小谷野敦「日本文化論のインチキ」(補)文化相対主義

 
 第6章のはじめに「文化相対主義の落とし穴」という見出しがあり、小谷野氏は、
1)真実は一つしかないという考え方を否定するひとがいるが、自分は物理的な事実は一つであると考える。
2)それぞれの文化は固有の価値を持ち、他の文化の尺度によってはかられるべきではないとする「文化相対主義」も自分はとらない。
 ということをいっている。
 
 ドーキンスの「悪魔に仕える牧師」の「何が真実か」の章に、現在大きな力をもっている「真理への難癖」として、次の二つのものをあげている。
1)「文化相対主義」 以下のようなもの:絶対的な真理などというものは存在しない。あなたがたが、数学や論理を含めて、科学的方法が真理に至る特権的な道だと主張するとき、個人的な信仰という行為に身をゆだねているのである。ほかの文化では、真理はウサギの内蔵や、あるいは精神に変調をきたした予言者のうわ言に見つかると信じているかもしれない。あなたにあなた好みの真理を選ばせるように導くのは、科学への個人的な信仰でしかないのだ。
2)ポパーからクーンにいたる科学哲学からの主張。以下のようなもの:絶対的な真理は存在しない。あなたの科学的真理は、これまでのところまだ誤りが証明できていない仮説にすぎず、やがて取って代られるべき運命にあるのだ。最悪の場合には、次の科学革命のあと、今日の「真理」は、たとえ実際にまちがっていなくても、珍妙で、馬鹿げたものと見なされることになるだろう。あなたたち科学者が望みうる最善のことは、しだいに誤りを減少させていくが、けっして消滅させることができない一連の近似でしかない。
 ドーキンスが許せないのは「科学も世界にたいする一つの見方にすぎず、それは西欧文明内でしか通用しない、地域に特殊なもので、他の文化の世界にたいする見方と特に優劣はない」というような主張なのである。
 それに対しては、そういう文化相対主義者が国際会議にいくとき飛行機には乗らないのか? 飛行機が予定どおり目的地につくのは科学の成果であり、それは西欧だけでなく、地球全体に、さらには宇宙全体に通用するものであることを示すのだと言い、またあるときに自分がシカゴにいたかどうかというのは、事実であるか、事実ではないかであり、「事実というのは、どういう意味ですか? 私がシカゴにいたという仮説は、これまでのところ誤りを証明されてはいませんが、それが単なる近似でしかないということに気づくのは時間の問題でしかないでしょう」とか「私がシカゴにいたというのは、「に」という単語の西洋科学的な意味においてのみです。ボンゴ人は「に」についてまったく違った概念をもっています。彼らによれば、山羊の乾燥させた陰嚢からのにおいを嗅ぐ資格を与えられた神聖な長老だけが、本当の意味である場所「に」いることができるのです」などということを誰が受けいれるだろうかといっている。随分と子供っぽい議論である。
 こういう部分を読むと、ドーキンスポパーやクーンをあまりきちんとは読んではいないようにも思える。ところで、なぜここでドーキンスをもちだしたかというと、この「日本文化論のインチキ」でしばしば小谷野氏はポパーを援用するのだが、氏の見方はポパーよりもドーキンスのほうに近いのではないかと思えるからである。
 ドーキンスのここでの議論では「事実」と「真理」が混同されているように思う。199x年にドーキンスがシカゴにいたかどうかは「事実」の問題(真か偽か)であって「真理」の問題ではない(もちろん、人間が一度に異なる場所に同時に存在することができるという仮定をおくと議論はもう少し複雑になる)。ポパーも「事実」が一つであることは当然承認する。ポパーがいうのは「事実」をいくら集めても「真理」とはならないということだけである(帰納法論理の否定)。では「事実」の役割は? それはあることが「真理」ではないと示すことである。「あなたたち科学者が望みうる最善のことは、しだいに誤りを減少させていく」ことであることはポパーは喜んで承認する。しかし、それが「けっして消滅させることができない一連の近似でしかない」ということは承認しないだろうと思う。近似ではなく「真理」にいたっている場合もある。ただわれわれはそれを「真理」であると知るすべがないのだ、ということである。
 ポパーは絶対的な真理が存在することを喜んで承認する、というかポパーは「真理」教の信者のようなひとで、有限の能力しかもたない人間には「真理」であっても「真理」であるとは把握できないとするのであるが、ほとんど「真理」という神殿にひとが近くのを妨げ、「真理」が永遠に神殿の奥に神聖なものとして鎮座しつづけることを望んでいるようにさえみえる。しかし、ドーキンスからすると、こういう見方こそが進化論も一つの仮説であると主張する「創造論者」に塩をおくる論にみえるのであろう。
