今日入手した本

 
小谷野敦「俺の日本史」

俺の日本史 (新潮新書)

俺の日本史 (新潮新書)

 江戸末までの歴史をあつかう。時代順に書かれているが、それぞれの時代のエピソードについてのエッセイを重ねたような印象。
 「はじめに」に徳川慶喜鳥羽伏見の戦いのあとで、なぜ大阪から江戸へ開陽丸で逃げ帰ったのかについて、「船に乗りたかったんじゃないかなあと思」うとしている。なるほどそういう見方もあるのかと思った。わたくしは慶喜というひとはとても変な人、あの時代にはあまりいない人と思っていて、その気持ちを他人が推し量ることがほとんど不可能な人なのではないかと思っている。だから、なぜそういうことをしたのかといえば、慶喜というのがそういうひとだったからとしかいえないのではないかと思う。
 わたくしの日本史の勉強たるや惨憺たるもので、一番の基本が山本七平氏のもので、それに井沢元彦氏と網野善彦氏がミックスされているという滅茶苦茶なものである。明治以降は司馬遼太郎山田風太郎半々あるいは山田6対司馬4? 歴史観については、岡田英弘氏の影響もあるかもしれない。山本七平氏に一番毒されているので、日本を規定したのは貞永式目御成敗式目)であるという説を信じているのだが、ちらっと見たところでは本書ではそれは取りあげれれていないようであった(まだ通読していないので、見落としかもしれない)。
 本書で小谷野氏は歴史法則主義を排するとし、また「事実」を追求するのが歴史であるとしている。歴史法則主義批判はポパーの「歴史(法則)主義の貧困」路線なのかなと思うが、ポパーは「事実」というものはないとした人だったとも思う。観察の理論負荷性というのだっただろうか? 昔読んだ村上陽一郎氏が示していた例によれば、レントゲンフィルム自体は白黒の濃淡の集積にすぎない。そこに肺や心臓や骨が見えるのはわれわれの経験からである。それは理論というほどのものではないかもしれないが、しかし同じ写真を見ても患者さんと医者は同じものを見ていない。おそらく肺や心臓は患者さんにも認識されているであろうが、心臓が肥大しているとか、肺に腫瘍があるとかはまず理解されていないし、ましてや「相当進行した肺がんで後1年は厳しいか?」というような医者の頭の中をよぎっている想念が共有されることはない。ここでのレントゲンフィルムが事実で、それをどうみるかが理論ということになれば、理論がないと事実そのものからは何も見えてこないことになる。小谷野氏もいうように、あることをどうみるかは「時代により、また事柄を見る位相によって違ってくる」のであれば、「事実」というものはないという方向にいくようにも思うのだが、その辺りがよくわからない。
 氏は「素朴実在論」を否定するポストモダン派はインチキと判明したとして、「歴史というのは、あった事実を追求すればいいので、それへの意味づけは二次的な問題だというのが私の考えなのである」という。ポストモダンを標榜する人にポストモダンは何かと訊いても答えられないと氏はいうのだが、モダンは西洋中心主義、ポストモダンは西洋を相対化する視点ということではいけないのだろうか? ドーキンスポパーをふくむ科学哲学者をポストモダン派であると批判する。そしてわたくしはポパーはごりごりの西洋中心主義者と思うので、話が混乱してしまう。わたくしにはドーキンスは「素朴実在論」に見える。ポパーはベーコン的な枚挙主義を批判するわけであるが、わたくしには小谷野氏の主張していることがどこかで枚挙主義と通じるように思える。それで、わからなくなってしまう。
 根本は帰納法をどう評価するかという、昔からあり、おそらく永遠に未解決のままで終わるであろう問題に通じる話だから、論じても結論がでるはずのない問題であるが、「自分は帰納の問題を解決したと信じる」と豪語する変人ポパーの信者であるわたくしとしては気になるところである。ベーコンの枚挙主義とへーゲルの歴史法則主義は正に正反対のものであるが、その両方の批判者であったポパーの立ち位置が気になるのである。
 次の本もおそらくポストモダンの問題と関わる。
 
金森修「科学の危機」
科学の危機 (集英社新書)

科学の危機 (集英社新書)

 この本を買ってきたのは、氏の以前の「サイエンス・ウォーズ」がおもしろかったからなのだが、「サイエンス・・」を読んだ時の印象は「ああポストモダンだなあ」というものであった。
 この本はまだほとんど読んでいないが、190ページ以降あたりでそのあたりの問題が論じられている様である。
 「あとがき」にちょっと気になるところがあって、「本書の執筆準備中、思いのほか重篤な病を得ていることが明らかになった」とあり、「妻の献身的な看病と協力のおかげで、この本をなんとか完成させることができた」「満腔の思いを込めてこの本を・・に捧げる」とある。こういうのがどうも苦手で、書物を出すというのは公的なことであるから、私的なことを書くのはいかがなものかということもあるが、学者の奥さんというのはソクラテスの妻のようであるべきで、旦那の仕事を「ふん、いったいあんなことのどこが面白いんだろうねえ」という態度をとるべきと思うからでもある。二人で一つの人格というのは気持ちが悪い。二つの独立した人格があるべきである。
 
江藤淳「一九四六年憲法 ー その拘束」 これは間違って買ってきてしまった。江藤氏に占領軍の検閲を詳細にというかしつこく調べた本があって、これがそれだと思って買ってきてしまった。「閉ざされた言語空間」という別の本のほうにそれが書かれているらしい。
 しかし世界でもこれほどうまくいった占領政策というのは他にないのではないだろうか? 東京大空襲のようなことがあった後、進駐してきた占領軍が大歓迎されるというのは理解できない話である。日本であまりにうまくいったから、イラクなどでアメリカは火傷を負うことになったのかもしれない。
 現行憲法も占領下の日本、0ccupied Japan で制定されているわけである。おそらくそういうことが縷々書かれている本なのではないかと思う。
 そういえば江藤氏も奥さんと特殊な関係のひとだった。