J・R・ブラウン「なぜ科学を語ってすれ違うのか」(3)

 
 社会構成主義者の言っていることをきくと科学者たちは、その内容が自分の経験とはあまりにかけ離れていることにめまいを感じると著者はいう。しかし、と著者はいう。しかし、それはフェミニストが哲学や社会科学のさまざまに感じる「女性の経験が不当にも軽んじられている」と感じる違和感と同一のものではないかと。
 これはおかしな議論である。科学者がめまいを感じるのは、社会構成主義者が外界が存在するとはいえないとか、ある法則が成り立つか否かは状況に依存するとか、外界が存在するというのは科学に従事するという立場からの見方であって、一般的になりたつ話ではないなどというからである。科学者は普遍的なものを探求していると思っているので、自分にだけなりたつ、あるいはある状況でだけなりたつことを求めているのではないと思っている、だからめまいなのである。
 著者も正統的科学を指示する立場でソーカルに同調するのであるから、社会構成主義にめまいを感じる人間なのである。にもかかわらずフェミニズムの論にはめまいを感じない。つまりダブル・スタンダードなのであり、どこかで相対主義に道をひらいてしまっている。フェミニズムはどう考えても社会構成主義の陣営にいるのであり、これを正統的科学の立場から救おうとするのは無理な試みなのであると思う。フェミニズムの主張はたとえそれが正統的科学の立場からは正当化されえないものであったとしても、それでも政治的には救済されなければならないという性格のものなのではないだろうか?
 人間を正統的科学の立場から見ようとするなら、人間もまた生き物であるという視点が不可欠である。フェミニズムは人間は生物学的には規定されていないという思考にきわめて親和的であるので、その点ですでに正統的科学と齟齬をきたしてしまう。文化系知識人の多くは、物質を軽視し文化的な何かを重視する立場にあるのであろうが、フェミニズムの立場からすれば、人間における生物学な規制というのは物質的な側面であり、人間においては主要な枠割を演じることはないということになる。そうすると人間は「白紙」で生まれてくるとするような、正統的科学からは支持されえないような見解をとらざるをえない。著者は正統的科学とフェミニズムの二足の草鞋をはこうとする無理な試みをしているようにみえる。
 それで正統的科学の立場にいるときの著者からみると、科学的方法とは以下のようなものである。
 1)新奇な予想をすること。たとえば、大陸移動説。
 2)新規な予想をして的中すれば、その理論はいい線をいっている。たとえば、光の波動説。
 3)多くのことを統一的に説明できる理論はいい理論である。たとえば、ニュートンの逆二乗説。またダーウインの進化論。
 4)精確さ。たとえば量子電気力学の驚異的な予測力。
 5)正確な予測をできる理論は有望。
 6)思考実験もまた有効。たとえばアインシュタインの思考実験。
 7)反証を重視する。
 8)科学的方法は自己批判的に改良される。
 ここで述べられていることは、ほとんどがポパーのものであるようにわたくしなどには思える。
 このような点について社会構成主義者はいったいどのように考えているのだろうかと著者は問う。その時の著者は完全に正統的科学観のひとである。
 ここから科学哲学のおさらいがはじまる。
 A)論理実証主義:マッハとアインシュタインの影響を受けている。マッハは徹底的な経験主義者であり、アインシュタインの相対論もその影響下で生まれた。論理実証主義は経験論と検証主義の立場に立つが、経験論は合理論と対比される立場で、合理論はわれわれは経験によって獲得するのではない生得的な知識をもっているとする。
 ここで注意すべきはサイエンス・ウォーズの議論のなかでは、合理論は社会構成主義と対立するものとしてでてくることで、そうすると経験論と合理主義は同じ方向を指すことになり、対立するものではないことになる、ということである。(わたくしの理解によれば、合理主義は超越的な知識獲得と対立する言葉であり、ここで使われている経験論と対立するものとしての合理主義というのが、よく理解できなかった。合理主義というのは「神」といった超越的なものに根拠を求めるのではなく、自分の頭で考える立場というだけのことではないのだろうか?)
