渡辺京二「近代の呪い」(1)

    平凡社新書 2013年10月
 
 とても面白かった。もっとも題名を「近代の光と影」とでもしたほうがいいような気がしないでもない。本書で渡辺氏が論じているのはほとんどが近代の影の部分なのだが、近代の光の部分を十分に認識したうえでの議論である。近代において光の部分は同時に影の部分なしには存在しえない、それが近代の呪いである、ということなのかもしれないが、呪いという言葉はどうもオカルト的な印象をともなう。渡辺氏は近代の光としての合理性ということを十二分に理解したうえでの議論をしているので、オカルトめいた議論はいっさいない。どうも「近代の呪い」というタイトルからは、反=近代、反=西洋という響きがわたくしにはきこえてきてしまう。そういう先入観をもたれないほうが読者層がひろがるように思う。
 「近代と国民国家」「西洋化としての近代」「フランス革命再考」「近代のふたつの呪い」の4章と「大仏次郎のふたつの魂」という付録からなる。ここで大仏次郎がでてくるのは、渡辺氏が「黒船前夜」で大仏次郎賞を受賞し、その受賞の講演のために大仏氏の著作を読み直したためなのだそうで、その直接の成果が本書の「フランス革命再考」なのだが、付録としておさめられている講演での大仏氏の「ふたつの魂」というのはそのまま渡辺氏にも当てはまるのではないかと思う。
 渡辺氏はいう。大仏氏は無類のハイカラでキザの極み、それがいきつくと断固たる進歩主義者、合理主義者、世界市民、その一方で、伝統的な生活を生きる正直でつつましい庶民が大好き、それがいきつくと伝統主義者、反合理主義、愛郷者。
 たとえば「帰郷」の主人公は「ヨーロッパ暮らしが長く、ヨーロッパの個人主義が身についていて、日本人のベタベタした人間関係が大嫌い、それが京都が好きになり日本の伝統美のとりこになってしまう。」 これは分裂している。しているがこれこそが大仏氏の魅力なのだと。
 渡辺氏はおそらくハイカラでもキザでもなく、服装などにはいっこうに頓着しない方ではないかと思うが(違っていたら申し訳ない)、それにもかかわらずヨーロッパの個人主義の側のひとで、なによりもインテリで知識人である。しかし同時に石牟礼道子氏を世に出したひとの一人であるはずで、「石牟礼氏さんは被害者たる漁民の醜い面は百も承知で、しかもそれを描かなかった」(付録の講演)ことをよしとするひとである。
 ようするに、もしも人間が美しいものでもありうる可能性をどこかに信じられるのでなければ、「この世は闇」であると感じるひとでもある(「利己心を克服した正義の人々のコミューンを求める心情・・私はこの心情が幼いものだということに同意しますが、おとなの現実主義者の奥底にこの幼い叫び声が、たとえかすかであっても鳴り続けていなければ、この世は闇だという気がしてなりません。(フランス革命再考)」)
 多くの左翼は「人間は美しいものであり」、それが現在美しくないのであれば、それは制度が悪いからであり、制度を変えれば、人間は本来の美しさを取り戻せるとする。氏はいう。「このような夢がなければ、この世のささやかなよきものをもたらす現実的な行動もまた生まれないのではないでしょうか。この点で私は若いころと同様、いまでも自分が左翼であることに苦笑します(「同上」)」。
 渡辺氏は人間が美しくないものであることを知っている。しかし「夢」として、人間が美しくもなりうることを信じたいというのである。「大仏さんは実は戦争中、熱烈な戦争協力者だったのです。特攻隊も本心から賛美されました。(「付録の講演」)」