 また「最悪の場合には、次の科学革命のあと、今日の「真理」は、たとえ実際にまちがっていなくても、珍妙で、馬鹿げたものと見なされることになるだろう」というのもクーンの説としては変で、クーンがいったことは同じ「真理」でも科学革命の前と後とでは、それを説明する前提がまったく違うものとなっているということなのだと思う。
 「悪魔に仕える牧師」には「仮面を剥がれたポストモダニズム」というソーカルらの「「知」の欺瞞」へのドーキンスの評もおさめられている。随分と調子の高い文で、「「知」の欺瞞」におけるソーカルらの冷静で沈着な議論の進め方とは著しい対象をみせている。わたくしに「「知」の欺瞞」で一番おもしろいのは「第一の間奏−科学哲学における認識的相対主義」という章である。ここでソーカルらは、「ポパー相対主義者ではない。その正反対である」とし、クーンやファイヤアーベントらの多くはポパーへの反論としてその哲学を構築したとして、ポパーとクーンを一緒にしてしまうドーキンスの杜撰な議論とは違う緻密な検討を試みている。ソーカルらはポパーに好意的、クーンについては中立的、ファイヤアーベントについては批判的という感じであるが、ファイアアーベントらの極端な論がでてくることになった源は、ポパーの論の曖昧さと不十分にあるとしている。
 小谷野氏もラカン批判に「「知」の欺瞞」を援用している。氏はフランスのポストモダン思想をインチキ学問の典型としており、そのインチキのもとをたどっていくとヘーゲルにいきつくとし、そのヘーゲルを批判したのがポパーであるという構図から、ポパーポストモダン思想の批判者という位置をあたえているのだが、ポパーをふくめた科学哲学の一連の流れをポストモダン思想の一部ととらえる見方もまたあるわけである。
 
 わたくしが、ポストモダン思想に類するものにはじめて接したのは村上陽一郎氏の著作を通じてであったと思う。たしか、最初に読んだのは叢書「文化の現在」(岩波書店 1980年)というシリーズの一冊として刊行された「喜ばしき学問」という本に収められていた「自己の解体と変革」という文であったと記憶している。いかにも全共闘運動後というタイトルで、いやらしい題だなあと思いながら読み出したように覚えているが、すっかりはまってしまった。大学で学問をすることの「後ろめたさ」ということからはじまり、大学という制度のなかでおきてくる学問というものの制度化(あとから思うとクーンのいう「ノーマル・サイエンス」の問題)というようなところから科学史の話にはいり、クーンの「科学革命の構造」を紹介しながら、「科学史」「科学哲学」というまだ若い学問分野がそれだけで独立して立派に存在しうる有意義な分野でありうるという主張をもおりまぜていく、なかなか芸の細かい論だった。ここで自然科学を「相対的」に見るという見方をはじめて教えられた。なにしろそれまでは、自然科学というのは新しい知識がどんどんと積み重ねられていく単純な進歩の過程であるという「常識的」な見方に何の疑問ももっていなかったのである。
 村上氏の本は目から鱗であった。それで、そこに紹介されていたシャルガフの「ヘラクレイトスの火」を読んでみたり、村上氏の本も「近代科学と聖俗革命」「科学と日常性の文脈」「科学史の逆遠近法」「西欧近代科学」など次々に読んでいった。村上氏としてはクーンやファイヤアーベントのほうに親近感をもっていたのであろうと思うけれども、わたくしは結局ポパー信者になってしまった。「著者は、科学はけっして客観的・普遍的な存在ではなく、西欧という文化圏の、近代という歴史に特有なものであると主張する」というのは「近代科学と聖俗革命」の裏にある「西欧近代科学」の宣伝として引用されている「週刊朝日」の書評の一部であるが、まさにポストモダンの文化相対主義そのものである。
 ソーカルたちは「反証可能性と反証を軸にしたポパーの図式は、ある程度割り引いて受け取る限り、悪いものではない」という。しかし(反証主義論理実証主義への批判としてでてきたわけであるが)「実証を捨て去ることで、あまりにも高い代価を払うことになる」という。「ポパーは、反証の方法がヒュームの問題を解決したと考えていた」が、「これは否定的な解決でしかない。」「特に、科学の役割の一つは、他の人々(技術者や医者など)が信頼して利用できるような予言をすることだが、そのような予言は必ず何らかの帰納に依存しているのだ」し、「科学の理論が受け入れられたのは、何といっても、それが成功したから」で、肯定的な面を持たない科学論では現場では困るのだ、と。