 経験論は常識的には理解しやすい立場である。しかし、電子、磁場、遺伝子、エントロピー超自我といったものは経験論からはどう説明されるのだろう。実証主義では科学の用語を「観察言語」と「理論言語」にわける。この立場からすると、理論言語は観察言語と関連づけられることにより間接的に意味を獲得するということもできるし、理論言語は計算のための便利な道具であるにすぎないともいえる。要するに、電子とか磁場とかいったものは、観察により真偽が決定できることが大事であって、それがどのようなものかということは重要ではない。
 観察不可能な隠れた原因について語ることには概して意味がない、と実証主義者は考える。このような検証主義は、倫理学や数学あるいは哲学といったものの存立の根拠問うことになった。論理実証主義からは数学は論理を示すのもとして救済される。しかし倫理学や哲学はそうではない。ヴィットゲンシュタインの「論理哲学論考」は哲学が無意味であることを示す哲学の本である。この本が理解されればもうその本は不要になる。
 論理実証主義の主張のうちで(a)「観察は中立であり、いかなる理論や背景にある信念とも無関係である」というものは、現在ではほとんど支持するひとはいない。(b)「経験的に検証できないものは意味がない」については、実在論者が「神の視点」から語るような傲慢さへの批判として今なお有効であろう。(c)「科学の歴史は累積的である」はポパーやクーンからともに批判された。科学の歴史は革命的なのである。(d)「科学は深い因果的な説明をあたえるものではない」については今なお議論が絶えない。(e)「科学が目指すのは「真の」理論ではなく、経験をうまく説明してくれる理論である。実在を記述するものではない」についても、まだ決着はついていない。(f)「発見と根拠づけは異なることである」についても今なお論争が絶えない、というのが著者の見解である。
 このような議論を読んでいていつも感じるのだが、現場の科学者は、著者がほんとん現在だれも支持しないという(a)を支持しているように思うし、(b)「神の視点」の側にいるだろうし、(c)科学の歴史は累積的であると思っているだろうし、(d)科学は因果的な説明をあたえると考えているし、(e)科学は実在を記述する信じているだろうと思う。つまり、ここで著者が言っていることは哲学のあるいは科学哲学の世界での常識ではあっても、科学の現場の常識とはかけはなれれいるように思う。
 それで、
 B)ポパーポパー実証主義者の最大の論敵である、と著者はいう。ポパーは科学は「予測と反証」から成りたつとした。つまり科学はトライアル・アンド・エラーの試みなのである。これが検証主義とどのように異なるか? 反証できなくても意味のある命題は無数にあるとポパーはした。倫理学形而上学は反証はできないが意味はあるし、科学の分野でもダーウィンの進化論はほとんどの内容で検証不可能であるが意味はある。著者によれば、ポパーの考える科学とは「英雄的な科学者たちが自然について大胆な主張をするという、勇気ある営み」というもので、ほとんどロマンティックといっていい科学者像であり、だからこそその説は科学者たちから歓迎された、という。
 ポパーの描く科学者像がいたってロマンティックなものであり、科学者たちの現場の実際とはかけ離れていることはその通りであると思うが、ポパーの説が科学者たちから歓迎されたのは、ポパーが「真理」の存在を否定しなかった点にあるのではないかと思う。ポパー反証主義からすればわれわれがある理論を真理であるとすることは不可能であることはいうまでもないのだが、それにもかかわらず「真理」はどこかにある。「真理」に到達することはできないにしても「真理」に近づいていくことはできる。科学の試みは「真理」に少しでも近づいていこうとするものでなければならない。クーンの科学論では「真理」などというものがでてくる余地はなく、それぞれの時代のパラダイムの内部で正しいと思われている約束事があるだけである。
 真理の存在を信じるという点でポパー実在論に近づいているのだと思う。また著者もいうようにポパーは哲学をもまた救ったのだと思う。(わたくしの理解では)論理実証主義は、検証できる(可能性のある)こと、実証できる(可能性のある)こと以外はすべてたわごととしたのであり、そうであるなら哲学などすべてたわごとである。「語ることのできないこと」について沈黙せず、たわごとを並べ続けるひとが哲学者なのであるが、これもまたわれわれの素朴な感覚を逆なでする。ポパーマルクス主義フロイトの論を科学ではないといったのであり、科学でないものに意味はないとしたのではない。この点も論理実証主義の過激から学問を救ったのではないかと思う。
