今日入手した本 原田泰「反資本主義の亡霊」

 失われた10年とか言われていたころ、あるいはリーマンショックのころなど、何回か経済学関係の解説書を読んだことがあるが、結局、何もわからないままで今日にいたっている。その頃わからなかったことの一つに「リフレ派」というのがあって、その当時の中央銀行のやりかたを批判していた。現在はそのリフレ派が日銀の総裁と副総裁であるから時代が変わったわけであるが、原田氏もリフレ派の急先鋒の一人である。
 おわりのほうに最終章の「まとめ」があって、「資本主義は、大恐慌に象徴されるような経済の不安定性をもたらす、環境を破壊する、女性の地位を低下させる、資本主義は成長できない―などの主張は誤りである。経済の不安定性は、中央銀行の誤った政策によってもたらされる。環境を破壊するのは、短期的な視野しか持てない独裁国家である。女性の地位は資本主義によって高まった。資本主義は成長できるし、成長しなければ、高齢化する日本は惨めな状況に陥る。資本主義と自由な市場によって、日本は成長を目指さなければならない。」とある。
 「経済の不安定性は、中央銀行の誤った政策によってもたらされる」というのがわからない。誤った政策であったかどうかは事後にしかわからないのではないかと思う。過去において正しかった政策が現在において正しいか否かは不明である。経済学というのは過去においておきたことを説明するための学問ではあっても、現在何をなすべきかを確実に示すことができる学問ではないと思う。もちろん、過去においておきたことの分析は現在の判断において重要である。しかし現在の状況が過去のどの局面に合致するのかについては、ひと様々の判断があるはずで、それぞれの中央銀行はそのときどきにおいては最善と思われる判断をし、結果としてしばしば過ったということではないのだろうか?
 中央銀行は「見える手」であるので、もしも中央銀行がその時々においてつねに最善の判断ができるとするなら、人間の理性が未来を設計できるという恐ろしいことになると思う。原田氏が批判する社会主義(あるいはフランス革命以来の左派)の思想の一番根本にあるのは「理性によって《良き》社会を構築できる」という発想で、それがどのような悲惨を生みだしてきたかを考えれば、中央銀行への過度の信頼というのも危ういのではないかと思う。
 「資本主義は成長できるし、成長しなければ、高齢化する日本は惨めな状況に陥る。資本主義と自由な市場によって、日本は成長を目指さなければならない」というのも、「資本主義は成長できる」ということは過去の歴史が示しているが、いつでもどこでもでなく、ある時期にはということがあるのではないかと思う。「成長しなければ、高齢化する日本は惨めな状況に陥る」というのはその通りであろうと思う。しかし、そのことの故に成長できる、ということには論理的にならないはずである。「資本主義は成長できるし、成長しなければ、高齢化する日本は惨めな状況に陥る」ことは事実であろうが、それにもかかわらず、もはや日本は歴史的に成長できる時期を過ぎてしまっている。これからは成長が望めない、という見方もまた有力なのではないかと思う。今の中国もそろそも成長可能な時期を過ぎようとしているのかもしれない。
 民主主義というのが数々の欠点を持ちながらも、それでも他の制度にくらべればまだ増しという程度のものであるのと同じで、資本主義というのも数々の欠点を持ちながらも、それでも他の制度にくらべればまだ増しというだけのものであるようにわたくしには思える。本書での原田氏はいろいろな見方を提示してくれていて、多いに勉強にはなるのだが、何だか資本主義の弁護がいささか強引すぎるところがありそうな印象である。
 バブルなどというのも資本主義の欠点の一つなのであろうが、おそらく多くの人が現代の資本主義に抱く違和感は、額に汗して労働で収入を得ているひとよりも、お金をたくさんもっていてそれを右から左に動かしているひとのほうがはるかに羽振りがいいということがあるのではないかと思う。バブルの頃には《地上げ》などというのもあった。