渡辺京二「近代の呪い」(6)つけたり「大佛次郎のふたつの魂」
この「近代の呪い」という本は、渡辺氏が大佛次郎賞を受賞したことがきっかけで書かれている。その受賞講演に備えて大佛氏の著作を読み返したことがフランス革命などへの新たな関心を呼び起こし、それへの感想がここにおさめられた論考のもとになった講演につながった。この「つけたり」として収められたものは、大佛次郎賞受賞講演を原稿におこしたものである。
ここでとりあげられている大佛氏の著作は「ドレフュス事件」「ブゥランジェ将軍の悲劇」「パリ燃ゆ」のいずれもフランス第三共和制にかかわる物語である。大佛氏はそれらを「社会講談」と読んでいたらしい。わたくしはこれらの本は読んでいない。実は「ドレフュス事件」だけは、ちょっと読みかけたことがあるのだが、あまりのつまらなさにすぐに放り出してしまった。なんというか、まったくの勧善懲悪、いいほうと悪いほうが最初から決まっていて、まさに講談、人物に陰影がなく書き割りのような感じで小説を読む感興をまったく感じさせないのである。(今、出してきてみたら「ブゥランジェ将軍の悲劇」も収められていた。)
「ドレフュス事件」は昭和5年(1930年)に書かれている。「当時、国政に口を出し始めたいた軍部への警戒と批判を動機にして書かれた」「はっきりとドレフュス擁護、反軍、反国粋主義の立場」で書かれている。大佛氏は当時、明確に進歩、理性、国際主義の立場に立ち、反動、非理性、国粋主義と闘う立場にたっていた。立ち位置は明確であった。
「ブゥランジェ将軍の悲劇」は昭和10年(1935年)に書かれたもので、基本的に「ドレフュス事件」と同じ立場で書かれたものだが、大佛氏の立場からは危険人物、議会主義の敵とみえるブーランジェ将軍が当時の民衆からは圧倒的な支持をえたという事実に目を配るようになってきている。
この後、大佛氏はすぐに「パナマ事件」を書くつもりでいたが、筆を控えた。それを書くと第三共和制議会の腐敗をも書くことになり、当時の軍部と右翼を利すると判断したからである。それで実際に書かれたのは昭和34年(1959年)になってであった。この間、太平洋戦争を経験した大佛氏は以前の大佛氏ではなくなっていた。単なる進歩派、人類普遍主義者、合理主義者ではなくなっていた。議会主義の理念をついに疑うにいたっていた。
「パリ燃ゆ」は昭和36年から39年にかけてかかれている(1961年〜64年)。フランス第三共和性の発端となったパリ・コミューンを描いた作品である。第三共和制は「パリの庶民たちがコミューンという形で希求した自分たちの社会の夢」を圧殺することによって成立した。
普仏戦争の末期、軍の首脳は厭戦気分に陥っていて講和をもとめていた。しかしパリ市民はあくまで抗戦を続けようとした。パリを守り続けようとした。そういう市民たちの姿を大佛氏はどうしても否定することができなかった。それは国民国家制度にとりまれた愚かな愛国心ではなく、「自分たちの共同世界を築こうとする希求」であり「民衆の心の中にある古い伝統的な共同世界の夢」であると感じたのである。大佛氏はそれと心中する覚悟を決めた。「支配し搾取するもののいない、人みな兄弟という共同世界の夢」、そこでひととき実現した祝祭空間、そこに立ちあらわれた民衆の正直さ、けなげさ、情熱に感動したからである。
「パリ燃ゆ」はただその感動だけを描いている。そこにみられた醜い面、おろかな面は知っていても書かなかった。石牟礼道子氏が「苦海浄土」で水俣病被害者の醜い面は一切書かず、その美しい魂だけを描いたように。「パリの労働者には、いったんバリケードが築かれると、誰からも求められないのに、あたかも自明の義務のようにバリケードの守りにつき、そこで死んでゆく者たちがいる」ことに大佛氏は感動した。民衆はモッブにもなりうるが、仲間のために誰にも知られずにひとりバリケードを守って死んでいくこともする。そういう民衆に大佛氏は心がふるえた。
