亀山郁夫 沼野允義「ロシア革命100年の謎」(1)

  2017年 河出書房新社
 
 本書は昨年刊行されている。ロシア革命が1917年だから、昨年はロシア革命100年の年であったわけである。そういわれてみればそうだったと感じるくらい、昨年がロシア革命から100年の年であることについて論じたり考察したりしたものが目につくことはなかった。というよりも何だかソ連という国があったこと、それがマルクスレーニン主義といわれるもので主導されていたことついて、そういえばそんなものもありましたね、でもそれはもう昔の話でしょ、とでもいった感じで、今さら、そんなことを考えてもしかたがないし、生産的でもない、それよりもっとこれからのことを考えましょう、とでもいうように。
 わたくしは1947年の生まれなので、ロシア革命30年の生まれということになる。当然、第二次大戦後の生まれなので、ずっと東西冷戦の影のなかで生きてきたという気持ちがある。自分が生きているあいだはこの東西冷戦というのが続いていくだろうと固く信じていたので、1991年のソヴィエト崩壊には心底驚き、震撼させられた。
 そしてもう一つ、まったく個人的な体験であるが、二十歳のころに遭遇した東大紛争(闘争)ということがあり、それを担っていたのが革命的マルクス主義派(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)だったり、社青同解放派社会主義青年同盟解放派)であったりし、それに対抗していたのが日本共産党の下部組織である民主青年同盟だったりしたわけで(ある時代、「民主」という言葉はほとんど日本共産党となんらかかかわっていることの標であった・・民主主義科学者協会等々)、それらがマルクスの考えたこととどの程度関係があったのかはよくわからないし、それはほとんどあらゆるものに反抗し抵抗していく心情という以上のものではなかったのかもしれないが、そのころはまだ「革命」という言葉が一部のひとにとってはリアルであったのであり、革命を起こすために銃器を奪い、射撃訓練にいそしむ人たちもいた。
 そういうことすべてが、ソ連の崩壊によって、一挙に過去もものとされてしまって、いまさら真面目に考えても仕方がないものとされてしまって誰も論じることがなくなってしまった。そういう中で本書は珍しく現在の時点でロシア革命を論じた本ということになる。しかし。この著者(対談者)の二人はいづれロシア文学者であって、政治や歴史の専門家ではない。とすれば、話の中心は文化と文学ということになる。
 そして、本書を読んで、教えられるところは多々あったのだが(たとえば、現在のロシア人がもっとも尊敬する歴史的人物はスターリンで、二番目がプーチン、三番目がプーシキンで4番目がレーニンで、最悪がゴルバチョフであるとか)、文学的観点からロシア革命、あるいはソ連という国家を論じるという行き方に強烈な違和感を感じた。それで、以下、その違和感が何によるのかということを少し考えてみたいと思う、
 たとえば、亀山氏は「社会主義は、ある意味で人類の理想です」という。また沼野氏は「物質と精神」などということをいいだす。ここで物質といわれるものは西欧の合理主義と通じるものとされ、一方、精神はロシア語が代表する何かで「ロシア語の単語を発するという行為を通して、ロシア人は一種の霊性のなかにはいっていく」などという、わたくしからみるとかなりとんでもないことがいわれる。その一方で亀山氏はロシアにおいて西欧的個人が生まれにくくしているものとしてロシア正教を挙げる。
 沼野氏はロシア革命を生んだのはロシア人のもつ終末論的で黙示録的な想像力なのであるというようなこともいう。
 どうもこういうところを読むと、漢心と大和魂といったことを想起してしまうし、先進ヨーロッパに対抗して生まれたドイツのロマン主義といったことも頭に浮かんでくる。
 文学者が政治を語るとしばしばおかしなほうにいってしまうということを常々感じているが、本書もその典型的な例の一つではないかと思えてくる。
 しかし、まだ序章を見ただけである。各論をみていきたい。


ロシア革命100年の謎

ロシア革命100年の謎