R・クーパー「精神医学の科学哲学」

  名古屋大学出版会 2015年6月
 
 最初は面白く読んだいたのだが、段々と違和感を感じるようになった。その理由なども考えながら、以下少し書いてみたい。
 わたくしの感じる違和感の一番の原因は著者のもっている、言葉あるいは定義というものへの過度のこだわりにあるように思う。プラトン的というのとは違うかもしれないが、言葉があるからには、それに対応する実体もあるはずであるという方向の議論である。言葉はコミュニケーションの道具といった見方ではなく、われわれの外にある実体と対応する何かなのである。
 第一章「はじめに」は、ポパーの「線引き問題」からクーンの「パラダイム」へとオーソドックスに科学哲学の流れをたどる。著者は科学と科学でないものを区分するための「線を引く」ことはできないとして、ウィトゲンシュタインの「家族的類似性」の概念を示して、「科学」もそれと同様のものだとする。そして本書の主張は、「精神医学は典型科学に十分類似した特徴を備えている」ということであるとする。
 第二章では、R・D・レインらの反精神医学やフーコーの「狂気の歴史」などを論じて、精神疾患は実体としては存在しないものであり歴史の産物なのであるとか、社会がある種の人間にはるレッテルであるという論を検討するが、最終的にはそれを否定する。
 こういう議論は疾患とは身体疾患のみをいうのだろうかとか、精神疾患といわれるものも実は身体疾患の一部なのだろうかという議論へと、当然つながっていく。そういう方向の論に関心があるわたくしも、それは興味深いものと感じる。
 けれども、「精神疾患が実在するなら、それは何なのか」という副題をもつ第三章「精神疾患の本性2」になると方向が見えなくなってくる。すぐに「用語のついて」という節がでてきて、「疾患」「障害」「病的状態」を代表して「疾患」という言葉が選ばれ、その言葉の「生物学的」定義、「行為の可能性から見る立場」、それらではうまくいかないため採用される「込み入った」学説などを検討することになる。しかし、急性心筋梗塞強迫神経症をともに「疾患」あるいは単に「病気」と呼ぶことはわれわわれもしばしばしているけれども、それはあまりにも違ったものであるので、それでもそれを「病気」と呼ぶのはなぜかといった方向の議論は端的に無意味ではないかとわたくしは感じてしまう。(高度の救急医療は語弊があるかもしれないが機械の維持ないしは修繕であって、精神分析の面談といったものとはまったく次元が異なる。精神科救急というものもあるが、その場であつかうのは身体機能の維持ないし回復であって、その間は精神には眠っていてもらう。) もちろん、疾患を定義しようとするのは、心筋梗塞は病気だが強迫神経症は病気ではないというひとが少なからずいるからこそなのであう。そうではあっても、厳密な「病気」という言葉の定義をしていくことに何らかの意味があるとは思えない。Aさんの考える「病気」とBさんの考える「病気」は同じではない、それにもかかわらず「病気」という言葉ばあり、それを用いて会話が成立し、議論が成り立つことのほうが重要なのではないだろうか? どうもこのあたり言語というものに異様にこだわる現代英米哲学の宿痾のようなものを感じる。
 ポパーがいうようにフロイトポパーの場合にはアドラー?)の精神分析は科学ではない。しかし精神分析によって治るあるいは癒されるひとが間違いなく一部に存在することも確かである。臨床の場では患者さんがよくなればそれでよしとされ、科学として正しいか否かは二の次である。精神分析は臨床で役にたつことがあるからこそ、生き残ってきている。病気が誰かの呪いの結果としておきると信じられているところでは、加持祈祷がきわめて有効な治療法となるあるはずである。
 病院あるいは診療所にくるひとがみな病気なわけではない。症状があるから来る場合もあるが、何々という病気が心配でくるひともまた多い。風邪は病気であるのだろうか? たしかに症状はあるが、何もしなくてもいずれ治ってしまう。医者に風邪のときに自分ではどんなことをしているかアンケートをとると面白いのではないかと思う。患者さんに出している薬と同じものを自分でものんでいるものはほとんどいないのではないかと思う。卵酒をのんでねているひともいるかもしれないし、せいぜい消炎剤をのんでおとなしくしているくらいのひとが多いのではないだろうか?
