与那覇潤 「平成史 1989-2019 昨日の世界のすべて」(文藝春秋 2021)(4) 第二章 奇妙な主体化 1991-92(その2)p67から73

 まず山本七平氏が論じられる。氏は1991年に69歳で亡くなっている。氏の本は随分と読んだが、一番印象に残っているのは初期の「ある異常体験者の偏見」「私の中の日本軍」といった日本陸軍の問題を扱った本である。なんでこれほどの不合理が一向に是正されなかいまま続いたのか? おそらくこの不合理なしには軍を維持できなかったわけで、とすれば、それは戦後の会社組織でも違う形で継続していったはずである。「空気」の支配であり、なぜあのような組織決定になったのかはその場の「空気」を知らないものには絶対に理解できない世界・・。
 氏は矛盾したところのある人で、きわめて合理的な人でありながら、神棚に毎日手をわせる小さな町工場などをこよなく愛した。(わたくしが産業医をして驚いたことはいろいろあるが、ほぼどの会社にもどこかに神棚があり(屋上に鳥居がある会社もあった)正月には神田明神あたりに商売繁盛の祈願にゆくことをほぼどこでもしていたこともその一つである。べつにそれを信じていたわけではないだろうが、何かあったときに「参拝しなかったからだ」などといわれないための布石であろう。人事を尽くして天命を待つ?
 山本氏の言で一番考えさせられたのは、日本の会社はある程度大きくなると機能集団から共同体に転化しないと組織が動かなくなるという指摘である。収益の最大化を目指す合理的な組織から所属する人の互助組合と化すという指摘である。
 山本氏は砲兵で、司馬遼太郎は戦車隊であった。どちらも合理性が要求される部署であった。それが員数をあわせるといった非合理なことに固執している組織の中におかれたわけである。
 山本氏も司馬氏も日本への愛憎半ばの複雑な感情を抱いていた。だから司馬氏はノモンハンをついに書けなかったし、山本氏は「日本人とユダヤ人」で、「安全のためにホテル住まいをしているユダヤ人」を創造しなくてはならなかった。「日本人は、安全と水は無料で手に入ると思っている」ことを指摘するために。
わたくしはこの本で恩田木工の「日暮硯」を知った。「斯く云ふは理屈といふものなり」・・。わたくしの持っている「日本人とユダヤ人」は昭和46年の初版のその62版の昭和57年刊行の角川文庫版である。その頃の文庫本は紙質が悪かったらしく、もう紙焼けが酷くなっている。10年で62版というのが凄いが、まだイザヤ・ベンダサン著になっている。
 「日本人とユダヤ人」には「日暮硯」からの長い引用があったり、旧約聖書からの3編の詩の引用があったりで一冊の本に足る分量にするのに苦心している感じが強い。
 山本れい子 良樹(奥さんと長男)共著の「七平ガンとかく戦えり」(KKベストセラーズ 1994年)によれば山本七平氏は膵臓癌でなくなったようである。1990年に手術(おそらく膵頭十二指腸切除術)、翌2月退院。91年12月に69歳で永眠している。この本を読むかぎり、従容として死を受け入れたという印象はない。まだまだ生きたい、まだまだ書きたいことはたくさんあるという感じである。
 稲垣武氏の「怒りを抑えし者 【評伝】山本七平」(PHP 1997)によれば上記手術は16時間におよんだらしい。術後、「MSコンチン」という経口モルヒネ剤を使用したとある。これは1989年に臨床に導入されたもので、これによって癌などの疼痛管理が随分やりやすくなった記憶がある。なにしろわたくしが医者になったばかりのころは癌の疼痛に対しても麻薬は極力使うなと教えられた。「麻薬中毒になるといけないから」と。
 この稲垣氏の本は500ページに近い大著であるが、その内の400ページはベンダサン以前にあてられている。そして30ページほどの「ベンダサンとその時代」のあとは最後の「終焉」の章になる。
 不思議なのであるが、山本氏はアカデミーの世界ではほとんど議論されることもなかったようである。丸山真男氏など読んだこともなかったらしい。

