清水幾太郎「倫理学ノート」(終)第11章「アトムについて」第19章「ハロッドの不安」「余白」

 
 今回が最終であるが、ここでもう一度本書の構成をふりかえってみる。
 第一章はムアの「倫理学原理」からはじまる。ムアはブルームズベリー・グループをあらわし、その一員であるケインズが主役の一人となる。ここでは端役であるが、ムアとD・H・ロレンスの対立の舞台となったのは、ラッセルの自宅であったので、ラッセルも登場している。ムアもラッセルも分析哲学の成立に深くかかわっている。ブルームズベリー・グループが対立したものは19世紀的なもの功利主義、その代表者としてのベンサムであった。
 本書の構成がわかりにくいのは、分析哲学が敵としたものは功利主義だけではなく、ヘーゲル哲学のような観念論哲学でもあったという点にある。本書で清水氏が擁護しているのが功利主義であるのに対して、分析哲学の相手がヘーゲル的大言壮語でもあった。
 第2章で、功利主義自然主義ということで自然主義的誤謬というタームが導入される。何が善であるか?と何をなすべきか?という次元の違う問題の混同。何が善であるかは証明できないし、定義できない。定義できないとは分析できないということである。善とは善である。
 第3章は分析哲学の話。哲学を科学と数学にしようとした分析哲学。関心が人間から言語に移る。ところで倫理学とは人間の問題ではなかったか? 事実判断のシステムとしての科学。しかし、理性は不活発である(ヒューム)。
 第4章で経済学に話が移る。経済学が科学になろうとすると、そこから排除されたもの(麈芥)が倫理学の分野の問題とされてしまう。ここでハロッドがでてくる。弱い科学としての経済学。
 第5章は強い科学としての経済学の話。第6章が幸福計算。第7章が効用の話。第8章が無差別曲線と経済学についての具体的な話が続く。
 第9章の非厳密性の話から、議論は抽象的な方にもどってくる。
 第10章の「塵芥については」は科学からはみでるもろもろのものについての考察である。
 第11章の「アトムについて」はラッセルの「論理アトミズム」という哲学についての議論で、それまでの議論とのつながりがわからなった。おそらくその次のヴットゲンシュタインへの導入であろうと考えて、スキップして考察しなかった。
 第12章から14章までがヴィトゲンシュタインについての論で、分析哲学から人間の学へ。「ざらざらした大地」の学への転換として、それがとらえられている。
 第15章から17章まではヴィーコについてで、反デカルトとしてのヴィーコであり、ここでのデカルトは科学の始祖としてのデカルトである。
 ここまでの筋道は、人文科学や社会科学があまりにも科学的(強い科学)になりすぎたことの批判であり、科学の論理である演繹という方法に人文科学Kや社会科学も傾きすぎていることを批判し、帰納復権を唱える方向へと議論が進んでいく。
 帰納の問題については第11章の「アトムについて」が一番まとまって論じられているので、少し戻るが、そこに立ち返ってみる。
 