民衆とは仲間との共同的な生活につながれて、そこでみちたりて生き死にする存在なのである。その共同の生活は習慣や伝統にかたどられ、土地に根ざしている。民衆の愛国心とはこういう土地に根ざす共同への忠誠なのである。
大佛次郎にはふたつの魂があった。「無類のハイカラ」で断固たる進歩主義者、合理主義者、世界市民という魂、これを氏は一生、持ち続けた。しかし、伝統的な生活を生き、正直でつつましい庶民も大好きであった。伝統主義者、反合理主義者、愛郷者でもあった。
ヨーロッパの個人主義が身について、日本人のベタベタした人間関係が大嫌いという日本人のインテリによくあるタイプであった氏は、だが戦争中は、熱烈な戦争協力者でもあり、特攻隊を本心から賛美した。
そういうなかで、氏は進歩を代表する力が歴史を動かすのではなく、、保守といわれるような力もまた歴史を形成する力なのだということを悟っていったのであろう。
これからの時代はグローバリズムとリージョナリズムのせめぎ合いとなるっていく。グローバリズムは地球規模の均質的斉一的モダンライフをもたらしていくであろう。これは豊かさをもたらした力でもある。しかし、これは土地に根ざした人々の共同生活を根底から破壊する力もまたもっている。その力が跳梁するにまかせるわけにはいかない。大佛氏の著作はそのことを考えていく上で今でも大きな意味を持っている。
この「つけたり」の部分は大佛氏のことを語っていながら、そのまま渡辺氏のことを語ることにもなっている。左翼・共産党員として出発しながら、「逝きし世の面影」を書くようになった渡辺氏のことである。「断固たる進歩主義者、合理主義者、世界市民という魂」が氏を左翼として出発させたのであるが、しかし合理主義者であり世界市民であろうとするとどうしても視野からこぼれ落ちてしまうものを次第に感じるようになり、それが最終的に「逝きし世の面影」を書かせることになった。しかし、それでも氏は合理主義者・世界市民であることを抛棄はしていないから、未だに左翼の心情を持ち続けていることをことを自認する。
それがよく現れているように思うのが、本書でも「民衆」とか「庶民」という言葉が頻出することである。どうもそれは左翼であった渡辺氏が未だに引きずっている尻尾なのだと思う。「民衆とは仲間との共同的な生活につながれて、そこでみちたりて生き死にする存在なのである。その共同の生活は習慣や伝統にかたどられ、土地に根ざしている。民衆の愛国心とはこういう土地に根ざす共同への忠誠なのである」というのがどうも理屈であり観念論でもあるとわたくしには思えてしまう。
もしもそういうものが存在するのであれば、それは「民衆」にではなく「人間」に普遍的に存在するものでなくてはいけないのだと思う。フォースターの「ハワーズエンド」はハワーズエンド邸という土地と建物に根ざす力を描いた小説であると思うが、主人公は民衆ではない。紳士たちであって「貧乏人には用がない世界」なのである。「チャタレイ夫人の恋人」は森番メラーズが、男爵と結婚することによりレディとなったチェタレイ夫人に根のある生活を教える話であるが、メラーズは元知識人であって、知識人であることに反発する知識人なのである。
つまり渡辺氏のこの本で使われている「民衆」の対語は「知識人」なのである。渡辺氏もいうように、《「無類のハイカラ」で断固たる進歩主義者、合理主義者、世界市民という魂を持つ》ひとはインテリであり知識人なのである。そして知識人であることは、しばしばそれによって何かを失う。《デラシネ》になりやすい。だが、多くの知識人は自分が何かを失っていること、それによって不幸であることに気づいていない。あるいは気づいていても不幸自慢をする。大事なのは幸福であることであって、不幸自慢することではない。大佛氏は合理主義者であり世界市民であることは何かを失うことであることに次第に気づいていった。失ったものは、ごく単純な「他人を信じるこころ」「誠実」といったものであり、それは生活のなかから生まれてくるのもであるとした。その含意は、インテリは本当の生活をしていないということである。しかしそれはインテリの劣等感なのではないだろうか?