 次が村上奏亮氏。こちらはアカデミー内部の人。氏は93年に62歳で亡くなっている。肝臓の腫瘍だったと思う。若年時に受けた輸血により肝炎から肝細胞癌になったと記憶している。今なら完治が期待できたはずである。(吉行淳之介氏なども)
 村上氏は公文俊平氏などの仲間の駒場学派のひとだったと思うのだが、わたくしは駒場教養学部時代に公文氏のゼミなどに少し参加したことがあり、それでその人達の動向に関心があった。村上氏のこの著書もそれで視野に入ってきたのだと思う。法学の長尾龍一氏とか、社会学の折原浩氏(このかたの書いたものは「マックス・ウエーバーの犯罪」への反論?か読んでいないが・・・)などが今でも記憶に残っている。それは、本郷に進学してからは人間的に魅力のある、その人の言葉に耳を傾けたいと思う教え手についぞ出会うことがなかったためだろうと思う。本郷では、何かといえば「ノーベル賞!」と叫ぶ変わった人達ばかりであった。
 ちなみに92年にはフクヤマの「歴史の終わり」の原著が刊行され翻訳も出版されていることも紹介されている。   フクヤマは確かコジューブのお弟子さんのはずで、ポスト・モダンへの道筋が既にここに始まっているわけである。
 「反古典の政治経済学」は「進歩史観の黄昏」と題する上巻と「二十一世紀への序説」と題する下巻からなる。
序では自著は「マルクス主義的社会科学」もっと一般的に「進歩主義歴史観に対する疑問」を述べたものであるが、その先にあるはずの肯定的世界の像を十分に述べる時間は自分にはもう残されていないかもしれないのでとりあえず否定部分をまとめたと書かれている。
 進歩主義歴史観への疑問は主に思想的にされていて、進歩主義歴史観の人はそもそも人間観を持たないという見方がされている。それが氏の論の一番の根っこにあるものであると思うが、そもそも人間観を持たない人は、それを指摘されても、キョトンのキョンのはずであって、何のことやらだろう。だから、村上氏の「進歩主義歴史観に対する疑問」はほとんど敵陣営には響かなかったと思う。自陣の人達の勉強の指南書となったというのがこの本の実際の効用だったのではないだろうか? 
 村上氏は21世紀を生き延びる鍵は「インテグリティ(筋道)を確立した一人一人の人間が自由に考え、行動する方向しかない」としていたという。
 しかし、福田恆存氏の「平和論に対する疑問」もまた反対陣営の人には一向に刺さらなかった。「進歩主義歴史観」の持ち主というのは「頭が悪い」のだと思う。そして「心がない」。
 「平和論に対する疑問」や「常識に還れ」が収められた「福田恆存評論集6」(新潮社 1966)に「進歩主義自己欺瞞」という文も収められている。そこではⅭ・P・スノーの「二つの文化と科学革命」が論じられている。現代西欧世界における「文学的知識階級」と「物理学者を頂点とする科学者たち」の分裂を論じたものである。クーンなどが言った「通約不可能性」であって、要するに相互にまったく話が通じない。
 わたくしは「進歩主義歴史観」の持ち主というのは一般には「文化系」とされていると思うが本当には「物理学者を頂点とする科学者たち」の末席に連なっているのだと思っている。末席だから頭が悪い。
 この「進歩主義自己欺瞞」には昭和30年10月號の「世界」に載った「冷戦終結の経済的基礎」という座談会についても論じられている。大内兵衛、有澤廣己、木村禧八郎、美濃部亮吉都留重人といった錚々たる経済学者たちが、昭和31年(つまり翌年)にはアメリカが恐慌におそわれるは必至というソ連の学者の予言を「そうだそうだ」と同意していたことが記されている。しかもとても本気とは思っていない口調で。
 ここではさらに、彼らへの批判として、フォースターの「私の信粂」も論じられているが、要するに「進歩の陣営」の人は「自分の信条」を持っているの?という問いかけであろう。
 わたくしが若いころ、何回「今度こそ恐慌だ!」という言葉を聞いたかわからない。要するに経済が行き詰まって二進も三進もいかなくなくなり、それを打開するには海外にうってでるしかなくなり、その手段としては戦争ということになるが、それは労働者の利益とは真っ向から反するものだから、労働者が立ち上がり、革命にいたるというような話だったと思う(レーニンの説だったと思う。帝国主義論?)。
 今から思うと全く馬鹿のような話であるが、当時の左派の人たちは労働者が困窮化していくことを切に願っていたのである、というか資本主義の体制下ではそれ以外の道筋はないことになっていて、ただそれがいつくるかだけだと本気で信じていたわけである。で、何らかの経済指標が悪化すると、今度こそ恐慌だ!と嬉しそうに騒いだわけである。

 さて次は第3章「知られざるクーデター 1993-1994である。いきなり若き日の田原総一朗さんの写真がでてきてびっくりする。リクルート事件の話である。