 ラッセルの哲学である「論理的アトミズム」が論議の対象となる。論理学には二つの前提がある、と。一つは、すべての命題が真か偽であること。もう一つが、命題の真偽を発見する経験的方法があるということである。
 論理学の本を読み出すと大体こういうあたりでいつもつまづいてしまう。ある命題が時と場合によって真になったり偽になったりするというようなことはないだろうか? ある命題の真偽を発見する方法が文脈によってあったりなかったりするということはないだろうか? そういうことをすぐに考えてしまう人間なので、ラッセルの本などなんだかばかばかしくなってきてしまう。
 さて、もしもある命題の真偽が経験によってしか確認できないとすれば、それは論理学の内部では解決できない問題である。したがって論理学は論理学の内部で真偽を論じることのできる領域に関心を集中させる。それは二つしかない。トートロジーと矛盾である。
 ここで、アトム的命題というタームがでてくる。事実と対応する事実によって確認される命題である。これはポパーの述語での単称言明にあたるのだろうか?
 ダーウインは、人間に生物としての自覚を要求したと清水氏はいう。人間に関する研究はダーウイン以前とダーウィン以後にわかれると。前者は完全で絶対な確実性をもとめ、後者は人間の現在の力量の範囲にとどまろうとする。ラッセルとムアはダーウイン以前の論理学に属するのだという。
 ハロッドは考えた。記憶は私たちの思考のほとんどすべてにとって欠くことのできないものである。そして帰納の価値をみとめる確実な根拠の上に立たない限り、記憶のために何ひとつおこなうことはできない、と。ということで話が、最終章である第19章「ハロッドの不安」とつながってゆく。
 第19章はハロッドの1970年のオックスフォードでの連続講演を論じる。ハロッドは現代の社会研究が退歩しているという。それは研究が価値判断を避けようとするからである。ハロッドは帰納法をどのように正当化するかという問題をとりあげる。この試みは敗北の歴史である。
 プラグマティズムに親近感をもつ清水氏はハロッドに全面的に共感しながらも、ハロッドがプラグマティズムを否定的にみるのが残念であるとしている。清水氏によれば、プラグマティズムとは帰納法の論理的正当化を不必要かつ不可能とみる立場である。その立場では、帰納法を正当化するものは帰納法そのものである。それが諸科学の発展に決定的に寄与してきたという単純な事実をみとめるだけで、それを論理的に正当化することを必要とは感じない立場にたつ。帰納法は論理の平面ではなく、生命と行動の平面にいる、と。

