今日入手した本

分析哲学講義 (ちくま新書)

分析哲学講義 (ちくま新書)

 

 著者はまったくしらないひとで、偶然本屋でみつけたもの。
 わたくしは哲学音痴で、基本的に哲学の本が読めない人間なのだが、例外的に読んでいるのがカール・ポパーで、これはわたくしが医療という自然科学の領域のなかでももっとも夾雑物の多い分野で仕事をしているので、科学と非科学の区別に関心をもたざるをえないためということが大きいが、ポパーの書くものが哲学者の書くものとしては例外的に異様に読みやすく、わたくしのようなものでも読めるということも大きいと思う。ポパーはいわゆる科学哲学の分野の一員であるが、ポパーやクーンとかファイアアーベントとかの科学哲学に接したことは、今にして思うと、わたくしがいわゆるポスとモダン思想に接した最初だった。
 ポパーの本を読んでいると、自分の陣営としてラッセルやフレーゲの名前がでてくるし、敵としてヴットゲンシュタインの名があがる。そういうことで分析哲学とか論理実証主義とかはポパーを理解するうえでもおさえておかなければいけない分野なのだろうなとは思っているが、ラッセルのしている議論というのが読んでみても全然ぴんとこない。そもそも記号論理学のようなものがまったくだめで、どうでもいいことを論じているようにしか見えない。つるつるしているというのも変な言い方だが、なんだかそういう印象である。つまりどういう問題とのかかわりでそういうことが議論されているのかというのが見えてこない。
 以前読んだ清水幾太郎氏の「倫理学ノート」で紹介されていた後期のヴィットゲンシュタインの「私たちは氷の上に入り込んでしまった。ここには摩擦がなく、或る意味では条件が理想的なのであるが、それだけに進むことが出来ない。私たちは進みたいと思う。それには摩擦が必要なのだ。ザラザラした大地へ戻ろう!」という言葉が妙に忘れられない。ラッセルの哲学のようなものは内部では完結しているのかも知れないが、外部のどの問題に答えるためにされている議論なのかが見えてこない。いま書いた「つるつるしている」というも、このヴィットゲンシュタインの言葉からの連想である。
 清水氏のこの本はムアの「倫理学原理」からはじまっていて、「ラッセルおよびムアがブラドレーなどのヘーゲル主義的形而上学を学界から追い払った事件 ― から分析哲学は出発している ― も、あれはあれで一つの断絶であった」が「前期ヴィットゲンシュタインから後期ヴィットゲンシュタインへの変化」のほうがより重大な断絶であったとするヘラーというひとの説を紹介しており、20世紀の分析哲学の根本的な特徴が「分析的な冷たさ」であるであるということをいっている。後期のヴィトゲンシュタインには、人間的なもの、パーソナルなもの、生命的なもの、熱情的なものがあるというようなこともいっている本であり、分析哲学批判という側面ももつ本でもある。
 「分析哲学講義」はある程度ちゃんと読んだのはまだ第一章までで、あとはざっと通読しただけであるが、感じるのが同じような「つるつるした」という印象なのである。つまり哲学の内部で閉じていて、外部に開かれていないような感じだろうか?
 本書、第一章(講義1)の末尾に、氏が大学で教えていると生徒のなかに毎年少数ではあるが必ず「放っておいても哲学をしてしまう性行をもつものがいる」ということをいっている。「彼らにとって哲学の一番の有効性とは、哲学の存在そのものです」という。「このことは大げさではなく彼らにとって僥倖であり、少なくとも彼らの人生においては、何が有効で何がそうでないのかの基準自体を変える出来事なのです」としている。ここには哲学が実体として存在しているとするひとがいる。わたくしは「ただもの論者」で唯名論の側の人間であるためか、こういう議論にどうしても実在論の匂いを嗅いでしまう。
 などというようなことを言っていても仕方がないので、講義1の「分析哲学とは何か」をみてみる。
 分析哲学とは何を分析するのか? それは言語であるということがまずいわれる。それは言語を基礎的で自律的なものとみなすので、言語のメカニズムを何か別の機構のもとで説明するのではなく、言語の機構によって他の機構を説明していくやりかたを採用する。「まず世界があってそれを言語が写し取るという直感ではなく、まず言語があってそこから世界が開かれるという直感が、分析的手法を支えています。言語によって世界が開かれるからこそ、言語の仕組みを見ることで世界の仕組みが分かる、と言ってもよいでしょう」ということである。ここで用いられている「開かれる」という言葉があいまいで、今一つここで言われていることは明晰でないように思われるのだが、「開かれる」というのは哲学の世界では誰でも一意的に理解できる用語なのだろうか?
 この言語的転回によって、何が追い出されたのか? それは「一人称的で構成主義的な観念論の考えです」ということが次にいわれる。バークリー、カント、ヘーゲルといった哲学者に共通する観念論の手法では、『「私」の私秘的な、つまり私だけが捉えるプライベートな経験こそが世界認識の基礎とな』るのであり、私が時計をみているというのは、まず時計があって私がそれを見ているのではなく、私が時計を見ているからこそ、その時計は存在するということになる。観念論的な考えでは、言語もまた、「私」によって意味を与えられる。世界を開くのは「私」であり、言語はその「私」が用いる道具にすぎない。
 分析哲学は、言語機構の解明を通じて他の機構を解明しようとする。たとえば、自由とは何かという問いを立てても、その問いはまず、「自由」という言葉の働きについての問いとして吟味される。このようなやりかたについて、それは「自由」という言葉を論じているだけで、どう生きればいいかという実存的な問いについては何もわからないという批判がでてくる。しかし、われわれの人生は言葉の介在によって初めて、このような人生としてあるのだと青山氏は答える。あるいは、言語は人間の主観的なものだから、客観的な自然のあり方とは関係ないという批判もある。これにも青山氏は、そういう批判は、人間のあらゆる認識が言語なしには成立しないという事実を軽視していると反論する。科学的な実験や観察さえ、言語的な構成物としての理論なしには実行できないのであり、「言語から完全に中立的な客観的認識というものはありえません」という。
 次に分析哲学の歴史。19世紀の終わりから20世紀のはじめにかけて、フレーゲラッセルなどがこれを開始した。その後、二つの流れがでてくる。一つが「人工言語学派」(または「理想言語学派」)であり、もう一つが「日常言語学派」である。
 1920年代の終わりごろ、ウィーンを中心に展開した「論理実証主義」は人工言語学派の試みの代表であり、カルナップ、シュリック、エイヤーなどがいる。これは後代の科学哲学に大きな寄与をしたが、1930年代の後半にさまざまな理由から勢いを失った。
 日常言語学派は1950年前後、オックスフォード大学でおもに形成されたためオックスフォード学派ともいわれ、ライル、オースティン、ストローソンなどがいる。これは心身問題への新たなアプローチや心の哲学へと進展していった。
 青山氏は、日常言語学派によって洗練されたものになった概念分析の手法が今日の分析哲学の「肉」となっているとし、ライルの「心の概念」での議論の一つを紹介している。「ある大学を訪れ、教室や図書館や研究室などを見て回った人物が、「しかし、大学はどこにあるのですか」と尋ねたという話である。教室と大学とはカテゴリーが違うということであり、有名な「カテゴリー・ミステイク」の論である。心と物質は別々のカテゴリーに属するのにそれを同じ「もの」というカテゴリーに入れて記述したことが、デカルトの誤りを生んだとライルはした。
 あと二人重要な人物として、青山氏はクワインウィトゲンシュタインの名をあげる。クワインは自然科学の成果と独立に哲学をすることはできないとする議論を展開した。ウィトゲンシュタインは前期の哲学で人工言語学派とくに論理実証主義に決定的な影響をあたえ、後期の著作で日常言語学派を先取りした。
 