 病気が不安なひとに大丈夫だよと保証することも医療者の大事な仕事である。その場合に白衣と聴診器が呪術的に?どのくらい大きな役割を果たしているか馬鹿にできないものがあるだろうと思う。臨床において医者の顔つきとか言葉使いも治療効果に少なからぬ影響をあたえているはずで、そうであるならば、臨床が科学になりきれるはずがない。
 もちろん、急性心筋梗塞が顔つきと言葉使いで治せるはずはない。しかし、精神医学の分野ではそれが大きな意味をもつかもしれない。キャッセルは「医者と患者」のなかで、急性の呼吸困難の患者に機械がくるまでのあいだにもう心配はないと話していたところ呼吸困難がどんどんと治まっていった経験を書いている。不安もまた身体症状を大きく修飾する。パニック障害の患者さんが病院につくと発作がおさまることも時々経験する。単に時間の経過かもしれないが、病院という場所が持つ安心感といったものが大きな治療効果を持つ可能性も否定できないだろうと思う。
 こういうきわめて広い守備範囲を持つ「疾患」「病い」という言葉に無理に定義をあたえようとすることに意味があるとは思えないのだが、著者にとっては、精神疾患もまた疾患であるとする立場から、それが必要になるようなのである。
 第四章「精神医学における説明1−自然誌に基づく説明」では、以上のことから、DSMの問題が取り上げられることになる(著者のDSMについての議論は別の本があるので、そこであらためてみていきたい)。DSMのようなものが必要になるのは、ある意味当然なところがあって、この薬はうつ病に効きましたという論文があったとしても、そこでのうつ病とはどのようなものをいっているのかが問題となってしまうようでは、その論文の評価さえもできなくなる。しかしDSMがいっているのは、このようなものをうつ病とよぶことにしようということであって、このような定義を充たすものがうつ病であるということではないし、充たさないものがうつ病でないということでもない。DSMのような定義をしていく限り、そこで「うつ病」と定義されるものの中に「うつ病」以外が入り込むこと、「うつ病」でありながらDSMの定義から外れるケースがでてくることは避けられない。それは身体疾患における病理診断のような議論の無限後退を断ち切ることができる、とりあえず多くの医療者が納得する診断のクライテリアがない以上は当然である(病理診断においてももちろん誤診は多々ある。あるいは病理診断からは「がん」であっても、臨床経過からは「がん」とは思えない症例もまた存在する。しかし病理診断で「がん」とされたものは「がん」なのである。carcinoma in situ は臨床的には「がん」ではないかもしれない・・これも大問題で、だから「がんもどき」などという話がでてくる・・しかし病理学的には「がん」なのである。結核が疑われるが確定できない場合に、抗結核薬を投与して症状がよくなれば結核と診断するということがあるが、抗うつ剤を投与してよくなれば「うつ病」と診断していいか議論は一致しないであろう。
 本書の基本的な立場はトラとライオンは客観的に違っているのであって、われわれがトラとライオンを分けてみているからたまたまそれは違う名前を与えられているという立場をとらないということである。これは分類に本来つきまとう難点であって、連続的なものを無理にどこかで区切りを引く場合に、すぐにでてくる問題である。虹はどこでも七色なのではなく地域地域によって、様々であることはよく知られている。だから血圧とかコレステロール値とか血糖値のように連続して分散するものをどこかで正常と異常の線引きをする場合には必ず問題が生じてくる。
 とすれば、精神疾患を考える場合に、「正常」な人間と精神疾患にかかった人間とを豁然と区分できるのか?という問題と、これはつながってくる。レインなどの「反=精神医学」がそれは分けられないとする立場の最左翼であることはいうまでもない。クレペリン精神疾患分裂病躁鬱病にはじめてわけたわけであるが、それまでは正常なひとと「狂った」ひとの二種しかいなかったわけである。
 第五章「精神医学における説明2−個別の個人誌」では、個人の生育歴のなかから精神疾患が生まれるという立場を論じる。
 以上のような流れで話が進んでいくのだが、第6章「理論と理論との関係1ー異なるパラダイムが出会うとき」から方向が変わって、クーンが通時的に論じたパラダイムの問題が、「共時的に異なるパラダイムが併存している精神医学」の問題へと広げられることになる(間単にいえば、生物学的精神医学と精神分析が共存している不思議)。
 しかしたとえ両者のパラダイムが違っていても、一人の精神科医が異なるパラダイムにもとづく手法を平気で一人の患者につかっていたりするわけで、パラダイムの併存例として精神医学の問題を論じるのにどのような意味があるのかが理解できなかった。
