亀山郁夫 沼野允義「ロシア革命100年の謎」(3)

  
 第10章「ロシア革命からの100年 雪解けからの解放」で沼野氏はこんなことを言っている。「社会主義は理性による欲望の抑制というよりも、自然な状態なんじゃないですか。ぼくに言わせれば、資本主義は病気みないなものなので、病気の人と健康な人を一緒にしたら病気がうつっちゃうわけですよ。」 なんだかルソーの自然人を想起させる。
 それに対して亀山氏が答える。「われわれの、たとえば70年代の安保世代はだいたいそういう感じで見ていると思います。68年にパリの五月革命があって学園紛争が起こったときに、資本主義に対してものすごい罪悪感を抱いていた。僕は72年に伊藤忠という商社に内定したときもすごい罪悪感で、やっぱり断らざるをえなかったんですよね。資本主義に対するポジティブな見方が今でもできない。ところが、1980年代くらいを境に皆その病気に感染しちゃった。罪悪感が消えちゃうわけです。」 ここで亀山氏が資本主義と呼んでいるものがどういうものなのかがよくわからないが、本書での発言から類推すると、「競争に勝って金を儲ければいい、それが正しい」という方向の思潮をさすようである。
 亀山氏は「社会主義は平等に行き着くんだよね」といい、沼野氏は「人間にとって究極の選択は、自由か、平等かということになってしまう」といって、さらに「自由の結果もたらされる弱肉強食が行き過ぎると、やっぱり社会主義がよかったんじゃないか、という機運が高まるに違いない」ともいう。これに対して亀山氏は「根本は何が幸せなのかという問題」といい、「もうお金というものが絶対的価値を持たなくなりはじめた時代が来つつあると思う」として「精神的なもの、精神的な喜びのほうがはるかに金銭的なものをを上回る」というようなことをいう。
 何だかとても青臭い議論なのだがしかし、わたくしから見ると、ここでのお二人のやりとりで論じられているのは資本主義とも社会主義ともまったく関係のない話で、強いていえば「清貧の思想」に綱がるような何かである。また「武士は食わねど高楊枝」とか「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」とかの路線である。こんなことを書いているが、わたくしもまた清貧の方向に幾分か毒されていることは確実で、臆病なので宵越しの銭は持つようにしているが、投資とか投機とかいう方面から意識的に目をそらせるようにしていると思う。バブルの頃、確か長谷川慶太郎氏だったと思うが、「今の時代に投機をしない人間は世捨て人である」というようなことをいっていたが、働いた対価として金銭をもらうことはいいとしても、自分の持っているお金を何らかの手段で増やそうとすることには何となく後ろめたいものを感じる、会社の一員だった時代に半強制あるいは強制で持ち株会というのに入らされたのが唯一、その方向に近づいた場面で、それ以外に投資の方面にかかわったことは一切ない。しかし、それが自分の美点であると思ったことは一切ない。
 亀山氏が伊藤忠の内定を断ったというのも「武士は食わねど・・」なのであるかもしれない。あるいは「渇しても盗泉の水を飲まず」とか。とはいっても、蜀山人だったかの狂歌、玉の緒よ絶えなば絶えねなどといひ 今といつたらまづおことわり ということもある。格好良く生きることは現実には容易なことではない。

