清水幾太郎「倫理学ノート」 第一章「ケインズ、ロレンス、ムア」

   岩波書店 1972年
   
 おそらくもう読むひともほとんどいないであろうこの本をいま読んでみる気になったのは、上村忠男氏の「ヴィーコ」(中公新書 2009年)のはじめの方に、「清水幾太郎は、倫理学の危機、というよりは経済学に代表される現代の社会科学が倫理の問題にかんして行きあたっているアポリアについて反省をめぐらせた『倫理学ノート』のなかでヴィーコとの決定的な出会いを経験しているが、・・・」という記述を見つけたからである。いままでこのブログでは『倫理学ノート』については数回言及しているが、すべて巻頭の「1.ケインズ、ロレンス、ムア」の章での、ロレンスとケインズをふくむブルームズベリー・グループとの対立について論じた部分をとりあげている。この『倫理学ノート』は全部で19の章と「余白」という後書きからなるが、第6章の「幸福計算」あたりで投げ出してしまって、その先を読んでいなかった。したがって、ヴィーコを論じた第15章以下は読んでいなかった。今回、第15章「G・ヴィーコ」から読み始め、面白かったので、ふたたび巻頭から読んでみた。ヴィーコについてはなんとなく少しわかった気になったので、上村氏の本を今後読み続けるかどうかはわからないが(なんとなく文体になじめないところもあるし)、ヴィーコデカルトという補助線を得ることで、ようやくこの『倫理学ノート』という本のもつ視座が少しは理解できたように思った。
 巻頭の「1.ケインズ、ロレンス、ムア」にひかれたのは、わたくしが福田恆存氏で思想に入門し、最終的には、吉だ健一氏におちついたという履歴をもつ人間だからなのだろうと思う。いうまでもなくロレンスは福田氏の神輿であるし、吉田氏は若き日にケンブリッジに留学してブルームズベリー・グループ周辺の人々の薫陶をうけ、それを終生自分の思考の根本においたひとである。
 わたくしはロレンスとブルームズベリー・グループは方向が違っても共通の敵を相手にしていたと思っていたので、本書でロレンスを反ヴクトリア朝文化の陣営とし、ブルームズベリー・グループの方はヴィクトリア朝文化の中の陣営としていたのが意外であった。清水氏は、ブルームズベリー・グループは「高い塔に住んでいた」とし、「この人々の間には、まだヴィクトリア時代がそのまま生きていた」という。かれらは「合理主義とシニシズム」の中にいたという。それに対するロレンスは「血とセックスとのミスティシズム」である。清水氏は、また、ケインズたちの敵を探すとすれば、「それは、やはり、満足、自信、傲慢、偽善の時代としてのヴィクトリア時代のうちに求めるほかはないであろう」ともいう。20世紀最初の10年間の精神的冒険は「19世紀の精神の拒否」という点で一致していた」ともいう。
 わたくしが今まで一番大きな影響を受けた本の一つが吉田氏の「ヨオロツバの世紀末」であると思うけれど、それはまさに「19世紀の精神の拒否」を述べた本であった。ところで合理主義というのはまさに「19世紀の精神」の中核にあるものであるかもしれないので、もしもブルームズベリー・グループが合理主義の側にいるならば、それは19世紀と連続していることになる。
 この第一章は、実はムアの『倫理学原理』という本について論じている。この本は1902年に出版され、ブルームズベリー・グループに決定的な影響をあたえたらしい。なぜ、この本がそれほどの力をもったのか? それはベンサム主義、功利主義からの解放を主張したものだからなのだと。このベンサム主義、功利主義こそが「19世紀の精神」という言葉が意味するものなのだと思う。とすれば、ブルームズベリー・グループもまた「19世紀の精神の拒否」の先頭にいたことになる。
 清水氏の『倫理学ノート』は、功利主義というのはそんなに悪いものなのだろうか? ベンサム主義はそんなに排除されなければいけないものなのだろうか? という問いを根底においている。この本の出版は1972年である。なんでこの本を読んでみようと思ったのかはもうよく覚えていない。おそらく同じ清水氏の「現代思想 上・下」(岩波全書 1966年)を読んで氏に関心をもったので、この本も読んでみる気になったのかも知れない。
 わたくしは福田恆存氏からスタートした人間なので、福田氏の進歩的文化人への悪口をたくさん読んでいた(必ずしも福田氏の政治的立場に同調したというわけではないが、進歩的文化人というのはとにかくいやな奴ばかりだと思っていた)。進歩的文化人の代表選手が丸山眞男清水幾太郎であった。60年安保のときには中学1年だから、反安保闘争の花形としての丸山&清水についてはリアルタイムでの記憶はないが、そういう進歩的文化人への悪口雑言を1968年前後に、もう一人の反安保闘争のスターである吉本隆明氏の本で読んでいて、進歩的文化人とは違うまともな人として福田恆存氏の名前が紹介されていたのを見たのが福田氏の本を読むきっかけになったことは、どこかに書いたと思う。
