J・R・ブラウン「なぜ科学を語ってすれ違うのか」(6)

 
 第4章「社会構成主義ニヒリズム派とポストモダン」は、ポストモダンとファイヤアーベントを論じているのだが、著者のポストモダンへの姿勢が定まらないので、論旨がよくわからなくなっている。ブラウンはポストモダンが左派の信用を失墜させるとして基本的には批判的なのだが、それが持つ批判の姿勢を肯定するために全否定ができない。
 ポストモダン主義は、社会構成主義のなかでも「ニヒリズム寄りの一翼をなす」というのだが、わたくしはポストモダン主義の一翼として社会構成主義がいるような気がする。
 ポストモダン主義は近代主義の中核と考えられている啓蒙主義に反対する立場なのであるという。これもわからない。ポストモダン主義は鬼子ではあっても啓蒙主義の末裔なのではないだろうか? 啓蒙主義の目標は、迷信や権威主義を排し、そのかわりに批判的理性を用いることで、神の啓示や政権のかわりに、世俗の科学を採用し、伝統のかわりに進歩を重んじるのだと。そして近代主義には(啓蒙主義をこえた理念である)「真実はひとつ」という考えかたがあり、ポストモダンの陣営は「大きな物語」への不信という言葉でそれに反対するのだという。科学もまた「大きな物語」の一つとして否定の対象になるのだということである。
 ポストモダンは科学に反対なのだろうか? そうであるならソーカルらに揶揄されるような科学用語の不用意な濫用をする理由が説明できない。「真実はひとつ」という考え方は西欧がキリスト教という一神教のもとで生きてきたことに由来するのではないだろうか? ポストモダン陣営にいわせれば、科学が発達してくる過程で科学それ自体が従来の科学的世界観を否定するようになったということなのではないだろうか? 不確定原理であるとか、不完全性定理であるとか、観察者問題だとかいったことがそれに該当すると信じ、自分たちの近代否定を支えてくれるものと考えているのではないだろうか? とすると案外と一昔前に流行したニューエイジサイエンスなどとどこかで通じるところがあるようにも思う。ニューエイジの人たちは最新科学の知見が東洋の古代からの叡智を証明したなどと割に能天気なことをいっていた。その敵とするところは、デカルト的世界観、還元主義的見方といったものであり、全体性の回復、心身二元論の克服というようなことをいっていた。
 ブラウンもいっているように西欧は第一次世界大戦で打ちのめされ、ヒトラーホロコーストで完全な自信喪失に陥った。啓蒙主義のいきついた先が両次の大戦であったとすれば、西欧はその根源、その中心にほとんど修復不能な病理を抱えているのではないかというのが、ポストモダンの側のひとが共通に抱く問題意識なのではないだろうか? わたくしが兄事する吉田健一は、西欧の病理をヨーロッパ19世紀にあるとした。それは啓蒙主義がもたらしたものではなく、啓蒙主義からの逸脱なのである。わたくしもまたポストモダンの人たちが批判する「近代」とはヨーロッパ19世紀のことなのではないかと思っている。それで、ポストモダンは非常に奇妙なかたちでではあっても啓蒙主義につながっているのではないかと思っている。
 さて、ファイヤアーベントである。彼が主張する「無政府主義」は、その時々を支配しているドグマにとらわれていたのでは新しい発見がでてくることはないから、科学は「なんでもあり」 anything goes! でなければならないとするものである。事実として、科学の歴史は、その時々のドグマからでは絶対でてきないような奇妙でへんてこりんなことを考えたひとによって新たな展開が切り開かれてきたものであるとした。
 フラーの本によれば、ファイヤアーベントは「進化論と一緒に創造説も教えるべき」としていたのだそうである。進化論が無批判に正しいとされている場では、それに対する有効な批判はでてこない。創造説などのような進化論とはまったく違った立場に立つところからの批判にさらされて進化論もまた鍛えられるのだというようなことらしい。しかしなあ、と思う。「進化論」と「創造説」のあいだで生産的で実りのある議論が展開されるとはとても思えない。
 フラーがいっていることは、科学の側の人間が科学の存在理由は自明のものと信じていて、専門家の権威によって他からの批判は無知に由来するとして一方的かつ高圧的に封じるような現代の風潮への批判である。
 啓蒙主義は神の代りに人間なのであるから、神の全知に対して、人知の有限が前提となる。To err is human である。しかし「進化論」と「創造説」のどちらが優れた説明であるかということについては議論がなされるのでなければ困る。「お前はお前の道を行け! 俺は俺の道を行く!」というのはまずい。フラーがいうのは、科学の側はどうせ素人にはわからないのだからとして、自己の存在理由を自明のものとしているのはいけないということである。ファイヤアーベントの「なんでもあり」はともすれば、「お前はお前の道を行け! 俺は俺の道を行く!」になってしまう、すくなくともそれを肯定してしまう方向にいく危険が高いということはあると思う。
