内田樹「呪いの時代」

    新潮社 2011年11月
 
 第11章の「戦争世代と科学について」について考えてみたい。15ページくらいの短い論で、ポパーの科学論が論じられているのだが、氏のポパーの見方に違和感を感じるからである。
 敗戦をきっかけに「科学と身体」の研究に進んだ先輩が少なくとも二人いるとして、内田氏は養老孟司と多田宏の名前をあげる。多田氏については知らないが武道家らしい。敗戦での価値観の強烈な転換がそうさせたという。「もう何も信じられない」状態でなお生き延びようとするならば、「私は『もう何も信じない』を信じる」ということを信条とせざるをえず、それはとりもなおさず「科学と身体を信じる」ということを意味したのだ、と。
 内田氏は、科学性というのは「世界の成り立ちについてのあらゆる理説には賞味期限があり、かつそれが適応される範囲は限定されている」という肚のくくり方のことであるという。それは、自分の使える知的な道具の有限性、自分が準拠している度量衡の恣意性、自分が思量に用いる計測機械の精度の低さを自覚することであり、端的にいえば「自分のバカさ加減」についての自覚のことであるのだと。
 そこでポパーがでてくる。ポパーは科学の定義を「反証可能性」に求めた。ポパーの「開かれた社会とその敵」のなかのロビンソン・クルーソーの例え話をつかって、内田氏はそれを説明する。ロビンソンがありあまった時間を利用して実験や観測をし、それによって「世界の成り立ち」についての論文を書いたと仮定する。そこでロビンソンが示した成果が、現在の諸科学において一般的に受け容れられている諸命題と一致したとする。それならば、この「クルーソー的科学」は「科学的」か? ポパーは否と答える。なぜなら孤島には彼の成果をチェックするものが誰もおらず、自分の仕事を説明できる他者もいないから。
 ここで内田氏は変なことをいいだす。『ポパーは「反証が正しい場合には反証された命題は科学的たりうる」というようなことを言っているわけではない(反証が正しいなら、もとの命題は端的に「間違っている」というだけのことである)。たいせつなのは「反証の機会が確保されている」ということである。』(前半部分、最初、誤植ではないかとさえ思った。どうやらそうではなく、ポパーの「反証可能性」を「反証されたものが科学である」ということだと思っているひとがいると内田氏は考えているのであろうとみて、ようやくこの部分が呑み込めた。) 「反証されうる可能性のある命題こそが科学的たりうる」というのがポパーのいわんとすることなのだから、反証されたということはその命題がたとえ間違ったものであることが明らかになったとしても、その命題は科学の世界の中にはとどまるということである。内田氏の言い方は非常な誤解をまねくと思う。「反証されうる」ということが「反証の機会が確保されている」という公共性の問題にここでは還元されているが、「反証されうる」ことの含意はもっと大きくて、孤島のロビンソンには彼が自分の論を説明するる第三者も、彼を批判する第三者もいないというような部分だけに限られるわけではない。
 この「開かれた社会とその敵」のロビンソンの例は、透視者が夢で現在の諸科学において一般的に受け容れられている諸命題と一致する命題を得た場合と比較されている。後者は「啓示的」であるとされるのだが、ここでポパーがいうのはロビンソンの成果もまた「啓示的」なのであって「科学的」とはいえないということである。つまり実験とか観察ということが「科学的」なのではないということである。透視者の夢の啓示の場合には、その方法は科学の方法ではない。ロビンソンの場合には、その方法は科学の方法に見えるのだが、それでも批判者を欠くことによって啓示的なのである。ここでポパーがいいたいことは、大部分の人文社会科学の命題は「啓示的」な方法によっているということのほうである。ポパーの用語を用いるならば、それらの言説は批判に対して「開かれて」いない。
 内田氏の論もまた「言論の自由」という人文・社会科学に大いに関連する話につながっていく。氏はいう。「言論の自由とは、複数の理説が自由にゆきかう公共的な言論空間がいずれそれぞれの諸論の理非について判定を下してくれるであろうという場の判定力に対する信認のことである。」 この論は、ある説が提示されたときに、それを批判しようと待ちかまえている多数の批判者の存在を前提にしている。内田氏は、自分の説は正しいのだから、批判など受けつけないとする行きかたを、それに対立するものとして想定しているようであるが、現代では問題はむしろ、言論がお互いに関心をもたず、言論が空虚な空間に空しく放たれるということのほうがよほど大きな問題なのでないかと思う。つまり共通の関心の欠如である。
 氏はいう。「ほとんどの人はある命題が真理であることがあらかじめわかっているなら、それに反対する異論は封殺して構わないと考える(だって、異論の方が間違っているのだから)。」 ここがもっとも違和感を感じるところである。「ある命題が真であることがわかる」ことがあると内田氏は信じているように思える。内田氏がいいたいのは、たとえある人があることを真であると明確に示したとしても、なおかつ真であることへの異論は確保されなくてはならないということなのだろうか?