 ここまでで本論は終わりで、あとに「余白」という後書きがつくが、そこにとんでもないことが書いてある。人間はごく最近にいたるまで飢餓の恐怖、餓死の恐怖の中で生きてきた。その中でそれから解放されていたごく少数のものが貴族であった。貴族たちは飽食によってダルにならないように、意志的に飢餓の代用となるもので自己を鍛錬しようとした。さて、高度大衆消費社会になって飢餓や餓死が現実の問題でなくなった。それならば大衆が全員貴族になったのか? そうではない。もしも大衆が貴族になることができないとすれば、貴族は大衆に服従を要求しなければならない、というのである。
 わたくしなどはこれを読んで、本書の内容が最後になってほとんどまるごと覆されてしまったような印象をうけるのだが、ベンサムを論じたところで、「普通の人間は、快苦の感情に導かれて行動する(事実の問題)」とし、「その普通の人間の快楽を極大化し、その苦痛を極小化するように行動するのは、エリートの責務である(価値の問題)」と述べているのだから、これは本音なのであろう。そうだとすると、これまで清水氏が縷々述べてきた「人間」とか「生命」というのが何を指すだろうか? それはすべての人のあたえられているものではないのだろうか? 清水氏はダーウイン以後の学を擁護するのではないのか? 清水氏はニーチェの系列に連なるひとなのだろうか?
 それでこんな文章を思い出す。「パーヴェル・アンドレーヴィッチは領内の百姓たちの飢ゑを無関心に見すごせない。かれが「知りもせず、理解もせず、一度だつておもつてみたこともなく、愛してもゐない」飢民の存在が、かれの心のうちに奇妙な不安と焦燥とをひきおこすのである。断じて愛ではない。では良心か・・。(中略)「烈しい不安のつのるたびに、その一切の秘密は飢民のうちにはなく、自分がかくあるべき人間でないといふ意識にあるのだと、窃かにおもひあたつたこともいくたびかしれなかつた。」(福田恆存チェーホフ」)」
 清水氏の場合はこれとは違っているのかもしれない。それなら、ノブレス・オブリージュとでもいうようなものなのだろうか? ここらへんが1960年代から70年代にかけて活躍した知識人である清水氏のアキレス腱なのかもしれない。指導するエリートと指導される大衆という構図であり、わかっている人がわかっていない人達を導くという構図である。しかしそのエリート達もできることは大衆の物質面での向上を図ることだけである。エリートは衣食が足りると礼節を知るようになる。しかし大衆は衣食が足りても一向に礼節を知るようにならない。さらに多くの物質をもとめるようになる。女子と小人はやしない難し、というような口調がどうしても清水氏の文章からは感じられてしまう。
 これは考えてみると官僚の論理でもある。官僚は産業を興すことで生活のレベルをあげることをめざす。多くの(反体制側の)知識人はそんな生ぬるいことではなく、体制の根源的な変換をめざす。しかし、その根っこは同じである。通産官僚であった天谷直弘氏の論文集は「ノブレス・オブリージ」というタイトルである。
 「日本思想という病」で高田里恵子氏がいっていたのも、知識人が民を導くなどという路線は日本では昔からうまくいっていないですよ、ということである。また「2011年新聞・テレビ消滅」で佐々木俊尚氏がいっていたのも、知識人が民を導くという路線の延長に新聞の社説などもあるのであり、「大衆には情報を取捨選択する能力はなく、だからこそどの情報が大事かを新聞は教えてあげているのだ」ということを平気でいう、価値観の多様化、すなわちマスの消失を理解していない人間が新聞社の幹部をしている時代錯誤の恐ろしさ、ということである。
 清水氏の時代にはマスがまだ存在していた。あるいはまだ存在していると思われていた。だから清水氏が憤っているのは、人文系の学問が科学的であることを追求すると称して、それゆえに価値の問題にはかかわらないとして、あるべき社会の姿、あるべき人間の姿の問題を自分の問題ではないとしてしまうことなのである。清水氏からすると人文の学にはもっと多くのことができるはずであるのに、自らの領域を狭く限定しすぎるために、できることをしていないのである。
 清水氏の生きた時代にはケインズ的な経済政策の有効性が事実として示されたように見えていたのであろう。そしてこのケインズ政策の有効が、科学としての経済学の成果なのであるか、あるべき社会を想定してそれをめざした結果なのかという点に関して、前者であるように見える点が不満なのであろう。そうであるなら、単なる物質的な満足のみがその目標となってしまうから。物質的満足とは何かもっと高次なものに到達するための手段であるにすぎないのに、それが目的となってしまっているのが許せない。
 そう思うのは、もちろん、清水氏の自由なのであるが、清水氏が許せないといっても、そんなことは大衆には届かないですよ、むしろ、そんなことをいったら大衆から嫌われますよ、というのが高田氏の論である。もちろん、清水氏は大衆なんか相手にしていない。知識人を相手に論じている。この「倫理学ノート」がはじめ連載されたのは岩波書店の雑誌「思想」である。そういうところで大衆を論じるのが清水氏なのであって、知識人を変えれば日本が変わるという可能性を捨てきれていない。
 「日本思想という病」で中島岳志氏が保守思想とは何かということをさかんに論じている。しかしそんなことを考えるのは知識人だけである。自民党に投票するひとが保守思想について考えているわけではない。考えているのは自分の暮らしのことである。中島氏にいわせれば、自民党は保守思想とは縁もゆかりもない、ある部分の人びとの利益を代弁する政党であるに過ぎないことになるが、それなら本当の保守思想がどこにあるのかといえば、それは中島氏の頭の中にある。中島氏もまた政治が物質的満足というレベルの議論に終始して、人間としての誇りというレベルに届かないのが気にいらない。