 特攻隊は「人間が美しくもなりうる」ことを示すものなのだろうか? 「パリの労働者には、いったんバリケードが築かれると、誰からも求められないのに、あたかも自明の義務のようにバリケードの守りにつき、そこで死んでゆく者たちがいると大仏さんは書いています。あきらかに感動なさっているのですが・・こういう労働者あるいは民衆がブーランジズムに熱狂したり、反ドレフィス派としてゾラをリンチにかけようとした民衆と別人ではないということも、もう悟っておられたと思います。(同上)」 このパリの労働者と特攻隊は同じなのだろうか。
 少し前の朝日新聞池澤夏樹氏が「社会主義を捨てるか」という題で、ソヴィエトの崩壊などもあり、左翼の威光はなくなりその退潮は著しいが、フランス革命の後の王党派の反動に対する文化の側の憤りがロマン主義を育てたのであり、ベートーベンにあるがバッハにはないもの、粗雑で、野蛮で、たった一歩でも横に寄った位置から見れば滑稽に見えるもの、だから例えば吉田健一が十九世紀のヨーロッパとして否定したもの、それにはもうみるべきものはないのかと問い、「怒り」ということを言っている。「目前のあまりの不正と矛盾に対する抑えようのない怒り。それは正に感情の働きであって理性では制御できない」のであり「自分の無力がわかってい」ても「苛立ちは募」り、「一気逆転を夢見る」ようになる。それがテロリズムから過激なデモに、果ては国家的な範囲まで広まって革命にまでなる。それが歴史においてはもう否定されてしまっているように見えても、今の世界と日本にあるさまざまな不正や矛盾を見ると、「怒りもまた自分の中の大事な資質であると気づかざるを得ない」といって、「もうしばらく社会主義者でいることにしよう」と結んでいた。
 池澤氏はきわめて優れた小説読み手であると思うけれども、わたくしにはどこか信用できないひとというという思いがある。「インテリ」だと思うのである。インテリであることへの羞恥心のようなものが足りないひとのように思うのである。倉橋由美子さん風にいえば「文学的人間」。「ベレー帽をかぶっていたり長髪(髭もふくむ)のひとは進歩的文化人で信用できない、人間は髪の長短、顔つき、身体の鍛錬度、饒舌の程度などで判断できる」と倉橋氏はいう。そういえば、池澤氏は髭を生やしている。
 などというのはとんでもない言いがかりであるが、渡辺氏とどこが違うのだろうと考える。おそらく渡辺氏には敗者あるいは敗残者としての意識があるだろうと思う。池澤氏は自分が(潜在的には?)多数の側にいるという意識があるのではないだろうか? 日本全体としてみれば少数派かもしれないが、知識人のなかでは多数に属するというような。だから何か態度が大きいというか偉そうな感じがする。うまくいえないけれど羞恥心のようなものが不足しているように思う。偉そうな態度というのは偉そうなことをいってすみませんという羞恥心のようなものと一体となっていないと具合が悪いのではないだろうか? 
 わたくしがはじめて知ったころの渡辺京二氏は激越な論争家という感じであったので、「逝きし世の面影」がでたときにはあまりに丸くなっているのにびっくりした。そのあたりから「ふたつの魂」のうちの個人主義から伝統の美しさの方に舵をきったのかもしれないが、個人主義の時代にあっても偉そうな感じはしなかった。というか論争で相手を一刀両断するようなところがあるわけだから、偉そうといえば偉そうなのだが、自分を大きくみせるために、あるいは論壇のなかでの位置を獲得するために論じているというようなところがなく(もともと在野のひとであり、論壇の序列などというものの外にいたひとであるからなのだろうが)すがすがしい感じがあった。だが、「逝きし世の面影」ではじめて渡辺氏に接したひとは「昔はよかった」という懐旧おじいさんと思っているひともいるのではないだろうか?
