清水幾太郎「倫理学ノート」 第4章「効用の個人間比較」

   岩波書店 1972年
 
 次に登場する経済学者がL・ロビンズ【1898〜1984】である。ロビンズは経済学から価値判断を排除することをめざした。経済学が科学であるためには功利主義と手をきらねばならないとした。それならば経済学が自分の領域ではないとして排除した価値の問題をあつかうのは何か、ロビンズはそれを倫理学であるとした。しかしそのころムアは倫理学の純粋をまもるために、倫理学から価値を追いだそうとしたのである。その両者から閉め出されたもの、それは人間の野性的なエネルギーにつながる何かであり、それを清水氏は生命と呼ぶ。
 ここで限界効用逓減の法則というのがでてくる。これはまずベンサム【1748〜1832】によって道徳と政治の原理として提示され、限界革命を通して経済学の基本にすえられ、ピグー【1877〜1959】によって『厚生経済学』で倫理学と経済学を統一する原理の一つに高められたのだという。これをロビンズが批判した。
 経済学の教科書を読んでいて、いつもこういうあたりでいやになってしまうのだが(実際、以前本書を読んだときはこのあたりで挫折してしまった)、本当かなあというのと、どうでもいいのではという気分があいまって生じてくるのをいかんともしがたい。しかし、医療とも関係がないともいえない話らしく、これは生理学あるいは心理学でのヴェーバー−フェヒナーの法則の一つのケースなのだそうである。
 E=alogR  a:常数 E:感覚量 R:刺激強度
 つまり、刺激を10倍しても、2倍しか強く感じない。これが何で経済学と関係するのかというと、1万円しか持っていないひとにとっては、さらに1万円の追加があると、それは大きな意味を持つが、1億円持つひとに、一万円を追加しても何の感激もないという話らしい。ということは一万円があるならば、それは貧しい人に使うべきで、金持ちに使っても意味がないというこになる。
 限界効用逓減の法則というのは、それ自体は観察可能なわれわれの生理学的事実をいっているに過ぎないが、それが政策を導くところが味噌らしい。すなわち平等主義がそこからもたらされる。
 そういうピグーの主張に、ロビンズは「異なる個人の経験を科学的に比較することが可能か?」という方向から批判したらしい。「AよりもBが幸福である」という命題は科学としてはナンセンスである、と。この効用の個人間比較という経済学の問題が自然主義的誤謬という倫理学の問題とどこかで結びつくのだと清水氏はいう。
 ハロッド【1900〜1987】は、科学という言葉に弱い規定をあたえなければ、経済学を科学と呼ぶことはできないとした。弱い規定の科学であれば、効用の個人間比較を非科学的とはいえない(定量的でない、定性的な科学?)。
 ロビンズはすべてのひとが満足を享受する能力を平等にもっているという見方を肯定できず、限界効用逓減の法則があまりにも無批判に不当に拡張されて用いられていることに疑問を感じた。平等の仮定は経済学の一部なのか? それとも外部からきたもので、科学的というよりも倫理的なものなのか?
 人間は平等であるかのように扱うべきであると主張する人々と、扱うべきでないと主張する人々の間に本当の意見の相違があるとロビンズはいう。
 