 「倫理学ノート」で清水氏が擁護しようとしたのが、「決意」の学としての人文科学、「見る前に跳ぶ」学問としての社会科学、「熱いもの」「たぎるもの」を内に秘めた学としての文系の学なのである。それに敵対するのが演繹という方法に依拠する科学、端的にいえば自然科学である。なぜなら自然科学とは生命のないところでも通用する永遠の原理をもとめるものだから。清水氏もいっているように帰納を正当化する試みは挫折の歴史である。なぜなら自然科学においてはその法則はつねに成りたつものでなければならず、100回は通用したが101回目は成りたつかどうかはわからないというようなものでは困るからである。だから自然科学においては帰納の原理はありえない。しかしながらなぜ自然科学があるのか? それは問題に答えるためである。「生命のない物的世界は問題なき、それゆえ価値なき世界であった」(ポパー「果てしなき探求」)とすれば、生命のない物的世界では自然科学は必要にならない。
 だが、ポパーはいう。『「ほとんどの科学者や科学的訓練を積んだ哲学者が価値について書きたがらないのは、価値についての議論のきわめて多くがまったく中味のない駄弁でしかないからである」とケーラーがいうのは本当で、ほとんど無限といっていいくらいの文献がある倫理学説の分野にはほとんど見るべきものがない』と。
 ポパー反証可能性の理論は帰納の論理を否定するものでありながら、帰納を救うものでもあるのだと思う。論理実証主義は事実という「塵芥」の世界から佇立した別世界を作るものだが、反証理論は事実という「ザラザラした大地」に根をはろうとするものだと思う。科学は事実からの反証という関門をつねにくぐることを要請されることによって、人間の世界から遊離しない。
 実はこの「倫理学ノート」を一貫して医療の問題にひきつけて読んできた。当たり前であるが、生命が存在しなかれば、人間がいなければ、医療は存在しない。しかし医療の基礎となる医学は人間が存在しなくてもなりたつ一般理論を研究する。生命が存在しなくも医療が存在するのかというのは議論がわかれるところであろうが、生命も基本的には物理化学の用語で説明できるというのは研究者の共通の認識であろうから、相変わらずのデカルトの世界である。それなら意識は?ということになれば、いまだに「機械の中の幽霊」なのではないだろうか? だからその世界は冷たい。「熱いもの」「たぎるもの」がない。だが、そこに熱いものを持ちこもうとすると、たちまち「中味のない駄弁」となってしまう。
 「倫理学ノート」もまた清水氏の空虚な駄弁であるのかもしれないが、しかしそこに清水氏という一人の人間がいることを感じる。その矛盾や撞着もふくめて、一人の人間が考えることをしているのを見ることができる。人文の学にできることは、少なくとも思考の過程を提示することである。そしてわれわれはそれを通じていろいろな考えを知ることができる。一つの正しいことがあるのではなく、いろいろな見方があるだけ、というのは自然科学の見方とは根本的に対立するものである。
 清水氏が強い科学に反対し、弱い科学を擁護するのは氏の弱気であって、人文の学や社会科学(清水氏にいわせれば社会研究)は科学である必要はない、といいきったほうがすっきりするように思えるが(科学としての倫理学などというものがあるとは到底おもえない)、氏がとりあげるのが主として経済学であるので問題が錯綜する。今、猪木武徳氏の「戦後世界経済史」を読み始めているところなのだが、経済学にはやはり学問になりうる部分もあるのだろうかなどと馬鹿なことを考えている。しかし竹内靖雄氏がいうように、経済学とは事後の学であり、おきてしまったことを説明することはできるが、これからおきることは(あるいは今おきつつあることは)予見できないというのは本当のように思われるので、そういうものが学問であるのかという気持ちもまたある。「戦後世界経済史」もまさにタイトルのように、戦後世界におきたことの解説である。
 (なお、「倫理学ノート」の主人公の一人がベンサムであるが、竹内靖雄氏の「経済思想の巨人たち」にベンサムについてのコンパクトな紹介があり、併せて読むとなかなか興味深いものがあった。)
 

倫理学ノート (講談社学術文庫)

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ノブレス・オブリージ―天谷直弘主要論文集

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日本思想という病(SYNODOS READINGS)

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2011年新聞・テレビ消滅 (文春新書)

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果てしなき探求〈上〉―知的自伝 (岩波現代文庫)

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戦後世界経済史―自由と平等の視点から (中公新書)

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経済思想の巨人たち (新潮選書)

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