。ヨーロッパが世界を征服したのである。「個人」を信じる広岡氏もまたヨーロッパの嫡子である。そして「個人」の側にたつ広岡氏は根底はリバタリアンである。しかし「個人」が「自分さえよければあとのことはどうでもいい」とすることはどうしても首肯できない。そこから「ソシアル」がでてくる。「シンパシー」や「惻隠の情」を欠く人間は文明人ではない。しかし文明は余剰の産物、豊かさの産物である。今日の食べ物を欠く人間からは文明は生まれない。
 ここから広岡氏の論のゆれが生じてきているのだと思う。どうしたらいいか?といって、日本的経営の方向が提示されてくるような短絡がでてくる。どうしたらいいかときかれて、何か案を提示しなくては思うのがおそらく知識人の困ったところで、どうしようもないことは世にたくさんあり、どうしようもないことにはどうしようもないとして耐えていくしかない、という風にはなかなか思えない。
 成熟とは「自分が大勢の中の一人であり、同時にかけがえのない唯一の自己という矛盾の上に安心して乗っかっていられること」というのは精神科医中井久夫氏の言葉だが、「大勢の中の一人」であることが「コミュニタリアニズム」と繋がり、「かけがえのない唯一の自己」というのが「リバタリアニズム」と繋がるとすれば、そのどちらか一方のみでいくということは成熟の否定ということになるのかもしれない。そもそも成熟なんて糞くらえ、おれは子供のままでいくのだ」というのが現代的なのかもしれないのではあるが。
 本書でヨーロッパの現状について多くを知ることができた。と同時に広岡氏の言説の「ゆれ」というか「ゆらぎ」が他人事とは思えず、いささか駄弁を綴ってしまうことになった。
 

EU騒乱: テロと右傾化の次に来るもの (新潮選書)

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