清水幾太郎「倫理学ノート」 第2章「善の直覚」

   岩波書店 1972年
   
 現在においては、倫理という言葉はもはや死語なのかもしれないし、倫理学という学問が今後も存在しうるのかどうかも自明ではないだろう。だからムアの「倫理学原理」を今読むひとがいるのかどうかはよくわからない。アマゾンで調べてみると、翻訳もあるし、原書もペーパーバックスで入手可能のようである。しかし清水氏自身「読んで感じる恐るべき退屈」といっているし、氏が紹介している内容をみてもとても読もうという気はおきない。
 ムアによれば、倫理学とは善とは何か、そして悪とは何かを論ずる学である。それに対するムアの回答は、「『善とは何か』と聞かれるなら、善は善である、というのが私の解答で、これで問題は終わりである。また、『善はいかに定義されるか』と聞かれるなら、善は定義することが出来ない、というのが私の解答で、これで私の言うべきことは終わりである。右の解答は失望を招くであろうが、極めて重要な意味を持つものである」ということなのだそうである。
 馬鹿にするなという感じであるが、もう我慢して少しついていくことにする。ムアによれば、定義とは《或る全体を組み立てている諸要素を明らかにすること》なのである。だからムアがいっていることは、善というのは諸要素に分解できるようなものではない、ということなのである。清水氏もいうようにムアのいう定義とは分析のことである。善は分析できない、善は善である。にもかかわらず、多くの哲学者が「善とは快楽のことである」といったように、他の属性によって善を定義してきた。それがすべての誤りの根源である。そのような誤りをムアは『自然主義的誤謬』と命名する。
 19世紀最後の25年、イギリスの哲学界は、ドイツではすでに勢いをなくしていたヘーゲルの学説に席捲され、曖昧で荘重で厳粛で深刻な言葉が氾濫していたのだそうである。そのため、20世紀初頭のイギリスのインテリにとっては、新ヘーゲル主義からいかに脱却するかを共通の課題としていたのであり、ムアの説もそれに応えるものであったのだという。(前章ではベンサム主義からの脱却が課題であるとされていた。ここでは、ベンサム主義の対極であるように思われるヘーゲル哲学が問題とされる。わたくしはイギリス人というのはドイツ観念論のようなものに一番免疫があるのではないか思っているが、そうでもないのだろうか? 偏見では、ドイツ観念論と西欧クラシック音楽とは表裏の関係であって、大作曲家が生まれる地域には、観念論もまた住み着くのではないかと思っている。フランスに大作曲家がでず、イギリスもまたそうであるのは、何事かを意味するのではないだろうか? エルガーとディーリアスとヴォーン・ウイリアムズでは一寸つらい。)
 ムアによれば、善は非自然的なものであって、快楽は自然的属性である。清水氏は、ムアの第一の敵は功利主義なのであったという。快楽というような醜い功利主義の属性から、美しい「善」を救いだそうとしたのだという。ムアはヘーゲル主義の曖昧で荘重な言葉を嫌ったけれども、決して形而上学を嫌ったのではない、と。曖昧模糊とした形而上学ではなく、透明で清澄な形而上学をめざしたのだという。そもそもヘーゲル主義は、科学や技術の発達の流れの中で、伝統的なキリスト教的な価値をいかに守るかという動機を内に秘めていた。科学や技術は功利主義と親和性がある。功利主義を嫌うという点においてはヘーゲル主義と一致したのだという。
 「倫理学原理」ではほとんどが「善」の問題をあつかい、「悪」についてはほとんど言及されていない、という。しかし、「善」が「美」に通じるのであれば、「悪」は「醜」に通じるであろうと清水氏はする。功利主義は醜い。
 ムアが示している奇妙な定義として馬の定義が紹介されている。「馬は四本の脚、一つの頭、一つの心臓、一つの肝臓などを持ち、それらがすべて或る明確な関係で相互に配列されている・・」。清水氏はいう、「部分というものを気軽に考えることが出来るのは、生命のない物体に限られる。」「馬に限らず、ひょっとすると、彼は、すべての生命あるものに対して関心が薄いのかも知れない。」「彼の直覚においては、生命ある自然が醜いものであり、悪であるように思われる。」 ムアのめざしたのは「大きな騒がしい世界から切り取られた小さな静かな世界」なのではないかという。
 