 経済学で仮定される、ひたすらに自己の経済的利益を合理的に追求する人間という像があまりに人間の本態とかけ離れているという批判あるいは揶揄はつねに存在している。たいていの人間が経済学の教科書を読んでいて馬鹿らしくなってしまうのはそのためなのではないだろうか? この点にかんして、昔、小室直樹氏の本を読んでいた時、経済学はそのような単純な仮定から人間の世界でのできごとをどの程度までを明らかにできるかを問うものであり、その仮定と実際のずれから人間は実際にはどのようなものであるかが明らかになる。そのような単純な仮定から出発するからこそ経済学が科学になるのである。ネズミの心理学などと揶揄されていても心理学が科学になっているのは心理学が単純な仮定から出発しているからだとし、人文科学の中で科学になっているのは経済学と心理学だけであるとしていた。
 ドラッカーの処女作である「「経済人」の終わり」で、氏は人間を経済的動物とする概念はブルジョア資本主義社会とマルクス社会主義社会双方の基盤となっていることをいう。「経済的満足だけが社会的に重要であり、経済的地位、経済的報酬、経済的権利は、すべて人間が働く目的である。これらのために人間は戦争をし、死んでもよいと思う。そのほかのことはすべて偽善であり、衒いであり、虚構のナンセンスである」というのがその人間観なのだそうである。
 この「経済人」の概念はアダム・スミスとその学派によって初めてしめされた概念上に想定された人間像であるが、教科書の中では有効であっても、現実に人間の本質を定義するものとしてはあまりに素朴で戯画的である。
 しかし「経済人」の概念が受けいれられることが、科学としての経済学の成立のためには不可欠であった。経済学は経済の領域が人間の行動と制度の中でそれ自体が独立した領域であることが認められることにより成立する。科学としての経済学は「経済人」の概念に依存せざるをえない、とドラッカーはいう。しかし、それが成りたつためには、経済の成長が自由と平等の実現を導くという約束が必要だった。
 キリスト教とともに、自由と平等がヨーロッパを構成する二つの基本概念である。当初それは来世ではじめて実現されるものとされた。そのころの人間は「宗教人」である。次に知識がそれを実現させると考えられるようになった。自由で平等な知性による「知性人」の時代である。さらに下るとそれは政治の役割となり(「政治人」)、さらに「経済人」へと移行していった。ドラッカーがこの本を書いていたのはナチス台頭のころなのだが、その時代の最大の問題は、すでに「経済人」に疑問がもたれるようになっていたのにそれに変わる新しい人間概念が何一つ用意されていないことなのだとしている。ナチスは「経済人」に代わる何かを提示するようにみえてことによって人心をつかんだのだけれども、それが敗北することにより、われわれはいまだに「経済人」にかわる人間概念を持ちえていないままできているのかもしれない。
 「経済人」が単なる経済学における仮定であるのか、それとも現代における根本的な人間理解であるのかが清水氏が問う問題なのであるが、ドラッカーの論では逆で、現代の人間観の基本が「経済人」なのであるからこそ、経済学が他の学を圧して重要な学とされているのだという。経済的に豊かになることが、われわれに自由と平等をもたらすという信念が前提としてあるから、経済学が真剣な議論の対象になるのだという。
 科学は人間のためにあるのか、科学は科学自体を目的となるかである。おそらく科学技術の分野のひとは、技術の進歩がわれわれを豊かにすることを自明の前提としているのであろう。だから自分は科学あるいは技術それ自体を目的にして研究していればいいわけで、もしも自分がかかわった技術が、われわれを不幸な方に導くことがあるとすれば、それは自分の罪ではなく、それを有意義に利用できない誰かが悪いことになる。また経済の発展がそのままひとを幸せにするのであれば、経済学は学問としての営為に専念していればいいことになる。
 「経済人」の代わりに「生命人」という変な言葉を導入してみる。ひたすらに自己の生命が少しでも長く続くことをもっぱら追求する人間という像である。現実の人間がそのようなものであるかは問わない。しかし医療の世界で仮定されているのはそのような人間像である。そしてそこではあらゆる生命が平等に尊いという仮定もおかれている。これは、「異なる個人の経験を科学的に比較することが可能か?」あるいは「AよりもBが幸福であるということが言えるか」という問題と平行である。もっといえば、二十歳で終る生涯と百歳まで生きる人生とを比較できるかである。酒も煙草も女も知らず百まで生きた馬鹿がいると揶揄されても、百まで生きることを是とするのが医療なのだろうか? 質の問題を科学が扱えるか、ということである。もしも、科学は量しか扱えないのであれば、QOL(Quality of Life)などというのは悪い冗談でしかないことになる。
 G・ベイトソンは「前提がまちがっていることもあり得るのだという観念を一切欠いた人間は、ノーハウしか学ぶことができない」という(「精神と自然」)。ベイトソンはさらにいう。「量ではない、常にカタチ、形態、関係なのである。」 量の対語は必ずしも質ではないのかもしれない。量対関係。ベイトソンは生ある世界と、生なき世界を峻別する。生なき世界はビリヤード球や銀河系の世界であり、力と衝撃こそが出来事の原因となる量の世界であり、一方、生ある世界とは区切りが引かれ、差異が一つの原因となりうるような関係の世界である。経済学での経済人はなんだかビリアードの球のようでもある。
 一部のひとたちにとっては功利主義の人間像はまるでビリアード球のようにみえるのである。それで次は功利主義の首魁であるベンサムが直接論じられることになる。
 

倫理学ノート (講談社学術文庫)

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ドラッカー名著集9 「経済人」の終わり

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精神と自然―生きた世界の認識論

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