 本書もまた「逝きし世の面影」の路線だろうか? 本書では江戸末期などはあまり扱われない。扱われないわけではないが、いわれるのは江戸末期から明治にかけての激変も、当時の庶民にとっては雲の上の自分たちとはまったく関係のないできごとと思われていたということである。天下国家には我関せずなのである。天朝さんと西郷さんの喧嘩も天災のようなものなのだから、「民衆世界が上級権力によって左右されない自立性を持って(「近代と国民国家」)」いたということになる。
 「鼓腹撃壌」であり「帝力何ぞ我に有らんや」である。「逝きし世の面影」は江戸末期の普通のひとびと(勤王だ佐幕だ攘夷だ開国だとまなじりを決している変なひとではないひと)の「鼓腹撃壌」のさまを描いたものなのかもしれない。その鼓腹撃壌のさまが西洋のひとからみて感嘆すべきもの賞賛すべきものとみえたとすれば、そのころ日本にきた西洋人の国家はすでに国民国家への道を歩み始めめていたのであり、国民国家の民であることの重さをつねに感じていて、そういうひとからみると江戸末期の民への国の軽さというものが何ともうらやましいものに見えたということがあるのだろうと思う。
 だから、本書でいわれる近代の問題は「国民国家」の問題である。それで、第一章が「近代と国民国家」であり、第2章が「西洋化としての近代」ということなる。そして国民国家の起源をたどればフランス革命にいきつくことになるので、第3章が「フランス革命再考」となる。そして最後が「近代のふたつの呪い」となっている。
 確かに「人権・平等・自由」は近代の産物であり、それが「近代がもたらした人間への贈り物」であることは渡辺氏も充分にみとめながら、それでも「それが疑わしく、問題をはらんだものでもある」ことを否定できないとする。一人ひとりの人間が国家と直接に結びつけられるようになり、中間団体が弱体化し消滅していくことになり、もっと身近な共同体への帰属から国民国家というフィクションとしての共同体のみへのかかわりへと収斂していってしまうことの不幸、人工物しか周囲になくなってしまうことの不幸を呪いとしてわれわわれは引き受けざるをえなくなるということになる、と渡辺氏はする。
 これらの問題については、これから個別にもう少し検討していくことにしたいが、とりあえずわたくしにとってこの本がなぜ面白いのかということを考えてみると、この本に書かれていることが、わたくしがものごとを考えるときにつねに参照点としてきた吉田健一のものの見方と大いに関係があるように感じられるということにあるのだろうと思う。奇しくも、吉田健一の名前が池澤氏の文章にもでてきていた。
 吉田健一の生涯にわたる関心事は「近代」の問題であり、具体的には「近代のもつ焦燥感」ということであった。現代の課題はその焦燥感の克服であり、氏の晩年の「時間」などはそれへの回答の試みであったのであろう。
 吉田氏の独自の視点(これは今にして思えば決して独自なものではなく、西欧の一部の知識人にとっては自明な見方であったのであろうと思われるが)は、われわれ日本人が近代と思っているものは「本当の近代」ではなく「異常で堕落した近代」であったのだというものである。本当の近代はたとえば啓蒙の時代にあったのであり、啓蒙思想はまず人間の有限性ということを前提にするものであるが、それがいつのまにか、人間の能力の無限、人知の万能、科学の万能を信じる贋の近代へと堕落していったのだが、その堕落した近代にたまたま日本は江戸末期に出会ったので、愚かにもその贋の近代を本当の近代と誤解してしまったというようなことである。
 「支配し搾取するものいない、人間みな兄弟という共同世界の夢(「付録の講演」)」などというのは吉田氏にはまったくなかっただろうと思う。吉田氏は身分というものを肯定するひとであった。しかし吉田流にいえば、身分を肯定することがひとを平等にするのである。渡辺氏はいう。「人間という生物自体はそれほど偉いものじゃないということを悟るのが案外大事なのじゃないかと思います。人間は言葉をもつ点で動物とはまったく別な存在であるなんて主張することが一時期はやりましたけれども、最新の言語科学によれば、言語は人間の本能に埋めこまれた能力であって、鳥や昆虫がおどろくべき能力を本能として持っていることと本質上ひとつも変らないというのです。(「近代のふたつの呪い」)」
 ここでいう最新の言語科学というのはチョムスキーのことなのかなと思うが、チョムスキーは人間の言語は進化では説明できないとする立場だから、「人間は特別な存在」派かもしれない。こういう「人間は特別な存在」論は、西欧の根底にいまだに強く残るキリスト教の教義というものなしには存在しえないもので、幕末に西洋の宣教師から聖書を読まされた侍が、「おう、おう、人間が草や木より尊いものであろうとは」と感嘆したというエピソードを渡辺氏は紹介している(「同上」)。
 「キリスト教的な精神=物質の二元論、すなわち人間中心主義」が「近代ヒューマニズムを生んだ」のであっても、それが一種異様な考え方であることを渡辺氏はいって、近代を相対化するのであるが、吉田氏は「人間という生物は全然偉くない」ということをいうひとであったのでもっと過激である。「一切衆生悉く仏性あり」派なのかもしれないけれど、まあ宗教とは縁のないひとだった。