 若いときに面白がって読んだ本の一つに、ケストラーの「機械の中の幽霊」がある。この機械の中の幽霊というのは心のことで、ライルの用語らしい。精神なんか身体という機械の中の幽霊なのだということのようである。ケストラーは「ホロン」とかいうことをいったひとで、部分の総和が全体になるのではないということを主張した。一つの生命体は個々の細胞機能の総和ではなく、まったく別の何かであるというようなことである。ケストラーはまたダーウイン進化論が嫌いで獲得形質の遺伝ということにもこだわった。一時期流行したニューエイジサイエンスに親和があったひとでもあり、要するに機械論が嫌い、生命を物理化学だけで説明できるとする方向も嫌いで、精神というのは何か特別なものであるという方向を維持したいと願ったひとであったと思う。1968年に原著はでているから約半世紀前の本で、こういう方向はどんどんと旗色が悪くなってきているが、ケストラー的な方向というのは手を変え品を変えて陸続とその後もでてきているように思う。要するにライル的な方向は「冷たく」見えるのである。熱くないのである。
 以前「心の概念」を探して入手できなかったので、代わりに手に入れた本に「ジレンマ」があるが、あまり記憶に残っていない。そのあとがきによれば、日常言語哲学が主流になることによって、哲学者が専売とする問題は、「なぜ、これこれの表現はナンセンスなのか」「これこれの表現はいかなる種類のナンセンスなのか」というかたちに先鋭化されていったのだという。「○○は××に過ぎない」といういいかたに激怒するタイプの人間がいて、ケストラーなどはその典型かもしれないが、そういう表現を、問題を茶化しているというか矮小化しているように感じるのである。
 結局、読まなかったけれども翻訳が手に入らなかったのでとりよせた「心の概念」の原著のペイパーブックにはデネットが解説を書いていた。それでデネットがライルの弟子であることを知った。わたくしはデネットは結構読んでいるが、それはデネットが何を問題にして書いているのかということがわたくしにも見てとれるからなのだと思う。一方、ライルのものはそれが何を問題にしていつのかがよくわからない、あるいはその問題にしているところがそれほど大事な問題なことなのかがよく理解できないということなのであろう。ただデネットの解説でライルがウッドハウスとJ・オースティンを愛読していたと書いてあったところはよく覚えている。そういう本を愛読するひとは決して人工言語などという方向にはいかないだろうと思う。
 この講義1を読んでいてすぐに思い浮かべたのがポパーの「果てしなき探求」の一節である。ポパーが「反本質主義的訓戒」と呼ぶ自戒である。