 本題にもどって、ロシア革命マルクスの思想なしにはありえなかったものである。しかし、上記のお二人の会話のどこにもマスクス主義の片鱗さえでてこない。こういう認識をもとにロシア革命100年を語っているのかと思うと信じられない思いがする。文学の方面の人の資本主義・社会主義についての認識がみなこのようなものとは思いたくないが、ここにあるのは文学は高級で、お金の話は低級、あるいは精神は物質の上に位置するといった、マルク主義とも、ロシア革命ともまったく無縁の話であるような気がする。
 物質は低級で精神は高級などといっていても、われわれは食べなければ死んでしまうので、そうであるなら、何千万人もの餓死者を出すような体制はそれだけで間違っている。118ページに亀山氏の発言として、「重工業分野での生産は、第一次世界大戦勃発前の20パーセントまで落ち込むという悲劇的な状況に、旱魃が襲いかかって、すさまじい数の犠牲者が出た。こういう状況のなかで、いったい芸術に何ができるのか、何が語れるのか、ということです。芸術というのは、こうした現実に対しては完全に無力です。・・」というのがある。しかし、「完全に無力です」といいながらも、お二人とも滔々と論じ続けるのである。モダンがどうとかポストモダンがこうとか。
 「飢えた子供の前で文学は有効か」というようなことを言ったのはサルトルだったと思う。その問いに対して、「子供は食事にばかり飢えるのではない。・・私は飢えた子供であった。その一人の飢えた子供を救ったのは確実に「文学」というものだった」といいきる中島梓氏ほどの強さも、両氏は持たないようにみえる。
 本書におそらく一回も出てこないのが市場経済体制という言葉である。ある程度以上に社会の規模が大きくなり経済活動の範囲が拡大してくると、市場というものが存在しないと経済がまわっていかなくなるらしい、というのがロシア革命から成立したソビエトの歴史とその崩壊から、われわれが学んだことなのだろうと思う。
 ソ連崩壊後は、従って、資本主義という言葉さえあまり用いられなくなって、今までであれば資本主義という言葉が用いられていた文脈に、市場経済体制という言葉が用いられるようになった。そして市場経済に対になる言葉が計画経済なのだと思う。おそらく1960年前後まではソ連も計画経済体制でなんとかやっていけていたのだろうと思う。大陸間弾道弾も人工衛星ソ連アメリカに先行した。つまり亀山氏の若い時代、パリの五月革命や学園紛争の時代には社会主義に基づく経済体制というのは十分機能すると多くの人たちから信じられていたわけで、その当時に、今後30年か40年したらソビエトという国が地上から消え去っているなどということを予言する人がいたとしても、誰もまともにとりあげることをしなかっただろうと思う。
 しかし、事実としてソ連と東側陣営は崩壊してしまった。そうすると皆、当然のことがおきたような顔をして、そんなことはとっくに自分はわかっていたというような顔で議論が始まるのである。ソ連崩壊後は、経済活動が機能するためには市場経済の体制が前提となるというのは経済学のイロハであるというような顔をみなするようになって、計画経済などということは誰も口にしなくなってしまった。亀山氏や沼野氏が今の中華人民共和国社会主義の国とみなすのか、もはや資本主義の国であると考えているのかはよくわからないが、とにかく計画経済ではなく市場経済の方向に中華人民共和国が舵をきっていることは間違いないわけである。
 むしろ問題は、ソ連崩壊後のロシアも、�殀小平以降の中国も、いわゆる西欧風の民主主義とはことなる体制で運営されているという点である。
 そしてそれ以外の地域の選挙制度によって政治が運営されている国であっても、トランプ氏のようないままでとは明らかに毛色の変わった人物が選ばれてきているわけだし、ヨーロッパの多くの国でも移民排斥といった主張をかかげる排外主義的な政党が今後選挙を通して政権を取る可能性が決して低くはないことも指摘されている。
 ヨーロッパの18世紀以来の啓蒙主義に基礎を持つ《民主主義》であるとか《議会主義》であるとか、あるいは《個人の尊重》といった方向に今後世界は収斂していくだろうと、冷戦の終了時に主張したひとがいたわけだが(たとえばフクヤマの「歴史の終わり」)、その予言は完全に外れたわけである。そしてフクヤマの主張に反対するものとされたハンチィントンの「文明の衝突」にしても、それは西欧対イスラムといった図式を提示したものであり、それ自体はフクヤマのものよりずっとその後の世界をいいあてていたとしても、それでも今問題になっているのは旧来からの西欧的価値観の内部崩壊とでもいうべき事態なのだと思う。そしてマルクスの思想もまたヨーロッパの啓蒙の流れの中から生まれた毛色の変わった一支流なのである。
 ロシア革命というものが世界にあたえた途方もないインパクトという側面は本書では完全に無視されている。ソビエト一国のことのみが論じられ、物質と精神といった何だか青臭いとしか思えない方向に議論が収斂していく。
 人文系のひとの本を読んでいると進化論といった方面にまったく関心がないようで、それでいいのだろうかと感じることがしばしばあるが、本書を読んでいると、進化論どころか、下部構造(という言葉が昔あった)にさえまったく興味がないようなのである。もしもお二人が崩壊以前のソ連あるいは(現在の?)中華人民共和国に生まれていたとしたならば、人民の敵とか非国民?とかいうレッテルを張られてしまってすぐに舞台から消えてしまう運命をたどるのではないかと思われる。紅衛兵などにつかまった日にはひとたまりもないはずである。
 お二人ともに、日本に生まれてよかったのではないだろうか?

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