わたくしはどういうわけか「大佛次郎 敗戦日記」という大佛氏の1944年から45年にかけての一年の日記を復刻した本を持っている。それをみると、氏は特攻隊を賞賛をしているとは言えないにしても、尊敬している。すくなくとも時代に追従している。しかし、記載にはファナティックなことろはまったくない。山田風太郎の「戦中派不戦日記」のような熱中や熱狂もないし、ましてや「原理日本」とその蓑田胸喜のような色彩は一切ない。ここにいる氏は基本的には進歩主義者で合理主義者である醒めた大佛氏である。わたくしはまたどういうわけか「渡辺一夫 敗戦日記」という本も持っているが、どうもこちらのほうに共感してしまう。1945年の6月に「チャタレイ夫人の恋人」を読んでいる反時代性。「私は一人ぽっちで、彼らは全員なのだ」というドストエフスキーの言葉を引用する氏。
もしも知識人というものにわずかにでも栄光というものがあるとすれば、一人であること、付和雷同しないことであり、しかも一人であることに酔わないこと、一人であることの不幸を甘受しながら、その不幸を自慢しないことにあるのではないかと思う。渡辺一夫氏の日記には林達夫氏の「新しき幕明き」に通じる何かを感じる。
わたくしは「パリ燃ゆ」を読んでいないから、それについての判断はできないが、どうもここでの大佛氏の像は渡辺氏によって少し誇張されているのではないだろうかと思う。
「自分たちの共同世界を築こうとする希求」とか「民衆の心の中にある古い伝統的な共同世界の夢」とかいう言葉を読むと、何かちょっと困ったなというか危ないなと感じるのは、こういうのが割合と簡単に「美しい日本」とかいう方向に通じてしまうのではないかと思うからである。
最近、長谷川三千子氏が何だか変わったことを言って物議を醸しているけれども、その「民主主義とは何なのか」を読んでもよくわかるのは、氏が合理主義とか進歩主義とか物質主義とかいったものが大嫌いなのであるなということである。ここでもフランス革命でのヴァンデの虐殺がとりあげられているが、ヴァンデの住民の地域共同体での伝統的な生活社会を守りたいとするささなかな願いを、無慈悲に徹底的に破壊していくものとしてフランス革命がとらえられている。
長谷川氏によれば。デモクラシーのなかには《「共同体の伝統的生活」の破壊》ということが本質的に潜んでいるのだとされている。ここで長谷川氏がデモクラシーと呼んでいることは、この渡辺(京二)氏の本ではグローバリズムという言葉でいわれていることにかなり近いのではないかと思う。
長谷川氏のこの本は最終章が「理性の復権」と題されていて、《一口に言えば、民主主義とは「人間に理性を使わせないシステム」である》ということがいわれる。フランス革命当時の啓蒙主義者がいった「理性」とは本当の意味での理性ではなく、それは他人の智恵にはまったく敬意を払わず、自分自身のそれには、満腔の自信を以て敬意を捧げるものであるという。本当の理性とは「よく聞く」ことの内にあるのだとし、自分を無にし、空にして、他者の声を聞き、森羅万象の声を聞くこと、それこそが理性のはたらきの基本なのであるという。虚心坦懐に事柄そのものの語る声を聞くことができるとき、正しい判断は事柄の方からやってくるのだと氏はいっている。そして《正しい理性》の行使の一番の妨げになるのは、不和と敵対なのであるとする。
しかしわたくしには、最近の長谷川氏の論などは「他人の智恵にはまったく敬意を払わず、自分自身のそれには、満腔の自信を以て敬意を捧げるもの」に見えてしまう。当然氏は反論するであろう。これは自分の意見ではなく、「自分を無にし、空にして、他者の声を聞き、森羅万象の声を聞くことによってえられたものなの」なのである、と。しかし「自分を無にし、空に」できるひとは多くなく、愚かであるにもかかわらず「自分自身のそれには、満腔の自信を持って」いるものが大多数であるとするならば、数少ない賢者の一人である長谷川氏の論が採用されてしかるべきであることになる。つまり賢人政治である。
長谷川氏は自分をソクラテスの流れの中に位置づけている。しかし、同じソクラテスの系譜を自認する啓蒙主義者のポパーとなんでこんなに違ったところに来てしまうのかが不思議である。頼りない己の頭脳なのではなく、国家とそれが保ってきた文化、伝統、歴史にこそ学べと長谷川氏はいうのだが、それがなんで《スメラミコト》になってしまうのかがさっぱりわからない。
