今日入手した本 I・ハッキング「表現と介入」

表現と介入: 科学哲学入門 (ちくま学芸文庫)

表現と介入: 科学哲学入門 (ちくま学芸文庫)

 ハッキングの本は「何が社会的に構成されるか」と「偶然を飼いならす」を持っているが、後者はほとんど読んでいない。「社会的構成・・」の方は読んだ形跡はあるがあまり印象に残っていない。「社会的に構成される」というのはジェンダーという主張に典型なのであろうが、わたくしから見るとポスト・モダン思想の一端のように思える。「社会的・・」は何だか斜に構えたような書き方で好きになれなかった。
 本書は副題が「科学哲学入門」となっていて、ちらっと見た限りではかなり普通の書き方というか、問題に正面からむかっている本のように思える。
 戸田山和久氏の解説によれば「科学的実在論」の問題を論じた本であるらしく、ハッキングは実在論を擁護する立場らしい。わたくしの本当に乏しい知識によれば、反=実在論というのは典型的にはマッハの論なのではないかと思う。わたくしがマッハの名前を知っているのもほとんどはポパーの本を通してで(例えば、「果てしなき探求」の第34章「物理学における主観主義との闘い」)、それによればマッハの論はボーア、パウリ、ハイゼンベルクらを主観主義者にした。ポパー実在論者で「傾向性は物理的実在とみなしうる」などといっている。
 ファインマンの立場などはどこに位置することになるのだろうか?「そもそも振幅とは何を意味するのか(もしほんとうに少しでも意味があるものなら)という哲学的疑問は大いに残るのですが、物理学が実験の科学である以上、私ども物理学者にとってはこの理論体系の予測が実験の結果とぴったり合いさえすれば今のところは満足なのです。」 これはマッハの系譜なのだろうか、それとも物理学が実験の科学とする以上は実在論の陣営なのだろうか?
 昔昔に読んだ「タオ自然学」という変な本では、量子力学について、「実存的」な波ではない「確率の波」という波動性をそなえた抽象的な数学量というようなことがうれしそうに書かれていた。デカルト実在論が諸悪の根源としているらしい著者は、量子力学デカルト的世界観を覆すものとして頼もしく思われるらしいのである。「厳密に決定論的な自然法則」という見方を覆すものなのである、と。
 まだほとんど読んでいなくてこういうことを言ってはいけないのだろうが、どうも本書で論じられていることは哲学業界内部での話題であって、科学の現場にいるひとにかかわる議論ではないように思う。科学の場にいるひとに関心をもたれない科学哲学というのは、何のための論なのかということがどうもよくわからない。
 渡辺博氏の「訳者あとがき」でも、本書に興奮するのは専門家の方であろうといっている。この場合の専門家とは科学者ではなく哲学者である。「本書に見られるのは哲学することによって捜し当てられている事例の見事な収集である」というようなことが書かれているが、どうもこの「哲学する」という言葉がわたくしは嫌いで、この言葉を使うひとは皆蛸壺の中に棲息しているのだという偏見を拭うことができない。
 
果てしなき探求〈上〉―知的自伝 (岩波現代文庫)

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