 時間的な経緯をはっきり覚えていないが、60年反安保の闘争での進歩的文化人であった清水氏はそのころ急速な右旋回を敢行しつつあり、それへの興味が、あるいはこの「倫理学ノート」を手にとらせたのかもしれない。それで「幸福計算」などという辺りまで読んできて、やはり進歩的文化人の思考は底が浅いなあなどと思ってやめてしまったように思う。
 進歩的文化人というのは、福田氏によれば「人間不在」なのであって、幸福が数字で計算できるという話のどこに人間がいるかと思ったのである。わたくしが「人間不在」の典型であるとその頃思っていたのは民青=共産党側なのだけれども、対する全共闘側は今度は「人間」一本槍あるいは「自分」一本槍で、そのどこにも政治はないようにも思っていた。
 清水氏によれば、ムアの『倫理学原理』にはムアの「宗教」とムアの「道徳」双方があるのだが、「宗教」というのは「自己自身と究極的なもの対する自分の態度」のことであり、「道徳」とは「外部世界と中間にあるものに対する自分の態度」のことである。ケインズたちはムアの「宗教」をうけいれ、「道徳」を無視したのだ、と清水氏はいう。「道徳を無視することは、外部世界との関係を無視することである。自分との関係が無視されれば、外部世界はどこかに消えてしまう。残るものは、自分の精神の状態だけである」ことになる、と。この表現を借りれば、全共闘運動は「宗教」であって、外部世界が消えてしまっていた運動であったということになるのではないかと思う。
 ムアによれば、「最も価値あるものは、人間の交際の快楽と美しいものの享受」である。さて、外部の出来事から完全に独立な経験というものがありうるだろうか? 後年、ケインズは反省する。理性のみをみとめ合理性を信頼するというのは浅薄であった、と。人間にはそれを動かすもっと深い盲目的なパッションがあることを忘れていた、と。ロレンスのほうに近づいたわけである。決して、ベンサム主義のほうに帰ったわけではない。
 この本がわかりにくいのは、第一章からみると、合理主義からエロス?のほうへという話にいくことを予想させるにもかかわらず、エロスとは違う方向の反=合理あるいは、非=合理のほうへと議論がむかっていくからである。
 後のほうになって、ヴィーコの敵としてのデカルトがでてきて、ようやく方向が見えてくる。数学と物理学による科学が敵なのである。本書のキー・ワードの一つが「弱い科学」である。清水氏は『倫理学ノート』では、一貫して「『科学』というものに弱い規定を与えたいと願った」といっている。その反対の「強い科学」が数学と物理学にもとづく科学である。「強い科学」で人間をみると、そこから人間は消えてしまう、だから人間をあつかう科学は「弱い科学」であるしかない。それなのに「強い科学」であろうとするのが現代の趨勢である。それに異議を唱えたい、というのが本書執筆の動機であるように見える。なにしろ現在では倫理学から人間が消えているというのである。それをもたらしたのがムアの「倫理学原理」なのであるという。一般的かつ抽象的な「善」があるというのがムアの主張らしい。
 合理の典型が「強い科学」であるとすれば、「弱い科学」は非合理ということになるのだろうか? 清水氏は決して「血とセックスとのミスティシズム」の方向にいくひとではない。合理の側に立ちながら。それでも合理の行き過ぎには反対する、という非常に微妙な立場である。その歯切れの悪さ、逡巡が本書の魅力ともなっている。この本には常に自問自答をくりかえす清水氏がいる。清水氏の精神が運動している。本というのはそもそもそういうものなのではないかと思う。著者がすでにわかっていることを書くのではなく、何かを理解していく精神の動きを示す、それが本なのではないかと思う。最近はそういう本がとても少ない。久しぶりに本を読んだという手応えがあった。この本には清水氏の体重がかかっている。
 吉田健一氏の「交友録」の中の「F・L・ルカス」の章に、留学中の吉田氏が「自分には良心といふものがなく、自分の基準は見事であるか醜いかといふやうなことある」といったところ、ルカスが「それがギリシャ人が標榜したことなのだ」と答えたというところがある。このルカスもブルームズベリー・グループの周辺にいたひとではないかと思う。道徳がなくても他者との関係を取りむすぶことは可能であるということなのだろうか?
 これからしばらく、清水氏の足取りの乱れにしたがって、いろいろなことを考えていきたいと思っている。
 

倫理学ノート (講談社学術文庫)

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ヴィーコ - 学問の起源へ (中公新書)

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