 なぜなら人間以外の動物で宗教など信じるものはないから。「空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず」となるとキリスト教で、一見、謙虚であるように見えるけれども、「汝らは之よりも遙に優るる者ならずや」だから、やはり人間中心主義である。
 吉田氏晩年の「時間」など実に異様な本で、これは「現在に生きよ」という話なのだが、それがいわれるのは、人間以外の動物で現在に生きていない動物などいないからである。しかし人間以外の動物はあたりまえに現在に生きているわけだが、人間は異常な動物になってしまっているから、普通にしていたのでは現在にいないことになってしまう。それで、現在にいるためにも意識的な努力が必要ということになる。
 もしも人間を動物にまで還元してしまえば、動物のなかで国境などというのを持つのは人間だけであるから、国民国家というのが人為の産物であることは明らかとなり、それにとらわれることの愚かさは議論以前のこととなってしまう。というような路線で吉田氏は近代の呪いを解こうとする。
 要するに吉田氏によれば、近代は人間が人間でなくなっていた時代で、人間がふたたび人間にもどってきたのが現代ということになる。あるいは人間は文明化したときにはじめて人間になるのであるから、文明以前の野蛮人は人間ではないということになる。
 渡辺氏のいう二つ目の呪いというのは人工化ということで、これも人間中心主義の産物として、地球を人間の便益のために存在するものとみなすような見方、自然は人間にとっての資源であり、人間に所属する財産であるとする見方をいう。そのために生活は確かに便利で安全で快適にはなったが、コスモスとしての世界との交感は失われ、死すべき運命にあるはかない人間存在を、コスモス=自然という実在の中に謙虚に位置づける感覚を失わせた、そう渡辺氏はいう。世界の人工化とは世界の無意味化なのである、と。
 ここが吉田氏と決定的に分かれる点であると思う。吉田氏は「母なる自然」という見方を一切持っておらず、自然をまったく機械的な物理現象としてみていたと丹生谷貴志氏がいっていた。以下、「吉田健一集成」第5巻の月報の丹生谷氏の「獣としての人間」によるが、「吉田健一は観念の反対物として「自然」を持ち出すことを一切しないということだ。そこには「自然に対する賛美はほとんどなく、いわゆる「母なる自然」への憧れがまったくない。その点において吉田健一デカルト的であると言ってもよい。自然はそれ自身は無感動な機械仕掛けに過ぎないものとして語られるのである。」
 コスモス=自然というような一種の自然の神秘化のような視点を吉田氏は一切もたなかかった。コスモス=自然というのは、D・H・ロレンスの方向で、渡辺氏の石牟礼道子氏への共感をみると、渡辺氏もロレンス的な感受性を持っているひとなのだろうと思う。一方、吉田氏は文明は徹底して人工の産物であるとしていたと思う。
 このコスモスへの感受性のようなものが渡辺氏を辛くも左翼に繋ぎとめているのではないかと思う。池澤氏もやはりコスモスへの感受性を持つひとであろうと感じる。合理主義者かつコスモス派というひともいるのだと思う。イーグルトンの宗教論を読んでいたときにもそのようなことを感じた。合理主義者かつ非=コスモス派というのはしばしば単純バカと見えがちで、ドーキンスの宗教論などを読むとそのような印象を拭えない。吉田氏が否定した堕落した近代、19世紀のヨーロッパの延長線上にいるひとと思えてしまう。
 18世紀のヨーロッパは「人知の限界」を知るヨーロッパであった。しかし、人知の限界を知るということは人間の有限性を知ることではあるが、今よりも少しはよい状態にはなりうることを否定するものではない。むしろ飛躍を否定して一歩づつ進む世界である。そういう世界は「左翼」の方向なのだろうか?
 ヴォルテールなどというひとは左翼といえば左翼、右翼といえば右翼の鵺のような奇怪で複雑なひとである。人間が有限であるということは、未来は予知できない、ということである。ヴォルテール啓蒙主義が(ヴォルテール自身は望んでもいなかったであろうような)フランス革命を生み、フランス革命が「革命」という思想を生みだし、それがロシア革命を生み、ソヴィエト・ロシアが多くの悲惨と少しの栄光を残して潰え、後に中華人民共和国朝鮮人民民主主義共和国が残っている。
 フランス革命のなかで生きていたひとは後のロシア革命ソヴィエト連邦のことなど夢想もできなかったであろうし、ロシア革命を指導したレーニン中華人民共和国朝鮮人民民主主義共和国のことなどやはり夢想さえしていなかったであろう(ヨーロッパでの後続の革命は夢想していたであろうが)。
 未来のことはわからない。しかし今のわれわれがフランス革命の子孫であることは間違いない。ということで、もう少し、フランス革命をふくむ論点を検討していきたい。
 

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