亀山郁夫 沼野允義「ロシア革命100年の謎」(4)

  
 第11章「ロシア革命からの100年 ポストモダニズム以後」では1990年以降のことを語るとされているのだが、ここでいきなりポストモダニズムの話がでてくるのがわからない。さらにわからないのがポストモダンという場合のモダンが西欧で20世紀初頭にでてきた潮流を指すとされていることである。わたくしなどはポストモダンというとすぐにリオタールの「大きな物語の終焉」という言葉を思い出す人間であり、そこでいわれる大きな物語の最大のものの一つがマルクス主義であると思っているので、両氏の主張がさっぱり呑み込めない。わたくしからみると、ここで「西欧で20世紀初頭にでてきた潮流」といわれているものもポストモダニズムの一種である。沼野氏はブライアン・マクヘイルというひとの定義の「モダニズム―認識論的」「ポストモダニズム存在論的」という分類を紹介しているが、こういう非常に巨視的な世界把握といういきかたこそがモダニズムなのではないだろうか?
 沼野氏はロシア革命を「一種の二項対立現象」であるといって、「旧体制の悪 対 善なるボリシェヴィキ」「革命か反動か」「敵か味方か」といった世界を二項対立の図式で見るいきかたがいかに危険で、いかに恐ろしい結果を招来しうるかを、人類はそのあと百年かけて学んできた、といっている。しかし、そのような二項対立的見方はそもそも人間の存在とともに古く、すでにゾロアスター教にあり、キリスト教の黙示録や千年王国説にもある。マルクスの思想の根源にもそのようなキリスト教歴史観があることもまた、つとに指摘されているのであるから、両氏の話は何だか全然ピント外れであるような気がする。そもそも近代ヨーロッパの成立は宗教戦争の悲惨の認識の結果から生まれたウエストファリア条約が出発点になっているはずである。
 亀山氏は沼野氏の言に対して、20世紀末になって、二項対立ではだめなんだという反省からデリダらの脱構築の考えがようやく出てくると応じている。それに対し沼野氏は「西側でポストモダンが云々されるはるか以前から、ソ連ではポストモダン状態が成立していた」と述べる。亀山氏はその研究生活をソ連におけるアヴァンギャルド運動の研究からはじめたひとということで、そこでいろいろな名前があげられるのだが、でてくる名前は誰一人としてわたくしは聞いたことがないひとばかりで、もちろんそれはわたくしの不勉強のせいではあるのだが、そういった運動がソ連の崩壊に少しでもかかわったとはわたくしにはまったく思えない。
 322ページには「精神性と言葉だけの国 ロシア」という項目が立てられていて、ロシアがアメリカに先駆けて宇宙開発に成功したのはコスミズムの精神的背景があったからではないか、ロシア的精神性を抜きに、ソ連の宇宙ロケットのことは語れない(沼野氏)というようなことがいわれる。精神性がもろに物質に接合してしまうのだ、と。それがロシア精神なのであり、アメリカはそれに比べるとほとんど物質しかないのだそうである。本気かね(正気かね)と思う。ここから神風特攻隊までは一歩であると思う。
 さらに、もしもロシア革命が失敗に終わっていたら、その後のロシアがどうなっていたかそれを考えるのが文学者の仕事ではないだろうかと沼野氏がいい、亀山氏はレーニンの(早すぎる)死がなかったらということに一番関心があると応じている。
 最終章は「ロシア革命は今も続いている」と題されていて、1917年のロシア革命の当時ロシアでは民衆のあいだでスキタイ主義的な自然力の爆発、動物的な人間の欲望の解放による大きな混乱があったことがペレストロイカ末期あたりから歴史家によって指摘されるようになってきていて、それがロシア革命の根本原因であるとする説があることが紹介され、その民衆の暴発を統御していくためにはレーニンの暴力は不可避だったのではないかということがいわれる。そして、これが革命が犯した原罪であり、それの償いをすることが革命政権に課せられたものであったはずなのに、それをしなかったことでレーニンは穢れている、ということがいわれ(亀山氏)、この原罪をはじめて自覚した最初のソ連の指導者が(レーニンではなく)ゴルバチョフであり、(その自覚ゆえに?)ゴルバチョフは暴力を行使せず(もし行使すれば天安門事件を乗り切った中国のようにソ連も生き残れたのかもしれなかったのに)、ソ連は崩壊したということがいわれる。何で原罪とか穢れなどという言葉がでてくるのだろうか?
 さらに亀山氏は「社会主義というのは、堕罪以前のアダムとエバの世界、資本市議というのは堕罪によって生じた社会現実です」というようなことまでいう。「プーチンという巨大なボリシェヴィキと、二枚舌でマゾヒスティックに権力を受け入れる国民という」現在のロシアの構図が示すものが「ロシア革命は今も続いている」ということなのだそうである。
 
