吉川洋「高度成長」(5)「高度成長とは何だろうか」

 
 1980〜90年の日本は「バブル景気」であったが、その後の「失われた10年」以降、低成長の時代あるいは成長なしの時代となっている。1950年代とくらべて1994年にはGNPは10倍になっているので、1%の成長が50年代の10%の成長を意味する。(人口増を計算に入れれば1.3%増が10%)
 それでは経済成長=GNP増大というときのGNPの意味するものは何なのだろうか? GNPという指数は当初、「経済的厚生」の指標としてだけではなく、幸福度の尺度となることもまた期待されて提起されたものである。しかし、その二つはしばしば並立しないことも過去から主張されてきている。
 高度成長期には、GNPは日本の国の輝かしい発展のシンボルとなった。しかし成長の歪みも明らかになってくるにつれて、次第に期待は幻滅へと変わっていった。1970年、朝日新聞に「くたばれGNP」という連載が掲載された。そこではGNPがわれわれの豊かさといかに無縁なものであるかが論じられていた。
 GNPは金銭の取引を計上したものである。いわゆる「シャドー・ワーク」たとえば母親の育児はGNPに寄与しない。保育園での育児は計上される。病気が流行ってもGNPは増える。訴訟がおきても増える。公害自体は計上されないが、公害対策費は計上される。というようにGNPは多々欠点を持つ指数ではあることはいうまでもないが、だからといって、これが無意味なものであるということではない。
 1960年代初頭に、ロストウの「経済成長の諸段階」がでた。「伝統的社会」→「離陸の準備段階」→「離陸」→「成熟」→「高度大衆消費社会」の5段階の発展段階をどこの国もたどるという説である。この「高度大衆消費社会」こそがすべての国がめざす目標であるとロストウはした。
 この説はいくらでも批判が可能な単線的発展史観であるが、社会主義国の崩壊、韓国・台湾・香港・シンガポールの発展、中国やインドやブラジルの成長をみると、侮りがたい面も持つ「近代化」論でもある。
 日本の高度成長もまた「高度大衆消費社会」への道程で、その象徴が自動車の普及であった。そういう耐久消費財に囲まれた「アメリカン・ライフ」こそがめざす豊さとなった。現在の中国もまた、それを目指している。とするならば、GNPの増大に反対できるものがあるのだろうか? そう問題を示して、吉川氏は夏目漱石の「現代日本の開化」(1911年)をもちだしてくる。漱石は「開化」がもたらす便利さをみとめたうえで、それがわれわれにもたらす「安心の度は微々たるもので」、競争などから生じる「いらいら」や「心配」を勘定にいれれば、「吾人の幸福は野蛮時代とさう変はらなさうである」といっている。しかも日本の開化は「内発的」なものではなく西洋の物真似なのだから、「現代日本の開化は皮相上滑りの開化」なので、やむをえないものとして「涙を呑んで上滑りに滑つて行かなければならない」のだ、とした。
 文庫版には「経済成長とは何だろうか再論」という文庫版のためのあとがきも収録されていて、この終結部分が金森久雄氏から「エフェミネイトな感傷で本書を締めくくった」のが残念と批判されたことを記している。金森氏の批判はよくわかるので、ここの漱石への言及は唐突である。エフェミネイトは「男らしくない」といった意味らしいが、金森氏は高度成長は「大進歩にきまっている」というのである。
 吉川氏が本書の単行本版を執筆した時点で話題になっていたローマ・クラブの「成長の限界」論、市場原理主義に多くのひとが示した嫌悪感、バブルを引き起こし崩壊させた強欲な資本主義によって生じた多数の失業者といった問題を吉川氏は列挙し、日本人がそれによって「価値観と幸福感を失った」とする佐伯啓思氏の批判を紹介している。そして、そういう批判を19世紀初頭のヨーロッパに起源をもつロマン主義という勃興期の資本主義へのアンチ・テーゼとしての「反経済」思想の系列のなかにおいて考察している。それを「ロマン主義」対「合理主義」の相克というなかにいちづけ、東洋での「老子」の無為自然を出して、東洋対西洋という論まで持ち出している。そして、儒教老子を批判した合理主義であったとし、儒教のいう「聖人」はシュンペーターのいうイノベーターだったのだとまでいう。現代において「反経済」「反合理主義」を唱えるひとは自分が病気になったら抗生物質の使用を拒否するだろうかともいう。伊勢湾台風(1959年)で死者と行方不明者が5千人を超えたというようなことが最近はおきないのは「文明のありがたさ」なのではないか、という。最近、江戸時代を賛美する議論があるが、江戸時代の人びとの生活はきわめて悲惨だったのだとして「骨が語る江戸事情」という新聞記事を紹介している。高度成長を決して無条件に賛美するものではないが、それでもやはり自分は「高度成長」に大きな花束を贈りたい気持ちであるとして本書を終える。
 