 著者は、生物学的精神医学と精神分析以外にも社会的アプローチや行動主義的アプローチ、認知的アプローチもまた併存しているという。最近、流行である認知行動療法が、行動主義的アプローチ、認知アプローチのどちらに属するのかがここでは不明であるが、わたくしなどはDSMも認知行動療法のどちらもいかにもアメリカ的だなあ、表面的だなあ、浅いなあ、とずっと思ってきた。しかしそう思って馬鹿にしているうちに、それは世界の一大勢力になってきてしまった。生物学的アプローチと精神分析は存外併存可能であるような気がわたくしはするが、認知行動療法精神分析は確かに相性が悪そうな気がする。人間は機械であると同時に心を持つとする二元論的な見地からなら前者は併存できるが、認知行動療法は心の存在を最終的には否定する一元論のように思えるので、後者の両立は難しいように感じる。
 そういうことで議論は段々と心身一元論と二元論へといった方向に進んでいくのだが(第七章以下)、ここらはいくら論じても決着がつく問題でないことは明らかで、段々と飽きてきてしまい、三分の二ほどまでいったとことで読むのをやめてしまった。
 総じて、この本は精神医学固有の問題をかなり強引に科学哲学の一般論に結びつけようとする姿勢が目立ち、その分、議論が杜撰になっている部分がところどころにあるように感じた。
 それで本筋の議論から離れるが、143ページあたりからの「専門職間の競合関係」という問題を少し考えてみたい。メンタルヘルスに例をとると、精神科医、心理士、ソーシャルワーカー、看護師といった専門職のチームが治療チームとして構成されることが多いが、それらの専門職は異なるパラダイムを背景にもっていると著者はいう。著者は医師と看護師は同じように「医学モデル」と投薬重視という傾向を持つが、ソーシャルワーカーは社会モデルで症例にアプローチするという。心理士については書かれていないが当然「心理的精神分析的アプローチ」になるのであろう。これらチームの中で一番多く生じるのはソーシャルワーカーとその他のヘルスケアの専門家の間の対立であって、それはヘルスケアの専門家が「パターナリスティックな文化」に傾いているのに対して、ソーシャルワーカーはクライアントの自己決定に大きな価値を置く文化のもとにあるからだという。そういう見方にたつと、心理士もその文化のもとにあるように思うのだが、それについては書かれてない。
 私見によれば、少なくとも日本において一番対立がありうるのが精神科医と心理士とのあいだなのではないかと思う。というのは治療にかかわるのは精神科医と心理士であって、看護師もソーシャルワーカーもそれのサポートという役割であるからである。そして医者は薬を処方できるが、心理士にはそれができないということがとても大きいはずである。医師は投薬も精神療法もできる。今はとりあえず薬で落ち着かせてから、それから話を聞いてという臨機応変ができる。しかし心理士は心理療法という手段しかもたない。そして心理士がクライアントの生育史などにかかわりすぎるとかえって問題がこじれてしまうことが少なからずある。あるいは泥沼にはまりこんでしまうケースも時に生じてしまう。
 医者はいつも忙しそうであまり話をきいてくれないが、心理士のひとは話をきくのが仕事であり多くの時間を割いてくれるという違いもある。患者さん自身も精神科医療とは悩みをきいてくれて生き方の示唆をあたえてくれるところと思っているひとも多く、薬に頼りたくないと思っているひとも多い。そこからも問題がおきることも多い。
 もう一つ、著者は医者と看護師のあいだのコミュニケーションの困難ということも論じていて、それは専門職としての地位の違いによるとしている。しかし、それもあるとしても、一番大きいのは医師がパターナリスティックな文化のもとにあるのに対して、看護というのはマターナリステクックな文化のもとにある点にあるのではないかと思う。医師は裁くひと(こわい人)であり、看護師は守るひと(やさしい人)である。などといいだすとどんどん精神分析の世界での説明に近づくようにも感じるし、看護業界から、あるいはフェミニズムの方面からブーイングがきそうであるが、わたくしがいっているのは生物学的あるいは進化論的なことであって、進化の過程でそれぞれの性が果たした役割の分担が医療の世界でもまた濃厚に残存しているということである。その進化の過程での役割分担ゆえに、医療と介護は当初はまったく別の文化のもとでスタートし、それが同じ場で働くようになった今でも、まだ色濃く残っているということである。