 それで結局は、「実在論」「客観性」「価値」という言葉をしっかりと考えてみないことには、ポストモダンとサイエンス・ウォーズの周辺にある混乱を克服できないとブランうはいう。
 まず実在論である。わたくしは実在論というのは「外部世界は存在する」という立場(外界はわれわれが認識しているときのみ存在するというような観念論あるいは独我論と対立する立場)と、唯名論と対立するプラトンイデアのような立場をさす場合の二つがあると思う。ところがブラウンは「実在論とは、科学がものごとの真の姿を伝えることにおおむね成功しているとする立場である」という。だが、実在論は「ものごとの真の姿がある」という立場ではあっても科学とは関係ないのではないだろうか? 科学は外部世界の存在を前提にしなければ始まらない。だから問題は、ニュートンの法則といったものが実在するという立場をとるかどうかである。
 わたくしは(自然)科学は物質のあいだにしか成り立たないものであると思っているので、ブラウンがもちだす「チェスの規則」は実在しないなどという例はばかげているように思う。ここでブラウンは道具主義を持ち出してくる。道具主義は反=実在論であるという。わたくしが道具主義ということで想起するのが、ファインマンがいっている以下のような話である。「私は皆さんに自然がどのようにふるまうかを説明しますが、皆さんは聞いていてなぜ自然がそのようにふるまうかは一向にわからないだろうと思います。それもそのはずで、それを知っている者は誰一人いないのです。だから私にせよ、自然がなぜそのような独特のふるまいをするのかを説明することはできません。・・(物理学者は)その理論が実験の結果を予測できるかどうかの方が、はるかに大切だと考えるのです。一つの理論が哲学的にすばらしいかそうかとか、わかりやすいかとか、常識で考えてすんなり納得がいくかどうかなどが問題なのではない。量子電磁力学が解明する自然の性質にしても、常識で考えればまったく不条理としか言えません。ところがこれが実験とぴったり一致するのです。ですから私は皆さんに自然の性質のあるがままの姿、つまりどうも理屈に合わない変てこなその姿を、そのまま受け入れていただきたいと願う次第です。」 これが道具主義なのだろうかということである。
 量子の世界ではそのふるまいを確率的にしかいえないということが実在論の否定であるとする見方がポストモダンの側からでている。それが納得できなくてアインシュタインは「神はサイコロ遊びをしない」といって後半生を棒に振った。ポパーもそれにつきあって、確率は人間の側の主観ではなく、客観的な物理学的性向であるというような方向で頑張ったらしい。
 「なぜ」と問わないのは道具主義なのだろうか? 量子電磁力学は「真理」にむかおうとしている理論なのだろうか、なぜかうまくいっているというだけの説明なのだろうか? どこにあるのかということをいえないようなものが実在するといえるのだろうか? 「真理」などはどいうでもいい、役に立てばいい、という立場をポパーは嫌った。ポパーからするとマッハは道具主義なのだと思う。
 ブラウンは「量子力学は、反実在論の一ヴァージョンに無数の論拠を与えてきた」という。だから、実在論にこだわることは泥沼への道なのであり、本当の論点は「客観性」なのであるという。そして「客観性」こそが擁護すべきものなのであるという。科学の側に立つということは「客観性」の側にたつことなのだ、と。
 そして、「客観性」には「存在論」的な意味と「認識論」的な意味があるといいだす。「客観的な存在論」とは、認識するものがなくてもなりたつことで、「主観的な存在論」とは「味」といったものなのだという。ブドウ糖という物質はわれわれがいてもいなくても存在するが、生き物がいなければ「味」は存在しないというようなことらしい。それなら「客観的な認識論」とは何かといえば、水はH−O−Hであるというような信念なのだそうである。「主観的な認識論」とは「水はゼウスの尿だという信念」などという例を持ち出す。よほど例を作るのに困惑したのであろう。「客観性」は存在論でだけ論じればよくて、認識論などに踏み入れると泥沼なのではないだろうか?
 次に価値の話になるのだが、これはいきなり「同性愛」の話になったりして生産的な議論がない。
 それでブラウンがいうことには、サイエンス・ウォーズは「実在論者と社会構成主義者のあいだの論争」ではなく、「科学は客観的だと主張する人たちと科学は主観的だとする人たちのあいだの論争」なのだという。それも認識論的な客観・主観が問題なのだという。存在論的な主観・客観ではなくということなのであろう。しかし、認識論に踏み込むと事実の争いではなく、言葉とその解釈のほうにいってしまう。わたくしが思うに、事実は自然科学の領域だが、言葉とその解釈は人文科学の領域である。認識論のほうにいってしまうと(自然)科学からは離れてしまうのではないかと思う。それこそがサイエンス・ウォーズが泥沼にはまり込んでしまった理由なのではないだろうか? それでブラウンは「科学的知識の社会学」という科学的知識をもつ人たちの動向に目をむけるのだが・・。
 

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