 このように見てくると、ムアというひとはロレンスとは正反対の人だなあとつくづくと思う。D・ロッジが「何と言っても動物を書かせたら、うまいのはロレンスだ」と言っているのだそうである(丸谷才一「文学全集を立ちあげる」)。もしも、善というのが諸要素に分解できるようなものではないのならば、馬もまた諸要素に分解はできない。そもそも善などというのはあるかないかも分からないものであるが、馬は確実に存在する。もちろんムアは確実に存在するものから、実在とは別にあるものを定義することを拒否するわけであるが。
 わたくしのイメージするブルームズベリー・グループは、リットン・ストレイチーとフォースターなのだが、フォースターは明らかに地の霊のようなものに感受性を持つひとでロレンスと通じる部分を持つひとである。ストレイチーは「合理主義とシニシズム」かもしれないが、それはヴィクトリア朝的なものにむかった時であって(「ヴィクトリア朝偉人伝」)、ヒュームやギボンにはとても暖かい(「てのひらの肖像画」)。
 問題は合理主義をどうみるかなのであろう。合理主義を理性ですべてを理解し解決できる立場とみるならば、ストレイチーはそういう立場ではない。彼が批判するヴィクトリア朝とは科学と技術によってすべてのことが解決できるという派と、宗教に立てこもる派とがあり、そのどちらも理性の立場からは揶揄の対象としかならない。理性の立場からみればアーノルド博士(「ヴィクトリア朝偉人伝」)のようなひとは理解できない存在である。一方、科学と技術とでなんでも対処できるという立場も倒立したキリスト教信仰なのであり、神が造りたもうた叡智の人である人間にできないことはないはずなのである。神を信じるか、神の似姿である人間を信じるかというのは一見まったく異なる立場であるように見えるが、全能の存在があると信じるという点においては同じなのである。
 このことの現代での戯画が、キリスト教原理主義ドーキンス派の対立であろうか。原理主義派は進化論ではこういうことは説明できないではないかという。ドーキンス派はそんなことはない、これこれであると反論する。科学には何でも説明できることが要求され、何か説明できないことがあると、だから聖書に書いてあることが正しいなどというのは無茶としかいいようがない議論であるが、どちらの派も科学は万能でなければいけないと思っているようである。ドーキンスのごちごちの科学主義というのは裏返しのキリスト教信仰なのではないだろうか? 原理主義への常軌を逸しているように見える論難は近親憎悪のようなものではないだろうか?
 「倫理学ノート」の主題が《弱い科学》の擁護である。その対である《強い科学》とはおそらく物理学のようなものを指しているのだろうが、清水氏のいいたいことは社会科学にも物理学と同じ《強い科学》であることを求めると、人間の学である社会科学は痩せてしまうということのようである。わたくしとしては生命の学である生物学もまた《強い科学》でありうるかということの方に興味があり、この清水氏の本もそういう偏見のもとでこれから読んでいくことになると思う。
 ムアは倫理学が《弱い科学》となることさえ拒否したわけである。善は善である、というのは善は科学の対象とはなりえないという宣言である。自然主義的誤謬とは科学に色目を使うということ、あるいは科学に劣等感を持つということである。功利主義とは人間の営みを物質の言葉で説明しようとする不遜のあるいは不逞の試みなのである。
 功利主義を擁護しようとする清水氏は、次章の「言語分析」から功利主義の具体的な検討に入るので、章を改める。
 

倫理学ノート (講談社学術文庫)

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文学全集を立ちあげる

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ヴィクトリア朝偉人伝

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てのひらの肖像画

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