小児科と産婦人科を除くと女性の医師というのがなかなか難しい立場にいることが多いと感じるのは(産婦人科は分娩をあつかう科であるのと同時に手術をする科でもあるので、問題は両価的であって複雑を極めるのだが・・「男」っぽい産婦人科の女医さんというのは患者さんに人気があるようである。宝塚の男役のような先生?? 宝塚なんてみたこともないのだけれど)、当初は子供をあやすお母さんからスタートした医療の世界に、それとはまったく別の原理であるマイスターの世界、職人芸の世界が後から接ぎ木されて来たうえに、「科学」というそれらともまったく異なる原理が最近になって主導権を持とうとしている医療の場の複雑な構造のゆえなのであろう。その観点からすれば、女医さんと看護師さんの関係というのはとても微妙で、看護師さんと良好な関係をつくれている女医さんというのはえらいと常々感じている。
 本書を読んでいて一番疑問に感じるのは、進化論的視点というか生物学的視点が乏しいのではないかということで、「こころ」という問題を論じるときにその視点を欠くと、西欧というキリスト教文化のもとでは、人間と人間以外の動物をクリアに分ける精神の有無という見方が意識しないでもどこからか侵入してきて、困ったことになってしまうのではないかと思う。本書はやはり西欧で書かれた本なのだなあということを感じる(著者は英国のひと)。
 本書の論とは直接の関係はないが、最後に、少しでてきた「線引き問題」をふくめポパーの科学論を少しみてから、本論を終えることとしたい。
 ポパーは広い意味での科学の分野のひとに人気のある唯一の哲学者なのではないかと思う(多くの哲学者はポパーを哲学者とは認めないかもしれないが)。一つにはそれはポパーの論がわれわれのような素人の一般人にも理解できる書き方がされているからである。多くの哲学者の論は暗号文のようでなにが書いてあるのかまったくわからない。
 科学の分野にいる多くのひとは科学と科学でないもののあいだには何か違ったものがあると感じていて、それをポパーがうまく説明してくれているようにみえるということもあるのだろうと思う。
 ポパーによれば「科学」の対象はわれわれの外にある。それは「客観的」なものでり「主観」の産物ではない。「客観的」なものであるからこそ、それについての議論ができる。お前はそう思うかもしれないが、自分はそうは思わないということで終わる世界ではない。
 しかしそれだからといって、[何が正しいかについて「客観的」にわかる]としなかったのがポパーの論の味噌で、われわれには何が正しいかは決してわからない。わかるのはただ何かが間違っているということだけである。「ほら、これは間違っている」ということだけは示せるが、ある理論について今までは間違いが発見できなかったということはそれが真理であるということを保証するものではなく、単に今までは間違いが指摘されていないというだけで、明日は否定されるかもしれないということである。
 それと同時に、ポパーは客観の側の人であるから、「真理」というものがわれわれの外に客観的に存在しているとする。とすれば、われわれはひょっとすると「真理」にいたっているのかもしれないが、それでも「真理」に到達したということを知ることは永遠にできないことになる。
 そうであっても、「真理」は存在するのだから、どこかに存在するはずの真理を求めて、それに少しでも近づくためにわれわれは切磋琢磨をしていかなけばならんない。それは科学者の義務である。そこから「相対主義」の否定がでてくる。自分はこう思う。あなたはそう思う。それぞれが自分は正しいと思っているが、それはそれぞれの主観であって、各自がそれぞれにそう思っていればよくて、相互に関係はなく優劣もないといった見方の否定である。
 自分はこれが面白いからやっているのであって「真理」などには関心がないというひと(クーンのいう「ノーマル・サイエンス」に従事しているひと)は科学のひとではない(明らかにポパーは科学に従事するものの理想を語っているのであって、科学の世界の現実を語っているのではない。日常の科学の世界については明らかにクーンの論が正鵠をえている。ノーマル・サイエンスの世界でのパズル解きはわくわくするほど面白い、ということである)。
 このポパーの論がいうのは、真理かどうかはどうでもいい、役に立てばいいとの立場(科学技術の立場? あるいは臨床の立場?)もそれが科学の行為であることは否定することである。また、もっとも節約的な論がよしともしない(オッカムの剃刀? マッハの論?)ということである。
