清水幾太郎「倫理学ノート」 第15章〜第18章(ヴィーコ)

   岩波書店 1972年
 
 最初に書いたように本書を読み返してみるきっかけとなったのは上村忠男氏の「ヴィーコ」に本書が言及されていたからなのだが、ヴィーコの名前は本書ではこの第15章になって唐突にでてくる。アンチ・デカルトとしてのヴィーコである。ここでのデカルトは「歴史を学問とみとめないひと」である。デカルトの思考は数学的思考であり、数学は無歴史的な学問である。18世紀はデカルト思想普及の啓蒙の世紀であり、19世紀はその応用としての技術と産業の世紀である。明晰で正確なことが尊敬され、数学の厳密性がすべての科学や知識のモデルとなる。
 しかしデカルトに何か抵抗を感じるひとがいる。その代表選手として清水氏が選ぶのがヴィーコなのである。しかし40歳までのヴィーコデカルト主義者であったのだという。ヴィーコもまた転向した。ヴィトゲンシュタインも清水氏によれば転向者である。この転向へのこだわりは清水氏の個人史を反映しているのであろう。氏によれば「リアリティのタッチを確かめようとする人間は、一生のうちのどこかで転向しなければならない」のである。論理から経験へ。
 デカルトにあっては、蓋然性は真実でないから虚偽である。ヴィーコには蓋然性は真理へと通じる。真理とは、長い期間にわかって多くのひとが積み重ねたものにより漸次的に明らかになってくるものなのか? 一人の人間が理性を正しく使用することにより一挙に開示されるものなのか? デカルトの真理の世界、数学の世界には人間がいない。ヴィーコの世界は常識が通用する人間の世界である。真理と生活。
 デカルトの世界を求めるならば人工的な完全言語の世界にむかわざるをえない。ラッセルや前期のヴィトゲンシュタインの世界である。ヴィーコのいう真理は法廷における真理である。そこではレトリックが必要になる。なぜなら人間には理性だけでなく情意ももつから。黙っていても真理は自ずから姿をあらわすのか、正義は必ず勝つのか? 
 清水氏はソクラテスよりもソフィストの方に親近感を感じるという。現実生活の幸福や権力に生き甲斐を感じる多くのひとと、現実を超えた真理への愛に生き甲斐を感じる少数の人々。政治と哲学の対立。哲学者とは現実に背をむけた無力な人々のことではないのか?
 わたしたちは幾何学でなぜ何が正しいかをいいうるのか? それは幾何学が人間が作ったものだから、というのは正しいのか? 人間がつくった幾何学で神のつくった自然を理解できるか? それは人間が到達できないものがあることに思いがいたらない傲慢なのではないか? ヴィーコによれば、ひとは考えることはできても知ることはできない。だから人間は蓋然性にはいたれても真理には到達できない。
 神はリアリティの世界の王であるが、人間はフィクションの世界の王である。そして社会は人間がつくったものである。
 ニュートンの方向が学問的研究の唯一のモデルなのであるか? 人間や社会や歴史という領域でその方法で研究を進めようとしても、自然科学と同じような達成は期待できない。
 デカルトの方法はあらゆる方面に有効なのではない。その故にわれわれはしばしば、それが適応できない領域を科学的研究に値しないものとして捨てることをするようになった。それに抗した人間として清水氏はコントの名前を挙げる。理性から歴史へ。
 