 「ある命題が真理であることがあらかじめわかっている」という部分が問題である。『ポパーは「反証が正しい場合には反証された命題は科学的たりうる」というようなことを言っているわけではない(反証が正しいなら、ものと命題は端的に「間違っている」というだけのことである)。』と内田氏は書いていた。それならば、反証された命題、端的に間違っている命題について、いや自分はそれでも自分はそれを信じると主張することは「言論の自由」なのだろうか。
 ポパーがいったことは、われわれには何が正しいかはわからないが、何が間違っているかだけはわかるということである。われわれは愚かであるから、何が正しいのかはわからない。しかし、愚かではあっても何が間違っているかはわかるということである。
 ポパーは「何が正しいかはわれわれにはわからない」とした。内田氏は「何が正しいか仮にわかったとしても」といっているように見える。それではポパーの論とはまったく違ったものになってしまうのではないだろうか。
 『場の合意を以て理非の判定に代えるということでどうだろう。その代わり、「場の合意」はコンテンポラリーなものにすぎないということにも合意する。場が認定したのは「暫定真理」に過ぎない。だから、新たな反証事例や未見のデータが示されたら、「暫定王位」がペンディングされ、再び真理をめぐる議論が始まり、再び場の判定が下る』と内田氏は書いているのだが、この場合、a)本当は真理をすでに誰かが発見しているのかもしれないが、それにもかかわらず、それは真理ではないとしてあつかっていくほうが生産的ということなのか、b)「真理」という言葉を「場の合意」とすればいいということなのか、そのあたりがわからない。
 ポパーがいったのは反証されたものは否定されるということであって、肯定するための手段は何もないとしたのだから、まだ反証されていない複数の論が並立しているなどということはいくらでもあるはずであり、それについての場の合意など形成されえないはずである。
 「自分の語る命題が真理であるとあらかじめわかっている人は「言論の自由」を望まない。・・彼が望むのは「教化する自由、自説を宣布する自由、自説に反対するものを黙らせる自由」だけである」とも、内田氏は書いている。なぜわたくしがこういうところにこだわるのかといえば、「神は妄想である」でドーキンスがいっていることは、ここで内田氏がいっている「自分の語る命題が真理であるとわかっている人が、自説に反対するものを黙らせる自由」を主張しているとしか思えないからである。しかもドーキンスは全身これ「科学」の人なのである。進化論は進化ということについての説明、それがどうおきたのかということについての仮説であるから、現在有力とされている説明が将来間違いであるとされる可能性はある。しかしその議論の前提は進化ということがあったということであって、進化などというものはなく世界は聖書に書かれているように創造されたという説明とは両立しえない。
 あることが事実であると認めるということとその事実をどのように説明するかということは別のことである。どのように説明するかは「科学」に属するが、何を事実であると認めるかは科学の前提であって「科学」自体ではない。現在観察されるさまざまな事実から進化ということがあったと推測することも科学のうちなのであろうが、そのような事実が重要なものであると認識する前提は進化ということに関心があるからであって、進化に関心がないひとにとっては進化論者が提示するさまざまな事実も、ただそれは事実としてそうなっているというだけのどうでもいいことであるに過ぎない。
 創造説を主張することも言論の自由のうちなのであろうか? 「言論の自由とは、複数の理説が自由にゆきかう公共的な言論空間がいずれそれぞれの諸論の理非について判定を下してくれるであろうと場の判定力に対する信認のこと」であるとしても、複数の理説が自由にゆきかう公共的な言論空間に委ねておけば、その場の判定力が自ずと方向を示してくれることを信じていいのであろうか? なにしろアメリカでは過半のひとが世界は聖書に書いてある通りに創造されたと思っているのだそうである。
 創造説を支持するひとも進化論を間違っているなどとはいわない。世界がこうあるということについて、進化論の説明も一つの説明、創造説もまたもう一つの説明、絶対に正しいことがわれわれにわかるというようなことは(ポパーによれば?)ないのであるから、両論併記すべきであるというようなつつましいものである。
 つまりここにでてくるのは相対主義の問題であって、あることが絶対に正しいということはないということが延長されると、「科学」もまたその範疇にはいってしまい、「科学」というやりかたは西欧という一地方文明の間でのみ主流となっている世界に対する説明法の一つに過ぎないのであり、西欧の中でも非主流の別の説明のやり方はあり、また非西欧圏では「科学」とは違う説明法を採用しているところも多いのであり、「科学」のやり方が「正しい」などということはないという方向がでてくる。
 わたくしは、ドーキンスは「私が正しいことを述べているのは自明であるので、その真偽を検証するは時間のムダである。いいから、こいつらを黙らせろ」といっていると思えるのだが、それによってドーキンスの論の正否が公的承認を得る道筋は塞がれてしまった、とは思えない。ドーキンスがする進化についての説明についてはさまざまな反論や異論があるであろうが、それは「科学」という公共の場の内部での判定力を信認してそこに委ねられている。しかし「科学」の場のなかにいるひとは「科学の方法」という信条を共有しているのであり、その外側に膨大な「科学の方法」と縁もゆかりもない人たちがいる。その人たちは「科学」の場にははいってこない。
