J・R・ブラウン「なぜ科学を語ってすれ違うのか」(7)

 
 第6章「社会構成主義自然主義派」にフォアマンというひとの「ワイマール文化、因果関係、量子論 1918−1927 ドイツの物理学者および数学者の敵対的な知的環境への適応」という論文が紹介されている。1971年に発表されたものだそうである。その論旨は「第一次大戦の敗戦後、ドイツの科学者たちは、それまでもっていた威信を大幅に失った。また時代はシュペングラーの「西洋の没落」がもてはやされていた時代でもあった。時代精神神秘主義的、反機械論的であった。それに対応して、ワイマール体制下の科学者たちは、ドイツ大衆のそのような風潮に訴えるような、非因果的で非決定論的な量子力学をつくりだすことにより、高い社会的地位をふたたび手にいれようとしたのだ」というものであるのだそうである。
 あきれてものがいえないようなとんでもない説であるが、ブラウンの本によれば、この論文は社会学関係で圧倒的な引用回数を誇る論文なのであり、この学問分野に新しい「パラダイム」を作ったとでもいえるような画期的なものだったのだそうである。こういう話をきくとつくづくと人文学というのは駄目だなあと思う。「科学者には社会的利害があり、科学的の信念はその利害によって形成されるのであって、いわゆる合理的要因によって形成されるのではない」という主張であるということなのだが、「科学者には社会的利害があるから、科学的の信念はその利害によって形成される部分もあって、いわゆる合理的要因によってだけ形成されるのではない」というのであれば問題はない。量子力学が非因果的で非決定的であるかどうかも問題であると思うが、かりにそれを認めるとしても、非因果的で非決定的である理論を作ろうというような思いがどれだけ強くてもそれで量子力学が作れるわけではない。ブラウンもフォアマンの論には批判的であるのだが、ヤンマーの「量子力学の哲学」のような本は立派な業績ではあっても、理解するのに骨が折れ読み進めるのがつらい本であるが、フォアマンのものはページを繰るのももどかしいほどおもしろい読み物になっているのだという。わたくしにはフォアマンの論文というのはほとんど陰謀史観もどきであるように思えるが、たしかに陰謀史観の本というのは読んでいておもしろい。そしてブラウンもいう通り、おもしろいから正しいとは限らない。
 それで本棚からヤンマーの「量子力学の哲学」を出してきた。むかしポパーを読んでいたころにその量子力学観を理解するために買ったものであるように記憶している。その第一章「形式と解釈」の最初のページに「量子力学ヒルベルト空間の作用素計算学として定式化しようとするフォン・ノイマンのアイディアは、疑いもなく、近代数理物理学の中でも大きな新機軸の一つであった。/ フォン・ノイマンの抽象的な定義によればヒルベルト空間とは、狭義の意味で正の内積をもつ(一般に複素数の体上の)線型空間で、内積によって生成される計量に関して完備かつ可分な空間である。」とある。もちろん引用していてわたくしは一切書かれていることを理解していない。「一句も解けずフランス語」である。よくわからないが、この空間がハイゼンベルク行列力学シュレディンガー波動力学の同等性を保証するのだそうである。「フォン・ノイマン流の量子力学の形式の公理論的表現を与えることとする。系、オブザーバブル(フォン。ノイマンの用語法では“物理量”)、及び状態は原初的(定義されていない)概念である。」「系、オブザーバブル、及び状態という概念に加えて、確率と測定という概念は解釈なしで使われてきた。」 ヤンマーによればそれ故に、確率の解釈について、主観主義、先験主義、経験主義、度数理論、帰納論理、傾向性解釈などさまざまな学派が自分たちの主張をこの概念に押しつけているのだということになる。そうであれば、測定についてはおしてしるべしである。
 「原初的(定義されていない)」というのもわからないが、ヒルベルトが「幾何学の基礎」で「点」「線」「横たわる」「上に」「合同」「間」を無定義語としているのに対応しているのではないだろうか? ヒルベルトによれば「人はいつでも−点、直線や平面の代りに−テーブル、椅子、ビールジョッキと言えるに違いない」ということである。(ちがっているのかしれないが、わたくしの理解するところによれば)波動方程式といったものは形式的に整合していることが先に出てきたのであり、それがどのようなことを「意味」するは後から検討された。その一つとして主観主義的解釈というものもあり、その解釈の採用がドイツのその当時の情勢に影響されたという主張はあってもいいのだが、そもそも波動方程式といった合理的に構成されたものが先になければ、解釈もでてくるはずがない。
 フォアマンは自分のやりかたをきわめて科学的なものとしているのだそうである。神とか宗教的なものとかを説明原理として持ち出さないから、と。ブラウンはこのような態度の例として、進化心理学的説明をもう一つのものとしてとりあげている。生物学で目的論的な思考を排除しようとすれば、どうしても進化心理学のほうへいかざるをえない。しかし進化心理学のいきかたとこのフォアマンの態度が同一のものとはとても思えない。ブラウンは生物学の代りに社会的なものを説明原理に用いているだけだというのだが。
 次にブルアという人の「ストロング・プログラム」というのが検討される。ここのところもよくわからない(というかどうでもいいことを論じているだけという気がする)。要するに科学論というような学問分野にたずさわっているひとの間での「ノーマル・サイエンス」内での内輪もめに過ぎないように思える。
 ブラウンもフォアマンやブルアたちについて批判的であるようなのだが、科学の内側にいるひとでフォアマンやブルアのいうことを気にしているひとがどれくらいいるだろうかと思うと、それらの議論をむきになって批判検討している熱意の由来がよくわからない。彼らを論破しないかぎり科学の未来はないとでもいった口調なのだが、(人文)科学の専門化の悪しき例をみているだけのような気がする、
 

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