 ソーカルらの言うとおりなのだと思うが、ポパーはそういう方面には全然関心がないのだと思う。ポパーは科学哲学者ではあるが、科学技術といった方面には関心がなく、むしろそのような実用の方面から科学を擁護することは汚らわしいことであると思っているのではないかと思われる節がある。ドーキンスは飛行機がきちんと目的地に着くのは科学の成果ではないかというが、そういう方面からの科学の擁護はポパーのもっとも嫌うところであり、ポパーの関心はひたすら科学を科学たらしめる論理のありかたなのである。つまり科学を科学でないものと分かつものは何か、である。もしも役に立つからいいのであれば、西洋の医学もアフリカの呪い医も両者ともに有効であろうから、それを分かつものがなくなってしまう。「科学も世界にたいする一つの見方にすぎず、それは西欧文明内でしか通用しない、地域に特殊なもので、他の文化の世界にたいする見方と特に優劣はない」などという考えこそポパーももっとも忌み嫌うもので、そういう見方がでてくるのは役に立つかどうかというような実用の観点から議論がされるからで、どのような方法論に立っているかという視点をいれれば、科学の優位は明らかであるとする。科学は独善的ではない批判的な方法の上に成立しているからである。(わたくしに)ドーキンスの論が危うく見えるのは、それが批判的な立場を放棄して独善的なほうに向う匂いが相当にするからである。ドーキンスは幼児期での親から子への宗教教育を禁止させることができれば宗教という迷信を撲滅できるとしているようなのだから、ポパーからみれば「危険な知識人」の仲間ということになるのだろうと思う。
 ポパーの認識論がいくつかの正しい洞察を含んでいることには疑問の余地がなく、反証可能性と反証を重要視することは、帰納の全面否定のような極端に走らない限りは、ポパーの基準は有益で、特に天文学占星術のような極端に異なった営みを比較する場合にそうである、とソーカルらはいう。だが、問題がおきてくるのは、ポパーの論が強烈な反合理主義者の反応を呼んで、そこから極端な反科学的な姿勢が生じてくる場合なのである、と。
 クーンの「科学革命の構造」は一見するとごく常識的なことを主張しているようにみえる。問題は「パラダイムの通約不可能性」という概念を文字通りに信じ込んでしまう場合であり、モードリンというひとによれば二人のクーンがいる。穏健なクーンと穏健ならざるクーンである。そしてクーンをめぐる議論は、つねに「穏健ならざるクーン」をめぐっておこなわれ、困ったことにクーンもその解釈を絶対的には否定しない、そうカーソルらはいう。
 また、ファイヤアーベントの場合は、自ら意識して宮廷道化師を演じているようなところがあるから、その発言をどこまで真面目にとったらいいのか困るのだが、ここでもつねにそのもっとも過激な部分のみが論じられる、という。穏健な主張−あらゆる方法論はその限界を持つ、はいうまでもなく正しい。だがそこからいきなり、もっとも過激な主張−だから、なんでもあり!、がでてくるのを肯定することはできない。ファイヤアーベントはいう。「『客観性』を主張し続ける人々、つまり科学の精神に完全にしたがって生きる人々にとって、愛は不可能」なのであり、「私は「知識を進歩」させるのではなく、人々を助けたいのだ」。明確に意識して政治的な運動をしているのである。
 おだやかなポパー、穏健なクーン、抽象的に論じているかぎりのファイヤアーベント、それらは何も問題をおこさない。しかしみんなが論じたがるのは、極端なポパー、穏健でないクーン、政治運動家としてファイヤアーベントなのであり、それらはポストモダン思想、文化相対主義を支持する論にみえるのである。
 
 小谷野氏は「フランス現代思想」のなかでレヴィ=ストロースのみを評価するようであるが、文化人類学が西欧の学問にあたえた影響は非常に大きなものであったと思う。文化人類学はまさに西欧を相対化しようとする試みであった。相対化の基礎には世界のどこにでも共通する「構造」をみるという普遍化への志向があったのだとは思うが。そうではあっても、それは西欧の絶対化への反旗ではあったはずである。ポスト・モダン思想が想定するモダンとは西欧近代なのであり、植民地獲得競争の時代から両世界大戦にいたる歴史をみれば、近代の西欧への批判がおきるのは当然であり。ほとんどのポスト・モダン思想が西欧のなかからでてきたのも、その意味で当然であるともいえるし、(われわれが頭にうかべる)思想というものが結局は西欧のなかでつくられてきた枠組みからでていないことを示しているともいえるように思う。