 ここで佐伯啓思氏やさらに老子までがでてくるのがわからない。佐伯氏はフランス革命に由来するものすべてへアンチというようなひとで、それがたまたま「日本」というほうにいっているのは氏が偶然に日本人であったからであって、単なる「反経済」のひとではない。佐伯氏のような現代に生きる人が「反合理主義」者であることはありえないので、「抗生物質は使わないのか」などというのは批判にはならない。
 老子は「反合理主義」の人だといえばそうなのかもしれないが、それは「凡生命論」ではあってもその当時には合理主義に相当するものなどなかったはずで、儒教は「人間中心主義」という点で老子と対立するのだと思う。怪力乱神は人間とはかかわりのないものだから、それについては論じないのである。
 「反合理主義」とは「合理主義」を前提として、それでも「合理主義がかかわりうる世界には限りがあるし、本当の大事な問題(魂の問題?)は合理主義とは無縁である」と主張するものであるはずで、ここでの吉川氏の論は「反合理主義」を矮小化していると思う。生活が快適になるのをよしとし、抗生物質を抵抗なく服用し、台風による死者が減ることを無条件でよしとする「反合理主義」者はいくらでもいるはずなのである。
 非常に単純な議論として、世界を物質と魂に二分し、物質の世界こそが合理主義のかかわる分野であり、魂の問題には合理主義かかわれないとする議論は常識的なものでさえある。問題は「魂」の分野が、どんどんと「物質」の言葉で説明できるようになってきていることで、合理主義のかかわる部分が増えてきていることである。
 しかし、そうはいっても現在のところは「幸せであると感じる」とか「ある男がある女に惚れている」とかを物質の言葉で説明しつくせると思うものはほとんどいない。それが何らかの脳内物質の変化を反映していると思うものは多いと思うし、麻薬の服用によって「幸福な気分」になり、媚薬の服用によって「惚れている気分」になることも可能なのかもしれないが、それは一般論までであって、個々のケースを説明できるところまではいっていない。
 「快適」にはなれても「幸福」にはなれないとしても、「快適」は経済学のカバーする範囲であるが「幸福」は経済学のかかわれる話題ではないとすれば、「幸福」を経済学の問題として論じることは意味がないことになる。
 問題は「快適」になることは同時に「不幸」になることでもあるということが公理的になりたつのかどうかということになる。それがいつでもどこでもなりたつのであれば経済学はその根拠を失うことになる。しかし、自分は「快適」になったので「幸福」であると思っているひとに、お前は「快適」になったのかもしれないが同時に「不幸」にもなっていると第三者がいうとすれば、それはとんでもない余計なお世話でもあるかもしれない。
 現在の日本人があまり幸福そうな顔をしていないとすれば、それは経済発展がもたらした不幸の結果なのであるか、それとも経済発展が止まったためであるのか、ということである。「失われた10年」といった言い方の根底には、経済成長が止まったことが日本人の自信喪失をもたらしたという見方があるように感じる。
 もっと長期に持続が可能であった成長が何らかの経済政策の誤りによって停滞してしまったのであるとすれば、これは経済学の分野の問題である。事実、90年代から21世紀初頭にかけて、「もし我をして日銀総裁たらしめればたちまちに日本を再成長の軌道に乗せてみせられるのに」といった議論がいたるところできかれた。
 わたくしにここで関心があるのは、漱石老子ロマン主義問題ではなく、ロストウの発展段階論のほうである。「伝統的社会」→「離陸の準備段階」→「離陸」→「成熟」→「高度大衆消費社会」の5段階のうちのある発展段階においてのみ(高度)成長という現象が見られるのであり、成長はある段階でのみみられるものなのであって、「高度大衆消費社会」に達すれば、いずれはそれは終わり成長のない世界になるのかということである。「高度大衆消費社会」というのがもはやほとんどの耐久消費財がいきわった世界であり、今後は大きな需要の喚起が期待できない世界となっていくのであれば、いつか成長が停止してしまうことは必須である。
 それとも、イノベーションによる新たな需要の喚起が続けば、原理的には成長はどこまでも持続することが可能なのだろうか?(もちろん「原理的には」ということであって、実際には地球の規模、化石燃料の有限、水の有限といった要因が制約条件になることは明らかではあるが) バブル期の日本人はそう思っていたひとも多かったようであるし、アメリカでも「ニュー・エコノミー」などということがいわれていた時もあった。これは現在でも、アベノミクスがどうとか日銀の政策がどうとかという議論に直結している。