 「科学」はモノ、事物、あるいは事実にかかわる。しかし「言論の自由」ということがかかわるのはほとんどが思想とか信条とかいった人文科学や社会科学の分野に属するものである。自然科学にかかわることが「言論の自由」に抵触することもあるが、それは大部分その主張が人文科学や社会科学の分野にもかかわってしまう場合である。そして人文科学や社会科学の分野で「正しい」とされた言説こそが人間の歴史に破壊的な惨禍をもたらしてききたというのが「開かれた社会とその敵」といったポパーでの人文学社会科学方面での発言の根幹であって、自然科学においてすら何が正しいかはわからないのであるから、ましてや人文学や社会科学においておやということである。
 内田氏によれば、ポパーの「反証可能性」に意義があるのは、その方法を採用する方が人類の知的パフォーマンスがあがるからなのである。「おれが正しい、お前は黙っておれ」というような世界では、大部分のひとが自分で考えなくなってしまい、全体的な知的パフォーマンスが落ちるという(最近の某大新聞社や某カメラメーカーでのできごとはその実例なのであろうか?)。内田氏もいうように、公共の場を信認するということは大事であるとわたくしも思うが、その信認の前提は、みなが真剣に議論に参加するということであって、自分の考えを言いっぱなしで、他のひとのいうことには聴く耳をもたないということでは場への信認もなにもあったものではない。
 わたくしからみると「言論の自由」の問題は、「俺の考えは正しい、お前は黙っておれ!」というほうにあるのではなく、「自分の考えはこれ、あなたの考えはそれ。お互いに領地をまもって波風たてずに、共存共栄でいきましょう」という方向にあるのではないかと思う。「大きな物語」というのはすでに崩壊してしまったのだそうで、そういう大きな物語同士での激しい争いなどというのはまずみられなくなった。もっとささやかな説が林立して、しかもそれぞれが些細な部分の些末な議論に終始していて、その議論に関心をもつひとはほんのわずかしかいないという状態では、公共の場への信認などありえない。
 ポパーによれば、われわれは何が間違っているかを知ることはできても、何が正しいかは知ることはできないのであるが、それにもかかわらず、どこかに正しいことがあることを信じて、それにむかって進んでいこうとすることが大事なのであり、何が正しいかはわからないのだから、どの説にも優劣はないとするとするような態度は、ポパーのとるところではない。
 内田氏は「日本辺境論」の「はじめに」で「以上が予想される批判についての本書の原則的立場であります。つまり、どのような批判にも耳を貸す気がないと言っているわけですね(態度が悪いなあ)」などといっているが、本当に態度が悪いのであって、こういうのは公共の場への信認がないというのではないかと思う。「日本辺境論」は学問的厳密性などは一切顧慮していない大風呂敷の議論などだから、あちこちに穴があいているに決まっている。それを一々いってこられていも相手にするつもりはないからよろしく、というようなことなのだが、そういうものを公共の場に提示することがそもそも場への礼と敬意を欠いているのではないかと思う。
 『いろいろやってみた結果、「言論のゆきかう場の理非判定力を信認する」ことの方が「ほんとうに正しいことを言う人のみ選択的に言論の自由を許す」ことよりも、世の中がすみよくなるということがわかったから』そういうルールでゆくことに近代社会は合意した、と内田氏はいうのだが、なんだかこういういいかたをみると、内田氏は「ほんとうに正しいことをいう人」がどこかにいるとしているのではないかと思えてしまう。そういうひとは確かにいるのだが、それでもそういう人に大きな顔をしてもらうと、全体のパフォーマンスが落ちてしまうから、しかたがないからそういうひとには遠慮してもらって、その他大勢の合意を尊重することにしましょうとしているように思える。
 こういう見方ほどポパーから遠いものはないのではないかという気がする。「私は『もう何も信じない』を信じる」というのはわたくしには相対主義に思えてしまう。何も正しいものはないという見方はポパーと正反対である。ポパーのように真理の存在を信じていたひとは稀なのではないかと思う。しかし、それにもかかわらずわれわれは真理にはいたれないのである。あるいは真理にいたったとしても、それと知ることはできないのである。「自分のバカさ加減」を自覚することは大事であるが、それにもかかわらずわれわれは永遠に到達できない真理にむけて努力しなくてはならないのである。内田氏がポパーがロビンソンを論じている部分を引用している「開かれた社会とその敵」の少し先にこんな部分がある。『科学的成果は「相対的」(ともかく、この用語が使用されるべきだとするならば)であるが、ただしそれは、科学的成果が科学的発展のある段階の成果であり、科学の進歩過程で容易に取り換えられるという限りにおいてである。しかし、このことの意味は、真理は「相対的」であるということではない。主張は真であるならば、永遠に真である。』 「世界の成り立ちについてのあらゆる理説には賞味期限があ」るという説にポパーは決して同意しないだろうと思う。
 

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