 問題は近代西欧への反省のなかで、盥の水と一緒に赤ん坊まで流してしまうことがないかという観点であり、ポパーは「科学」という思考法を決して流してはいけない西欧の核として守ろうとしたのだと思う。そしてポパーが守ろうとしたもう一つの西欧の核が「寛容」である。だが、「寛容」はどこかで相対主義と結びついてしまうかもしれないのである、が。
 ポパーが「寛容」が相対主義と結びつかないように持ち出してきたのが、例の「世界3」ではないかと思うが、「世界3」についてはわたくしはよく理解できていない。「世界1」は事物の世界、「世界2」は思考過程のような主観的経験の世界、「世界3」というのは言明それ自体の世界をいう。つまり、言明はそれをいった人の主観ではなく、言明されることによって客観的なものとなる、という主張である。これは一見、ポストモダン思想でのテキスト論に通じるようにも思える。ある作者Aがある著作Xを公表した場合、それについてBが、この作品はこういうことを言っているのだと主張したのに対して、CがそんなことはAの意図ではないといった場合、Cの議論はなりたたない、なぜならば、作品Xに対しては作者Aもまた一読解者に過ぎないのであり、Bに対して何ら特権的な位置にいることはないとでもいうようなものである。作品Xに対しては、Aの主観、Bの主観、Cの主観・・・とさまざまな主観的な見方があり、それらは対等であって優劣を問うことができないという、あきらかな相対主義である。おそらくクーンの共約不可能性にもどこか通じる議論で、ある事実というものもそれを見ている見方とワンセットなのであり、事実そのものなどというのはなくて、事実に対するさまざまな主観があるだけであるという方向である。
 これはまたマルクス主義の上部構造−下部構造などの議論にも通じる議論で、お前がそう考えるのはお前がプチブル意識を脱していないからだ!という議論がかって猛威をふるっていた。このあたりは内田樹氏の「寝ながら学べる構造主義」でとてもうまく説明してあった。フェミニズムの議論もそのやりかたの踏襲であったといったことが説得的に主張されていた。あるテキスト自体について論じるでのはなく、そのテキストを書いたひとがどういう人間であるかという方向に議論が進んでいく。結局は作者の主観を問うという作業になる。
 ポパーが「世界3」ということで言おうとしているのは、テキストは書かれることにより主観を離れて客観的なものとなるということで、それ自体が議論の対象物となるということである。ポストモダン的にみれば、すべては主観に還元されてしまい、主観については正邪は議論の対象にはならないということで、すべては言いっぱなしで終ってしまう。そうではなく客観的な対象物であれば、それについて議論することが可能になるということである。
 テキストそれ自体ではなく、テキストが書かれた背景を論じるということは、わたくしもしばしばしていて、ポストモダン思想は西欧近代の悪への批判から出発しているのであるから、それ自体のナンセンスをいうのは気の毒であるというようなことをつい最近も書いたような気がする。この「日本文化論のインチキ」についていえば、平川祐弘氏の諸作の背景にあるのは氏の天皇崇拝であるとか、上野千鶴子氏や佐伯順子氏の主張は、それぞれが良家の厳格な環境のもとにそだち、堅い性道徳のもとに育ったことに起因しているとしている。それはそうなのかもしれないし、事実そうなのだろうとも思うが、そうであるならば、それぞれのひとが言っていることは、論ずるに足りないとしてしまうのであれば、問題がおきてくる。作品自体を真剣に論じることをしなくてもすむようになってしまうからである。わたくしの場合であれば、ポスト・モダン思想がいくら変なことをいっているとしても、盗人にも三分の理であるということになる。そういう言い方で、ポストモダン思想への正面からの議論を回避している。いずれそれを正面から論じなくてはいけないと思うのだが、とりあえずいえば、ソーカルらは、おだやかなポパー、穏健なクーン、抽象的なファイヤアーベントならなんら問題ないとするのであるが、同様に穏健なポストモダン思想(などというものがあるかどうか問題で、過激であるからこそポストモダン思想であるのかもしれないが)というのは充分に生産的なところをもっているのではないかと思う。だが、ポストモダン思想を批判するひとはその一番過激な部分を誇張して批判する。ドーキンスの論などその典型であると思う。それが議論を非生産的にしているのではないかと思う。