 この問題を、ついに経済学音痴のままで終わりそうなわたくしには判断することができない。現在の日銀副総裁である岩田氏は在野の時代にこうすれば日本経済は回復するということを唱えていた経済学者であったと思う。そういう問題こそが吉川氏が論ずるべき問題なのではないかと思う。
 そして、もっと根本的には経済学は過去を分析することは可能な学問であるとしても、未来を予測することについてはどの位の力を持っているのかということである。さらにいえば歴史を研究することで、未来が予見できるかということでもある。
 いま山崎正和氏の「歴史の真実と政治の正義」という西暦2000年(20世紀最後の年)に発行された本を少し見返しているのだが、そこで「二十世紀の百年ほど、政治が歴史的な正義の回復を目的として行動し、歴史が政治的な正義の根拠として書かれた時代はないかもしれない」ということがいわれ、今世紀(20世紀)を大きく揺さぶったのはマルクス主義であるが、それは根本において「歴史的な復讐の哲学」だったということがいわれている。ロストウの発展段階説は、マルクス説のような「最後の審判」史観とはまったく縁のない単純で単線的な論であるが、それでも歴史には方向があり、その方向は経済が規定しているという説の系ではあるのだろうと思う。
 マルクス主義ソ連の崩壊という事実によって、その説の何が問題であったのかということがほとんど議論されないまま過去のものとされてしまったように感じるが、歴史がわれわれを決定的に規定するという思考のパターンはほとんど手つかずのままに現在にも残されているように感じる。そして、経済学というのもその根に歴史という意識を刻んだものであるかが問題となるのだと思う。
 物理法則というのは無時間的なものであるはずである。その中で時間の矢の方向が現実の世界では存在していることをどう見るのかというのは、たとえばエントロピーの増大といったことと説明されるのかもしれないが、物理学音痴でもあるわたくしにはよくわからない。
 経済学というのは人文社会科学のなかでは一番「科学」的装いをまとった学であるように思われるが、基本的に「歴史」という一回限りしか起きていないことに依拠しているのであれば、やはり「科学」とはないえない部分をつねに残すということなのであろうか?
 単線的な歴史理解は根本的にはキリスト教の時間意識であり、マルクス主義もその極限としてのメシアイズムの一つの変形であった。とすれば20世紀はキリスト教的時間意識に徹底的に拘束されていた世紀ということになる。それは19世紀から20世紀は西欧が主導した時代であったのであるから当然であるといえばそうであろうが、これからは大きく見れば西欧が没落していく時代であろう。問題はアメリカである。20世紀後半はアメリカの時代であったのかもしれないが、アメリカは歴史を欠く国である。
 「歴史の真実と政治の正義」のなかで、山崎正和氏は、確かにアメリカは「歴史」によってではなく「理念」によって成立した国であるとはいえるが、それは人権や自由や平等といった普遍的な正義が多くの人間から奪われているのでそれを回復しようという理念なのであるから、やはり歴史意識によっているのだとしている。そのように見れば、ロストウの「発展段階論」は歴史を持たない国から生まれた歴史観なのかもしれない。
 20世紀は「歴史」の世紀であり、その代表としてマルクス主義があった。日本の20世紀もまたマルクス主義が思想の世界で大きな力を持った。その後光が消えてしまった後、それでも「歴史」に依拠した世界観は依然健在なのだろうか? アンチ=キリストのニーチェ永劫回帰といったように、「歴史」の時代のあとには「永遠の現在」の世界が来るのだろうか? 「経済成長」の肯定は「永遠の現在」の否定である。
 「今のまま」であることをよしとせず、「より良き世界」があるとして何かを試みていくこと、それはすべての生き物がしていることであろう。問題は「より良き世界」がどのようなものであるかをあらかじめ知ることができるできるのだろうかということである。20世紀は、それはが可能と考え、それは歴史が教えてくれるとした。
 わたくしには経済成長は人間が「より良き世界」がどのようなものであるかについて試行錯誤をしていく、その試行の幅を広げてくれるものであるように思われる。成長自体がよきことなのではなく、よりたくさんの試行をわれわれに可能にしてくれるという点においてよきことなのである。
 

高度成長 (中公文庫)

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