 ダーウィンの進化論は検証可能な予測をできない。しかしだからといってこれが宗教的根本主義者の論と同列であるなどという議論がでてくるのは、ポストモダン相対主義の行き過ぎがもたらしたものでありポパーの罪ではないだろうと思う。創造科学がいっていることなどは反証が山のようにあるのに対して、ダーウインの進化論はきわめてありそうもないことを提唱して、現在までのところ大きな反証にあっていないのだから、ポパーのいう科学の典型例としていいはずである。
 マルクスの理論やフロイトの理論はきわめて多くの反証にあってきているのだと思う。ただそれはラカトシュのいう防衛帯がきわめて強固で、どのような批判にもびくともしないということなのである。つまりマルクスフロイトの理論は自己を批評する姿勢がきわめて乏しい。
 以下、著者によるポパーの論の要約とその批判。
 (a)「科学とは大胆に予測を立て、その反証を試みるプロセスである。」 著者もいうように、科学の世界での試みのほとんどはクーンのいう「パズル解き」であろう。
 (b)「発見をするための論理や、良いアイディアを得るための方法はない。」 この主張はわたくしの理解では、ポパー帰納を否定したことの帰結なのである。ベーコン的な枚挙主義によって、事実をたくさん収集してそこに共通するものから法則を見つけるというやりかたの否定なのだと思う。ポパーによれば、そんなものは科学ではないのであるが、科学の現場では、いまだに「珍しい蝶々を一匹見つけた!」に類する論文はたくさん書かれていると思う。
 (c)「たった一つでも反例があれば、理論は論破される。」 そんなことはないことは周知のことであろう。だからこそラカトシュの論がでてきた。
 (d)「反証可能なものだけが科学である。」 こんなことをいうとダーウィンの進化論も救えなくなる。その通りだと思う。
 (e)「帰納的にものごとを立証することはできない。」 そんな無茶な、と著者はいう。その通りであろう。しかし、ノーマル・サイエンスとしての「パズル解き」など、ポパーは科学とみとめないのである。
 (f)「科学的精神は批判的精神である。」 著者はこれは肯定する。アインシュタインは批判精神をもっていたが、マルクスフロイトはそうではなかったというのが、ポパーのいいたいことなのである。
 ここで著者は述べていないが、ポパーのしたことで大きなことは、「真理」概念の擁護の他に「客観性」の擁護ということがあると思う。ポストモダン的な「相対主義」に敵対するものとしてのポパーである。そういう「客観性」を支持する立場から見ると、量子力学理論というのが「客観性」の否定に通じると思えたのである。アインシュタインの「神はサイコロ遊びをしない」は多くの学者から笑われたが、ポパーもまた「神はサイコロ遊びをしない」ということを証明したかったのである。
 ポパーが後世にどういう人間として記憶されたかったのかというと、(自称)「帰納の問題の解決者」としてよりも、「確率の傾向性理論」の提唱者としてではなかったかと思う。「果てしなき探求」のなかで「私の1967年の論文「『観察者』なき量子力学」について数学者で量子力学史家のB・L・ファン・デル・ヴァルデンから、自分はあなたの論文の十三のテーゼすべてとあなたの確率の傾向性解釈にまったく賛成すると述べた手紙をもらった時、私はほとんど四十年にわたる自分の思想探求が報いられて余りあるものだと思った」と書いているのは本心なのだと思う。
 ポパーは(原子物理学の若い世代にマッハの影響力がきわめて有力になって以来)「物理学は主観主義哲学の拠点となり、それ以来ずっとそうであり続けた」としているが、主観主義哲学(ポストモダニストもその陣営の一員であろう)と闘うためには、量子力学の主流となっている観点を否定しなければならないと考えたのである。反=ポストモダンの立場にたつ著者がなぜ、ポパーのその側面にあまり注目していないのかがよくわからない。
 次にクーンが論じられるが、稿をあらためる。
 

なぜ科学を語ってすれ違うのか――ソーカル事件を超えて

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果てしなき探求〈上〉―知的自伝 (岩波現代文庫)

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