 言葉とその意味についての問題を本気になってとりあげようなどと力んではならぬ。本気になってとりあげなければならないのは、事実の問題であり、事実についてのさまざまな主張(もろもろの理論および仮説)、それらが解決する問題およびそれらが提起する問題である。

 この訓戒にはすでに青山氏は批判あるいは反論をしている。「そういう論は、人間のあらゆる認識が言語なしには成立しないという事実を軽視している」のだし、「科学的な実験や観察さえ、言語的な構成物としての理論なしには実行できないのであり、言語から完全に中立的な客観的認識というものはありえない」のだ、と。ポパーは「事実」とか「理論」とかいうわけであるが、「事実」という言葉がどのような使われ方をしているか、その意味するものはという議論がまず必要とされるということである。
 「言葉やその意味にかかずらうのは、知的破滅への道をたどること必定であり、言葉上の問題のために本当の問題を放棄することであると、私はいぜんとして今なお考えている」とポパーはいい、これが自分を「現代のほとんどの哲学者から分かたしめている争点」であるとしている。ポパーが自然科学者に人気があるのはこの辺りが関係しているのだと思う。自然科学者は大事なのは「事実の問題であり、事実についてのさまざまな主張(もろもろの理論および仮説)、それらが解決する問題およびそれらが提起する問題」であり、自分はそれに従事していると思っている。たとえば「進化」ということがどのようになされてきたかについて議論しているところに、そもそも「進化」という言葉であなたが意味しているところは何なのですかというような議論が割り込んでくると消耗だなあと感じてしまう。進化ということがあったことを前提とし、それがどのようなメカニズムによるのかを議論したいのに、あなたが進化という言葉で意味するものと、別のひとが進化という言葉で意味するものは同じだろうかというような議論は時間の無駄としか思えないのである。それは大部分の自然科学者が哲学的にはナイーブであるということなのだろうし、端的にいって彼らは深い思考をすることができないということなのかもしれないが、それで何が悪いと大部分の自然科学者は思っているだろうと思う。
 「人間のあらゆる認識が言語なしには成立しないという事実」という言い方もわたくしには少しナイーブに思えてしまうので、人間のする認識のなかで言語なしに成立するものもたくさんあるのではないかと思う。もし、そうでなければ、人間は人間以外の動物とまったく異なった認識をしていることになってしまう。チンパンジーが言語をもっているかというようなことを議論しだすとまたまた言語とは何かという不毛な議論に陥ってしまうのかもしれないが、少なくとも「事実」とは何かというような抽象的な思考をもたらす言語は有していないであろう。しかしチンパンジーは認識している。犬や猫も認識している。それらは言語なしに成立している。人間が人類の歴史のなかでいつの時点から言語をもつようになったかはわからないであろうが、言語をもつ以前ともった後でホモ・サピエンスのする認識はまったく一変したのだろうか? そうだとすると何か人間はその時点から他の動物とは異なる一種の化け物のようなものになってしまったのだろうか? われわれのしている認識は他の動物と同じに大部分は肉体によってしているのではないだろうか? 言語なしには成立しない認識というのは人間のしている認識のなかでは上澄みのようなものではないだろうか? もちろん、われわれは言語というものを持ってしまったために、他の動物ならしないような認識上の錯誤を犯すようになったという見解もあるのだろうし、その錯誤を正すために哲学はあるという見方もあるのだろうが、言語哲学というのがそのようなものであるとは少なくとの本書の講義1までを読んだ限りでは思えない。
 で、講義2は「意味はどこにあるのか」ということになる。ポパーは「言葉やその意味にかかずらうのは、知的破滅への道をたどること必定」といっていた。われわれが言葉を持っているのは事実である。それで大事なのは、それによってわれわれが議論をできるということのほうで、われわれが個として何らかの認識をするほうではないのではないかと、ポパーしか読んでいないわたくしには思えるのだが・・。
 

機械の中の幽霊 (ちくま学芸文庫)

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ジレンマ―日常言語の哲学 (双書プロブレーマタ (3-3))

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The Concept of Mind (Penguin Modern Classics)

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果てしなき探求〈上〉―知的自伝 (岩波現代文庫)

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