 ポパーによれば、精神分析マルクス経済学が科学でないのは、どのような事態が生じようと、それが彼らの主張を否定するという場面が想定されていないからである。本当の科学の論は、これこれこういう事態は決して生じないであろう。もしそれが生じたならば、自分の論は否定されるということをもふくむものである、という。しかし、実際には一つの反証(ポパーのいう単称命題)が理論自体(全称命題)を否定することはない。実験が間違っていたのかもしれないし、その解釈が間違っているのかもしれない。その時代を覆う理論は容易には否定されない。だからニュートン力学の見方のもとではエーテルが創造された。それは見えず観察されないものであっても存在しなければならなかった。
 ポパーが多くの科学者に人気があるのは、ポパーが客観性の擁護者であるからであると思う。科学という営為は「モノ」の存在、客観性の存在を前提にしているようにどうしても思えるから。ポパー量子力学に深くこだわるのは、それが客観性の危機をみるからである。
 科学の見方、あるいは機械的世界観(デカルト的世界観)が諸悪の根源であり、西欧の流した害悪の一番の根になるものであるとする見方は根強い。ポストモダンという思潮もその流れのなかにある。(だが、ポパーは熱烈な西欧の擁護者である。)
 それ故に、ドーキンスポストモダンの言説を忌み嫌う(ドーキンスがなぜポパーも嫌うのかがよくわからない。ひょっとするとあまり読んでいないのではないか? ポパーは進化論の擁護者でもあるのに。)
 ポパーアドラーの心理学やマルクス経済学は何でも説明ができるがゆえに科学ではないという。では生物学的精神医学や近代経済学は科学なのか? そうではないと思う。身体医学でさえ科学になりえないのだから(プラセボ効果もいずれは科学の言葉で説明できるようになるかもしれないが、プラセボ効果が強くでるひととそうでないひとの差は? それも科学の言葉で説明できるかもしれないが、個々人の生育史の差は科学の対象になるのか・・以下、無限後退)。
 ひとの気持ちも原理的には物質に還元できるとしても、それはただそういってみたに過ぎなくて、実際には小林秀雄流にいえば「母親が子供を、あの子はこういう子だという理解に勝るものはない」という場合の[こういう]以上にでるものではない。
 近代経済学もそれぞれの学者が現状についてまったく違った分析をし、まったく異なる未来を予想している。そもそも一回限りしかおきないことは科学の対象にはならない。人の生はそれぞれに一回である。人間の歴史もまた数々の偶然の上に一回限りで現在にいたっている。たまたま現在は西欧が世界の表舞台にいるというのは偶然の産物であるが、その偶然から生じた現在を何かの理論でそうであるしかなかったということは端的に嘘になる。
 もしも一回限りしかおきないことが科学でないとすれば、進化論は科学ではありえないことになる。進化という事実はあった。しかし、それがどのようにしておきるかを説明する進化論は科学ではありえない。それがポパーのつらいところで、ポパーの議論は進化論との類似性親近性がきわめて高いからである。ポパー流の言い方をすれば「未来は開かれている。」 未来は予想できない。それは何が正しい選択であるかは前もって知ることができず、それを判断するのは外の世界であるからである。進化ということはあった(事実)。それがどのようにしておきたかの説明は仮説であって永遠に真と証明されることはない。そこにつけ込んで創造論者は創造説もまた進化論と対等な一つの仮説であるなどという。しかし創造説はさまざまな単称命題によって否定されているのであって、そういえばダーウイン進化論だってそれで説明困難な単称命題もたくさんあるであろうが、進化という事実を説明するための仮説として現在まで提出されている仮説のなかでかなり多くのことを説明できている有力な(少なくとも完全否定はされていない)ものの一つという程度のことはいえるのではないかと思う。
 そのような観点からみて、精神医学も科学の一分野であるかといえば、経済学が科学であるというのならば、そうもいえないこともないという程度のものではないかと思う。科学哲学で提唱されたいろいろな説を応用して無理にでも適応すればやってやれないこともないのかもしれないが、そこを掘っていっても非常に多くのものがでてくるようには思えない。精神あるいはこころといったものをあまりに神秘化してしまうことはよくないことは確かだが、本書の議論は従来からの科学哲学によってえられた知見は精神医学の領域にも適用して適用できないことはないというところにとどまっていて、適用したことによって従来からの見方では見えなかったものが新たに見えてきたといういうようにはまだとてもなっていないように思えた。まだまだ手探りの段階のようである。
 

精神医学の科学哲学

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