 ソーカルは物理学者であるし、ドーキンス生物学者である。彼らの頭にある科学とは、まず第一に自然科学である。ところが自然科学の分野で研究するもののほとんどは科学哲学にはまったく興味がないし、ポパーやクーンやファイヤアーベントのいうことにも関心がない。なぜなら、インスリンはどの民族の人間にも同じように作用するし、われわれを規定している物理法則は、はるかかなたの星々をも規定していることを露ほども疑っていないないからである。それらは普遍的であって、時代によって変わったりはしないと確信している。科学哲学に興味をもつのはほとんどが人文学の方面のひとなのである。
 
 内田樹氏の「寝ながら学べる構造主義」によれば、構造主義というのは「私たちはつねにある時代、ある領域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分で思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視野に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。」という考え方ということになっている。これはクーンの論の骨格そのものであるとも言えそうであるし、ポパーの「世界3」という提案がそれと真っ向から対立するものであることもまた明白である。
 ポパーは「相対主義」に反対して、「(批判的)多元主義」というものを唱道する。「ルーズな寛容から生じる相対主義が暴力の支配を導くのに対し、批判的多元主義は暴力の制御に寄与することができます。」「相対主義とは、何でも主張できる、ほとんど何でも、したがって何も主張しないという立場です。すべては真であるか無であるかなのです。ですから真理は意味をもちません。/ 批判的多元主義とは、真理の探究という関心のもとにあらゆる理論が−理論の数が多ければ多いほど、理論はよくなるのですから−理論間の競争に投げ入れられるべきであるとする立場です。」(「寛容と知的責任」 「よりよき世界を求めて」所収)というものである。相対主義は正しいか間違っているかという視点を欠くが、多元主義というのは多くの主義主張が(どこかに存在するはずの)「真理」を目指して競いあうというとする見方である。
 内田樹氏は「構造主義的見方」はわれわれの常識となっているという。アラブの大義を西欧の視点で理解しようとしてはいけないとするのは、現代における一番穏当で常識的な見解にさえなっているという。そうだとすればポパーの見方は著しく反時代的なのであり、「私が現代のほとんどの哲学者と意見を異にしている」というのもいたって当然ということになる。だがポパーのいうのは「ほとんどの哲学者」であって、「ほとんどの科学者」ではない。内田氏がいう「われわれの常識」の「われわれ」のなかには多分、自然科学についての知見は入っていない。
 
 それで最初に戻る。小谷野氏は、
 1)真実は一つしかないという考え方を否定するひとがいるが、自分は物理的な事実は一つであると考える。
2)それぞれの文化は固有の価値を持ち、他の文化の尺度によってはかられるべきではないとする「文化相対主義」も自分はとらない。
 とする。
 物理的事実が一つであるということは、あまり問題にはならないのではないかと思う。過激なポストモダン思想家だって、実生活ではその信念なしには生活できない。
 問題は2)の方である。たとえば、わたくしが従事している医療の世界は、現在、完全に相対主義の世界である。ある患者さんについて、ある方針を医療者が提示したとして、それはあくまで医療者の見方なのであり、それを受けるか受けないかは患者さんの側の判断による。正しい選択というものはなく、主体的な選択があるだけである。医療者からみると絶対に必要であると思われる輸血を拒否している「エホバの証人」の信者である患者さんがいるとする。「(事実として)神はいない」あるいは(もっと穏健に)「聖書にはそのようなことは書いてない」と医療者が思ったとしても、それはあくまでも医療者の考えなのであって、正しい考えではない、患者さんの意思は尊重されるべきである、というのが現在の主流である。
 金森修氏の「サイエンス・ウォーズ」のなかに「生殖のバイオポリティクス」という章があり、こんな話が紹介されている。現在でもスーダンなどの多くの国で女子割礼が行われいる。1980年代、イギリスの産婦人科医のあいだでこんな議論がおきた。女子割礼を野蛮な風習であると規定することは他文化への容喙である。しかし現地の素人がおこなっている不潔で危険な手術をなんとかできないだろうか? 自分たちの技術によりもっと清潔で安全な手術をしてあげることはできるのではないか?
