清水幾太郎「倫理学ノート」 第3章「言語分析」
岩波書店 1972年
ここでいきなりJ・S・ミルが登場する。ムアが直接、敵として規定したのがミルだからである。ところでわたくしは経済学史にまったく疎いので、以下ここに経済学者が登場してくるたびにその生没年を記していくことにする。そうしないと時代背景がまったく理解できないからである。それでJ・S・ミルは【1806−1873】である。
ここで煩瑣な言葉の議論がでてくる。 disirable とか worthy to be desired とか、disiable と visible や audible の間の関係とか。清水氏はいう。こういう言語の問題になると英語を母語としているひと以外には本当のところは理解できないのではないか、と。哲学はローカルなものとなり、翻訳が不可能なものとなってしまう、と。こういう煩瑣な議論をムアが持ち出すのは、ヘーゲル的な壮大で誇大妄想的?な放恣な言語使用への嫌悪からではないかという。しかし、形而上学はムアらの議論によって力を失ったのではなく、科学・技術・産業の発展によって力を殺がれたのではないかとする。
こういう言語分析を中心とする哲学の流派を分析哲学というらしい。
清水氏はミルには人間とその行為への関心があったという。それに対してムアは言語とその定義へと関心をうつす。通常の人間が倫理学に関心をもつとすれば人間への関心からであろう。しかし倫理学が言語を第一とするならば、それはわれわれの関心には応えない学となってしまう。
ムアの「倫理学原理」は1903年に出版されているが、その翌年、ヴェーバーの論文「職業としての学問」が発表されている。この二人の問題意識には共通するものがあったのではないか。ムアの自然主義的誤謬とヴェーバーの価値自由と同じものともいえるのではないか。ヴェーバーは事実判断をする科学からは価値判断を引き出すことはできないとしたわけだが、ムアもまた価値を事実から導くことを拒否したのだから。
これをさらにたどるとカントにいきつくであろう。カントは道徳判断と事実判断を峻別した。清水氏はされにそれをヒュームまで遡ることを主張する。ヒュームは is あるいは is not がいつのまにか、ought あるいは ought not に移行してしまう議論を批判している。しかしヒュームはそれほどその点について明快ではない。徳と快楽を、悪を不快と結びつけるのだから。ヒュームは理性は不活発なものであるとした。道徳は欲求(感情)から生じるのであり、理性から生じるのではないと。is と ought の区別はそこから生じると。is は理性である。ought は欲求から生じる。
人間に関心をもつ限り、自然主義的誤謬は避けられないのだと清水氏はいう。
これを読んですぐに想起するのがポパーの以下のような主張である。
言葉とその意味についての問題を本気になってとりあげようなどと力んではならぬ。本気になってとりあげなければならないのは、事実の問題であり、事実についてのさまざまな主張(もろもろの理論および仮説)、それらが解決する問題およびそれらが提起する問題である。(「果てしなき探求」)
ポパーは「問題状況が要求する以上に正確を期そうなどとけっして試みるべきでない。(「同上」)」という。わたくしは哲学音痴(あるいは形而上学音痴)なので、ほとんどの哲学の本が理解できない。かろうじて少しは理解できるように思える数少ない哲学者の一人がポパーなのだけれど、はじめて読んだとき、ポパーが自分の主張を「わたくしが現代のほとんどの哲学者と意見を異にしている点」であると述べているのにびっくりした。ほとんどの哲学者がそうであるのなら、大部分の哲学は読んでも仕方がないのだと思った。ムアの主張にはまぎれもなくプラトンのイデア論の影が射していると思うのだが、西洋哲学史がプラトン哲学に附けられた長い脚注であるのだとすれば、わたくしは西洋の哲学のほとんどに縁なき衆生なのだと思う。
ここで清水氏がいっていることは、ヨハネ黙示録の「われ汝の行爲を知る、なんぢは冷かにもあらず熱きにもあらず、我はむしろ汝が冷かならんか、熱からんかを願ふ。 かく熱きにもあらず、冷かにもあらず、ただ微温きが故に、我なんぢを我が口より吐き出さん」なのだと思う。理性が不活発というのも、理性は熱くならないからである。熱くなるのは生命なのである。ヴェーバーがいっていることは熱くなると学問はできないぞということなのであろうか? 強い科学とは冷たい熱くならない科学なのであり、弱い科学とは熱くなることを許す科学なのであろうか?
ポパーのいうように「生命のない物的世界は問題のない価値なき世界」であり、生命の誕生とともに問題が生まれたであれば、ヴェーバーのいうような価値自由というのは、そもそも何のためにその問題を論じているのかという原点がどこかにいってしまうという危険がでてくる。だからこそ清水氏は自然主義的誤謬はさけられない(あるいは避けるべきではない)とする。
その問題が次章の「効用の個人的比較」以下で経済学を例にとって論じられていく。
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