今日入手した本

 
 まだきちっと読んだわけではないが、ざっと読んだ印象ではとても奇妙な本である。こういうタイトルであるが、タイトルから予想されるようなことが論じられるわけではない。ここの日本人は任意の言葉で代替可能である。「なぜチンパンジーは存在するか」でもいい。もちろん、チンパンジーが存在するのに理由などなく、この問いは無意味である。しかし「日本人はなぜ存在するか」というのは一見意味ありげでみえ、成立しそうに思える。そこに著者はフェイントをかける。日本人ってそもそも実在するの? それが意味するものは何? という方向に議論を(わたくしから見れば)すり替える。議論をメタレベルにもっていくというか、議論の階層を変える。日本人っているよね、という素朴実在論的な見方を(わたくしから見れば)笑って(嗤って)、ほらこんな風にみれば問題は全然違って見えてくるでしょう、と嬉しそうに(わたくしから見れば)偉ぶるのである。
 のっけから「見る人がいなくても「夕焼けは赤い」か? である。これは哲学者の野矢茂樹氏の「哲学の謎」の一節なのだそうであるが、『「そんなの、赤いに決まってる」と思った人もいるでしょう。でもよく考えてください。夕焼けは、太陽自体に「赤い」という性質があるから、赤いのでしょうか』と嬉しそうである。
 これはバークレー僧正の有名な「誰も見ているひとのいないところで倒れた木は音をたてたか?」の系であり、観念論、実在論といった哲学上の大問題であるので、あっさりと通りすぎてしまっていいところではないと思うのだが、いとも簡単に通り過ぎて、「夕焼けの赤さというのが現実にあり、それを赤いと認識する」というのを一般的な考え方とし、「赤い夕焼けとして見える」というのと「赤いものとして見る」というのがぐるぐるまわりする関係を認識論的な考え方として、そこに出現するものを「再帰性」となづけて、以下、一般論的見方を嗤って、「再帰性」という見方でそれを置き換えていくというのが、本書の方向であるようにみえる。著者によれば、一般論的見方を捨てて、認識論的な見方をできるようになった状態が「教養」のある状態である。大学の教養課程の使命は、そういう「教養」を学生に身につけさせることにあるのだ、と。
 バークレー僧正のいったことは、「認識されないものは存在しない」ということである。だから宇宙のどこかに宇宙を認識するものがいなければ宇宙は存在しないことになる。チンパンジーだって「赤い」夕焼けを見ているのかもしれないが(ここですぐにAさんが見ている「赤」とBさんが見ている「赤」が同じものかという議論がすぐにでてくるし、色覚異常のひとが見ている世界を色覚の正常なひとは絶対にに感じ取れないという問題もでてくる)、彼らは言葉を持たないわけだから「赤い」と思っていることは絶対にない。ただ見ている。もちろん、コウモリは「赤い夕焼け」はみない。
 ここの与那覇氏の論から想起されるものは、たとえばユクスキュルの「生物から見た世界」である。あるいはハンフリーの「赤を見る」である。もっと一般的にいえば、科学哲学におけるさまざま議論である。あるいはソーカルらが指摘したポストモダン思想の「「知」の欺瞞」である。あるいはポパーが「果てしなき探求」で述べている「言葉とその意味についての問題を本気になってとりあげようなどと力んではならぬ。本気になってとりあげなければならないのは、事実の問題であり、事実についてのさまざまな主張(もろもろの理論および仮説)、それらが解決する問題およびそれらが提起する問題である」という言葉である。
 わたくしには与那覇氏の議論は「言葉の意味」に終始しているように思える。それを氏はあたらしい見方としているようであるが、これはもう50年以上にもわたって、自然科学の分野では科学哲学の問題として様々に論じられてきたもので、少しもあたらしいことではなく、これを何となく新しいものと感じているであれば、人文学というのは自然科学に50年は遅れをとっているのはないかという気さえする。