 小谷野氏は「文化も根底に普遍的なものを持っており、ただその表れにおいて様々な変異を持つだけだと考えている」という。おそらく、この普遍性の部分の追求として、脳科学、動物行動学、進化心理学行動経済学といった様々な分野での研究がおこなわれているのだと思う。そいう方面からの知見が人文学や社会科学の相当の部分を変えていくことは間違いないだろう。わたくしから見ると、文科の方面のひとはそういう方向からの情報や知見についてはまだまだ著しく鈍感であるように思う。しかしなぜ鈍感であるのかといえば、脳科学、動物行動学、進化心理学といったものが人間を動物であるという観点からみているのに対して、「文科」というのは人間の動物ではない側面を扱う学問であるという自負の上に成立しているからである。
 医療でおきるほとんどの問題も(大部分の)医療行為は動物としての人間という理解のうえに成立しているのに対して、患者さんは動物ではない人間として反応することに起因する(だから精神医療というのが医療の鬼子になってしまうのであり、精神医療も脳という心臓や肝臓などと同じひとつの臓器におきた異常であるとみる立場が現在優勢になってきているのも、「精神」を特別あつかいしたくないという医療の根源的な志向と関係していると思う。医療は医療者内部では「自然科学」として議論がされている。ここでは相対主義はありえない。どこかに正しい答えがあることがみなに前提されている。しかし、対患者関係では、「自然科学」からの答えは絶対でなくなり、医療をとりまく文化のなかで相対化されてしまう。
 あることについて正しい見解は一つだけであるとすれば、それを知った思ったひとは他人の批判に耳をかす必要はなくなる。自分は正しいのである。これは事実がどうであるかというのとは次元が異なり、世界の「真理」を知ったのである。そのようなものの一つとして「歴史法則」を知ったと思った人々がどのような不幸を世界にもたらしたかを論じたのが、ポパーの「歴史法則主義の貧困」である。自然科学の世界には「絶対」があり、人文科学の世界には「絶対」がない、ということなのだろうか?
 他人の批判に耳をかさず、自分は正しいとすること、それは「神」ならぬ人間にはしてはいけないことであり、それを自覚することは、自分が有限な存在である人間であることの自覚から生じるはずの当然の義務である、それが一方の主張である。他方、人間は有限であるからといって、それに開き直るのではなく、今よりも少しでもよくなるためにつねに努力しなくてはならない、それがもう一方の主張である。ポパーの主張は相対主義に通じるように見える部分もあり、相対主義を否定しているように見える部分もある。
 極端なポパーを見る人には、それが相対主義にみえる。穏健なポパーを見るひとには、それは相対主義批判にみえる。ポパー相対主義の側の人間とみることはポパー思想の果実を味わうことができないのではないかと思う。相対主義と闘うひととしてのポパーこそが生産的なポパーではないかと思う。しかし、穏健な思想というのはひとをひきつけず、過激な思想こそが魅力的にうつるらしい。それは人文学や社会科学につきまとう根本的な問題なのかもしれない。
 

日本文化論のインチキ (幻冬舎新書)

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