 この二人の対談の一番の根底にある問題意識は《ロシア的霊性》とここでいわれているような何かであると思う。そしてそれに対立するものが西欧の合理主義であるとされる。ロシア人のメンタリティは西欧のそれとはどこか決定的に異なるとされ、つまるところそれはロシア語に帰結するとされる。ロシア語はそれぞれの語がきわめて多義的で言葉一つ一つの奥行が深い詩的言語で、ロシア語を発語するという行為がロシア人にとって一種の霊性の中に入っていくことであるのだということがいわれる。
 一方、それに対するグローバリズムの言語である英語は即物的でまことにつまらない言語である(と亀山氏はいい、沼野氏はそれを少したしなめているが、沼野氏によれば、それなりの歴史のある英語も最近の拝金主義によって毒されているのだそうである)。いずれにしても、スラブ人は霊性と精神性の民、言葉の民、ということになり、とすればロシア語を解さない人間には所詮、ロシアのことは理解できないことになる。
 亀山氏はロシアの民衆には全体の中にあってはじめて個は完成するという他人依存的なことろがあり、それはロシア正教に由来するという。そこからはなかなか個人がでてこない、と。
 そういう特性を持つロシアという国にたまたま革命がおきてソ連という国家ができてしまった。そうだとするとソ連という国家が後に残した様々な問題もロシア語とロシア人とロシアの文化についての知識がなければ、何もわからないことになる。
 ロシア文学者としてすっとロシア語とともに生きてきたお二人にとって、ロシア語を一句も解さない連中がロシア革命について得々と語っていること自体が納得できないのであろう。それでこのような対談が出来上がることになったのだと思うが、両氏がそもそも文学を志向したのも西欧の出自である文学形式である小説というものが導きの糸となっているのではないだろうか? ロシア的霊性について西欧的個人が論じることの分裂がこの対談ではいたることに露呈していて、それで本書が何だかよくわからないものになってきてしまっているのだろうと思う。
 最近、刊行された鹿島茂氏の「ドーダの人、西郷隆盛」は以前刊行された「ドーダの近代史」の文庫化であるが、単行本になかった片山杜秀氏との対談が付録として収載されている。そこに、
 片山「全共闘も行き着くところはエコロジーでした。清貧を良しとし、土と密着することで則天去私になれ、という。・・・」
 鹿島「ロシア革命フランス革命もそうでした。「禁欲を思想の核心に据えるものはすべてだめだ」と吉本隆明が一貫して言っていますね。まさにそのとおり。」
 という部分がある。
 その昔、政治と文学というような話があって、しかし、それを語るのはもっぱら文学の側の人間であって、政治の側の人間がそのようなことについて一顧だにすることはまずなかったが、東側の崩壊以降、文学の側でもそれを語る人間はあまりみないようになった。ということは政治と文学という話題における政治はもっぱら社会主義を指していたということであり、文学の側の人間の社会主義的な何かへの片思いの産物であったことになると思うが、実は社会主義への片思いではなく、西郷隆盛的な何か(鹿島氏のいう陰《ドーダ》)への思慕であったのかもしれない。もっとも《ドーダ》理論?の開祖の東海林さだお氏によれば、《ドーダ》は自由業の業のようなものであって、文学者というのもまず自由業の亜流であるからには、正統的《ドーダ》である陽《ドーダ》にどっぷりと冒されていることになり、本書での両者のやりとりも謙遜の衣を被った陽《ドーダ》の応酬である嫌疑は免れない。
 本書での通奏低音は、ロシアが持つあるいはロシア語が持つ「精神性」あるいは「霊性」といったもので、それは本来政治とは別な何者かであるのだが、アメリカの物質性あるいは拝金主義に対抗し抵抗するものとして、本書ではなにがしか政治とかかわるものであるとされる。
 その昔、進歩的文化人というのがいて、東側崩壊後、ぬるま湯的進歩的文化人はいても筋金入りはいなくなってきたなあという印象を持っていたのだが、こういう場所で姿を変えて生息していたのだというのが本書の読後感である。何で大人しく専門に従事して、ドストエフスキーとかチェーホフの翻訳に専念していないのだろうか。
 そしてロシア革命を論じながら、またスターリンを語りながら、たとえばオーウエルの「動物農場」の話などは一切でてこないのである。「動物農場」では霊性などという言葉は薬にもしたくなく、人間が政治にかかわることから生じるおぞましさがひたすら朴訥に語られていく。
 ナポレオンがこっそりと牛乳を隠したことから「動物農場」では何かが変わり始める。精神と物質との対立とか霊性と拝金主義がどうとかといった話ではなく、もっと素朴な何かから崩壊は始まるのである。

ロシア革命100年の謎

ロシア革命100年の謎

動物農場 (角川文庫)

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