渡辺氏にはもちろん、《スメラミコト》などは嫌悪の対象でしかないであろう。しかし「逝きし世の面影」を読んで「民衆の心の中にある古い伝統的な共同世界の夢」に郷愁を感じるひとはたくさんいるだろうと思う。なにかちょっと危ないなあという気がしないでもない。
大佛氏がなぜああいう道をたどったのかというと、出発点での西洋の制度への理解が浅かったからなのだと思う。当然そのつけを払わなくてはいけなかったということである。大佛氏にくらべれば渡辺氏はもう少し屈折したひとで、最初からもっと複雑な西洋理解から出発していると思うが、周りの知識人たちの浅薄な西欧理解をみていてそれに反発しているうちに、段々と今の場所にきてしまったのであるような気がする。
《地域共同体での伝統的な生活社会》などといわれても、今のオリンピックの報道で、出ている選手の出身地の公民館か何かに住民がたくさん集まって、鉢巻きをしめて日の丸を振っていたりするのをみると、わたくしが感じるのはただただ嫌悪感である。つくづくと一人でいたい、付和雷同したくないと思う。
メダルがどんな種類の金属でできていようと、そもそもそういうものをとろうととるまいと、スポーツ選手が相手にしているのは自分であり、自分の能力の限界ということであろう思うので、ただたか勝った負けたと叫んでいる報道をみていると、つくづくと馬鹿ではないかと思う。
オリンピック程度でこの騒ぎであれば、戦争にでもなったら、「撃ちてしやまん!」「一億一心、火の玉だ!」「欲しがりません、勝つまでは!」になるに決まっている。「非国民」という言葉が復活して「隣組」が組織され、相互の生活に干渉がはじまること必定である。
もしも最近の中国や韓国に対する一部のひとの言動をマスコミが批判をするのであれば、オリンピックというスポーツ大会においては勝者を顕彰すればいいのであって、それがどの国籍に属するひとであるかなどということは関係ないことのはずである。日本人が勝ったがどうか、ましてや予選に通過したかどうかに一喜一憂しておきながら、隣国と友好関係をなどというのは二重規範である。
多くの国において国民国家は人為の産物であり、その国境線の根拠はいたって薄弱な場所も多い。フランスとドイツの争いの大きな原因の一つとなっていたアルザス=ロレーヌもその帰属はいたって微妙である。国境線が変われば、昨日までのAという国の選手は今日からはB国の選手である。
地域というのは本来、国境線を越えるものであるはずであるが、長谷川氏の論などをみているといつのまにか国境線の中に話が限られてくる。知識人は、《無類のハイカラで断固たる進歩主義者、合理主義者、世界市民という魂》を持ち続けるべきなのである。もちろん、そこには当然、落とし穴が無数にある。それへの対応は、しかし、各人がそれぞれでおこなうできものであって、断じて、集団ではしないというのが知識人の矜持なのではないかと思う。
大佛氏の履歴には確かに渡辺氏のそれに通じるところがないわけではないと思う。しかし、同時に根本的に異なる部分もたくさんあるはずで、どうも渡辺氏は大佛次郎を自分の同志に仕立て上げようとしていささか無理をしているように思う。
味方などいなくてもいいではないか、一人で生きていって、前からとんできた(時には横から後ろからとんできた)弾にあたって倒れたら、そこで野垂れ死にということでいいではないか。最近の上野千鶴子氏の言などをみていると、若いときから言いたいことをいい、舌鋒鋭くあたるを幸い薙ぎ倒してきて、数えきれないくらいの敵をつくってきたにもかかわらず、今になって穏やかな老後を希求しているようにみえて、いささか虫がよすぎるのではないかと思う。
若いときの渡辺氏は、まわりのみんなを敵とし、その敵の無知蒙昧を暴き、逃げ場がないくらい完膚なきまでに打ちのめすとても恐い論客であった。そのころの氏のほうが一人の知識人としては魅力的であったかもしれない。最近の渡辺氏はいささか棘が少なくあってきているのかもしれない。
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