 この辺りを読んでいると「倫理学ノート」が清水氏の安保闘争での敗北という体験が色濃く背後にある本のだなということを強く感じる。「勝てる闘いでなぜ負けたか?」 それは現実をとらず「民主主義」などというお題目を優先するひと、現実をみず、生活をみず、抽象的な真理を優先するひとがいたから。
 清水氏はポパーを読んでいたのかな、と思う。あるいはポパーヴィトゲンシュタインの批判する論理実証主義の陣営の一人であると考えていたのかもしれない。論理実証主義は何が正しいかを明らかにできるとする。それが科学であり、科学以外の言説はそれの真偽を確定できないという点で戯言にすぎず、哲学もその一つであるとする。ポパーは何が正しいかを明らかにすることはできないとする。明らかにできるのは何が間違っているかだけである。間違っているかどうかを明らかにできる分野を科学とする。科学の分野では今まで間違いが指摘されていない仮説が生き残っている。それは未来において否定されるかもしれないが現在はまだ生き残っている。ある仮説はその仮説が正しいとすれば、これはこうなるはずであるというさまざまなことをその内にふくむ。そのどれか一つでも否定されればその仮説が否定される。ある事象の観察(単項目での事象・・単称命題)が仮説(総括的な言明・・全称命題)を否定する力をもつ。科学でない世界では何が正しいを明らかにできない。たとえば精神分析の世界では、子供がある状態になったことについて、親の愛情不足からも愛情過多からの説明できてしまう。あらゆることを説明できる論は科学ではない。科学の言説は自分の説が正しいならば、こういうことはおきえないということを同時に提示する。したがってその仮説を否定しようと思えば、そのおきえない事象があることを提示すればいい。ポパーが論じたのは科学と科学でないものの間の線引きであって、科学でないものは意味がないとか戯言であるとかいったわけではない。ポパーが哲学を否定しない。ただし、哲学が現実の問題に根をもたなければならないとする。(ポパーによれば)プラトン哲学はピタゴラス学派の徒であったプラトン二等辺三角形という美しい形のなかの対辺の無理数という醜い数字が出現してくるという矛盾に応えようとしたものであったし、カントの哲学は正しいとしか思えないヒュームの哲学によれば人間は真理に到達できないはずであるのに、ニュートンが真理を発見したという矛盾に応えようとするものであった。
 清水氏が敵としている科学は倫理実証主義がいう科学、証明できる実証できるものとしての科学であり、ポパーの見解をとれば必ずしも敵ではなくなるのではないかと思う。ポパーは基本的に自然科学の身分に関心があったひとで社会科学への関心がそれほど高かったとは思えないが、現実の問題に根ざさない学問は乾涸らびるとしたひとであるから、その点では清水氏と路線は違っていないように思う。
 清水氏が論じる問題をポパーは「雲と時計」として表現する。予測可能な動きをするものとしての時計と予測できない雲。物理化学法則から予測できるものとしての時計とそうでない雲。ニュートン力学ですべてが予想とする見解にはじめて異を唱えた哲学者がバースであったとポパーはいう。われわれの測定にはかならず誤差がつきまとうではないかと。しかし、問題は量子力学の方面からきた。そこでの非決定論ニュートン力学決定論を駆逐したのだ、と。このコペンハーゲン解釈ポパーは異を唱える。その根底にあるのは物理決定論は人間が自由な行為者であるという人間の信念を脅かす、という問題である。ラプラスの悪魔である。
 ポパーのいうコンプトンの問題:ある一通の手紙が人を東京からニューヨークに移動させる。その手紙はそのような身体の物理学的移動をおこさせる力をなぜもつのか? デカルトの問題:心の状態がわれわれの肢体の身体的運動に影響しうるのはなぜか? デカルトの答は松果体であった。
 清水氏も(そして清水氏によるヴィーコも)科学というものをあまりに狭く規定しすぎるのだと思う。その仮想敵を実際以上の手強い相手であるとし、人文科学というものに少し被害者意識を持ちすぎているように思う。
 今、「日本思想という病」という本を読んでいる。いずれまとめて感想を書く予定だけれども、そこでの高田里恵子氏の議論、人文科学の議論は何の役に立つのかという問題のほうが清水氏の論にとっては重要なのではないかと思う。文系知識人の議論なんか一般大衆には届きませんよ、という話である。清水氏によれば、あまり議論の精密さ、科学的手続きの厳密さにこだわっていると、そこでの論は生活の場を離れた空理空論になってしまうのであるが、高田氏は、それが厳密性にこだわらなくなっても手続きがもっとゆるくなっても生活から乖離しないものになっても、それどもそんなもの大衆には全然届きませんよ、という。おそらく清水氏は文化人といわれる存在がまだなにがしか威信をもっていた最後の世代に属していて、知識人が大衆を指導するという図式を捨てられていない。そのことが本書の最後の「余白」でやや奇妙な結論にいたる理由となっているのだと思う。それで残りの「ハロッドの不安」と「余白」をまとめて次に論じる。
 

倫理学ノート (講談社学術文庫)

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ヴィーコ - 学問の起源へ (中公新書)

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客観的知識―進化論的アプローチ

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