呉智英「危険な思想家」 メディアワークス 1998年

 

危険な思想家 (双葉文庫)

危険な思想家 (双葉文庫)

 
 今、鹿島茂氏の「ドーダの人 小林秀雄」の感想を書こうかと考えている。ところで鹿島氏といえば吉本隆明だなあと思い、そういえば呉氏に「吉本隆明という共同幻想」という本があったなと思い、探したがみつからない。本の置き場が完全に不足していて、いろいろなところに二重三重に押し込めてあるので、探しても見つからないことが多い。それで呉氏の本を押し込めたと記憶しているあたりを探索していたら、この本がでてきた。なんとなく「あとがき」を読んでいたら、たまたま今の時点では面白いかなという話題が書いてあったので、ちょっと書いてみようかと思う。正確には「あとがきに代えて」で、もう20年近く前の文章である。
 呉氏は、この「あとがきに代えて」を書く5〜6年前にいくつかの雑誌のインターヴューで「東京都知事選挙」に立候補をすると発言したのだそうで、まだでないのかと友人知人に揶揄されるという話である。
 なぜそうなことを考えたのか? 1991年ごろ、街角に社会党の「差別のない明るい社会」というポスターが貼ってあった。1989年、フランス革命から200年後にはじまった東欧での社会主義の崩壊はこの年にソ連の崩壊にまでいたっている。社会主義が完全版民主主義、完全版人権思想であることは、ひとかけらでも知性があればわかる。「差別のない明るい社会」が地獄のような陰惨な社会になることは、いささかでも人間性への洞察を持つならば、すぐにでもわかることである。しかし、それを指摘する言論は陰に陽に規制されている。どうすればいいか? そうだ、選挙にでればいい。選挙活動だけはたてまえ通り言論の自由が保証される。それも都知事選。注目度が高い。
 それで選挙スローガン。ひとつは「差別もある明るい社会」。もう一つ「東京を民主主義の治外法権に」。つまり東京都だけは民主主義をやめる。
 呉氏はいう。人権思想について、民主主義について、権力について、われわれは一度も徹底的に議論したことがない。根本的なことについて、なにも議論しなくなっている。もちろん臭いものに蓋は一つの智慧である。しかし民主主義者や人権主義者は、その智慧を否定したのである。それにもかかわらず、肝腎の問題について、かれらは蓋をとざし、議論を圧殺している。政治とは誰かが誰かを圧殺する体制である、とレーニンもいっている。レーニンは自分だけは例外と思っていたのかもしれないが。
 呉氏によれば、機動隊は各地方自治体の武装部隊であり実戦経験も豊富である。実戦の経験を持たず市街戦を想定しない自衛隊に、よくそれは抗しうるであろう。東京都は、桜田門霞が関という人質も持っている。かくてクーデターが・・。
 呉氏は今回の都知事選挙の結果をどうみているのだろう?