菊澤研宗「組織の不条理 日本軍の失敗に学ぶ」

   中公文庫 2017年3月

 山本七平氏の一連の陸軍ものを読んだことの影響だと思うが、日本の組織の問題点とか弱点は日本の軍隊組織(特に陸軍)の中にその典型例を見出すことができるという思いがあって、こういうタイトルの本を見るとつい買ってしまう。
 この文庫本はつい最近の発売であるが、2000年に出版された「組織の不条理 なぜ企業は日本陸軍の轍を踏みつづけるのか」が原本で、それが2009年に「組織は合理的に失敗する 日本陸軍に学ぶ不条理のメカニズム」と改題されて日経ビジネス文庫に収められ、それがさらに上記のように改題されて今回、中公文庫に収められるということになったらしい。
2000年の刊行の時点では「失敗の本質」を意識したものであったらしい。「中公文庫版のためのまえがき」によれば、「失敗の本質」は「完全合理性の立場に立っている」(米軍は合理的だったが、日本軍は非合理であった)のが問題であり、1990年代以降の企業理論や組織論の研究では、「人間はもともと不完全である」とする「限定合理性の立場からの研究」の方向が潮流となってきていたので、その立場からあらためて太平洋戦争での日本軍の戦いを分析してみたいと思って書いたと説明されている。
限定合理性とは「人間は非合理なので失敗するのではなく、むしろ合理的に行動して失敗する」というようなことらしく、そのきわめて不条理な現象を分析してみたと思ったという。本書のタイトルにある不条理というのもそういうふくみで用いられているようである。
 不条理とは「人間(あるいは人間組織)が合理的に失敗すること」であるとされる。ただ2000年の本においては「不条理」の概念があいまいであったとして、「全体合理性と個別合理性が一致しないとき」「正当性(倫理性)と効率性が一致しないとき」「長期的帰結と短期的帰結が一致しないとき」の三種類の「不条理」があるとこの文庫本の「まえがき」には書かれている。なぜそのような不条理が発生するのかといえば「人間が完全に合理的ではないから」である、と。
 それで、本文をちらちらと見ていたら、どうもなんだかポパーだなあというところが散見される。それで「中公文庫のためのあとがき」(30ページにもおよぶ力作である)を見てみたら、次にようなところがあった。「当時、私は、K・ポパーの科学哲学つまり彼の知識の成長理論にもとづいて議論を展開していた。今でも、基本的にその考えは変わらない。しかし、ここ数年の私の考えは、さらに進展したものとなっている。特に最近では、カント哲学、ドラッカー人間主義経営学、そして小林秀雄の大和心の考えを基礎として、不条理をめぐる哲学的な解決法について研究している。」 えっ? K・ポパー小林秀雄はどうすれば結びつくの? ポパー・カント・ドラッカー小林秀雄?? 
 それで本書を少し見てみると、確かにポパーの用語が多く用いられてはいるのだが、にもかかわらず、ポパーの論とは根本的に異なっているのではないかと思った。著者は「人間が完全に合理的ではない」という主張こそがポパーの主張であったとしているように思える。それは、ポパーの人間の知性の限界論、われわれは究極の真理に至ることは決してできない(あるいは真理に至ったとしても、決してそうとは認識できない)に依拠しているのかと思うが、それにもかかわらず、過去の事例(たとえば日本軍の失敗)については理論的な説明が可能であるとしているように見える。そこのところがポパーとは根本的に異なっているのだと思う。
 確かに日本軍は失敗した。しかし、それはたまたまなのではないかという視点が菊澤氏にはあまりないように感じる。たとえばアップルという会社は今成功している。しかし、その成功の原因を過去にさぐって、これこれが現在の隆盛の原因であるという議論は多々あるわけだけれども、運がよかったのではないか? その成功はたまたまなのではないかという議論もまた成立しうるのではないかという立場を著者はとらないようである。ゴールドマン・サックスやIBMの成功の原因として漸次工学的アプローチ(まさにポパーmの用語)をあげているが、そのアプローチをとって失敗した企業もまた多いはずである。
 こういうことを書いているのはタレブの「まぐれ」とか「ブラック・スワン」を意識しているのだが、タレブは間違いなくポパーの弟子であると思う。タレブの本でカーネマンらの行動経済学を知ったのだが、行動経済学は人間は合理的に行動するという仮説を否定する。菊澤氏は人間は合理的に行動するというのだが、その合理的というのは自己の利益の追求なのである。しかし利益の追求だけでは困るということからカントがでてくることになるらしい。倫理性と効率性は一致しないとい観点である。
 ドラッカーの本は随分と読んだが、経営学の方面は全然読んでいない。ドラッカーというひとの第一の特徴は人間への熱烈な関心ということであると思うが、ドラッカー経営学者としていったのも人間を大事にする経営といった方面なのではないかと思うが、読んでいないのでよくわからない。
 だから、よくは知らないのだが、ドラッカーアメリカでは経営学者としてはあまり評価されておらず、日本において非常に評価が高いということがあるらしい。ドラッカーはウィーンから米国への亡命者である。ポパーもまたウィーンから英国への亡命者である。背景にヨーロッパの厚み(あるいは歴史の重さ)をもっている。完全合理性などというものを信じるのはアメリカの薄さなのであり、少しでも歴史の背景をもっている人間がそんなことを信じるはずがない。日本でドラッカーが持て囃されるのも、日本もまた歴史の背景を持つ国であるからということがあるのだろうと思う。アメリカ発の経営学などというのはひどく薄っぺらいかもしれないのである。
 小林秀雄となるともうわからない。漢心(科学的知識のことであると著者はいう)と対になる大和心であるであるが、その「もののあわれ」を感じることを非科学的だと恐れるべきではないと小林秀雄はいっているのだと著者はいう。
 そうなのだろうか? 「本居宣長」などは理屈への嫌悪に充ち溢れた本であると思う。濁った空気を嫌い、清澄な空気へのあこがれに充ち満ちている。「本居宣長」は未完に終わったベルグソン論「感想」の後に書かれたものである。その「五十」は、「光を物質に当てると、物質の内から電子が飛び出す。この光電効果と呼ばれている現象は、X線の発見以前から知られていたが、X線のような短い波長の輻射線が、金属に作用する時、その効果が著しいのがわかって来て、X線管球による実験装置の進歩とともに、この現象の精密な観察が行われるようになった。すると、科学者たちは、全く意外な事実に直面したのである。・・実験は予想に反し、いくら強い光を当てても、これによって飛び出す電子の速度は同じであることを示した。・・」と書き出される。この「感想」を書いていた当時、小林秀雄はニュー・エイジ・サイエンスに随分と近いところにいたのではないかと思う。最新の科学の進歩が旧来の科学の見方を覆すといった方向である。量子力学といった分野について大変な勉強をしたはずである。昭和40年に岡潔との対談で「(ベルグソン論は)失敗しました。力尽きて、やめてしまった。無学を乗りきることが出来なかったからです、大体の見当はついたのですが、見当がついただけでは物は書けません・・」といっているそうである。量子力学といった科学の最先端は素人の理解できるものではないと痛感するようになったということなのであろう。そしていきなり本居宣長の桜にいってしまう。
 しかし本書の著者は理解できる説明できるということに根源的な疑問を感じることはないひとであると感じる。一見は不条理と見える現象でも深く分析すれば説明可能であるとしているように見えるからである。とすれば小林秀雄とは無縁なひとではないかと感じる。小林秀雄のいう「賢しら」の人ということになってしまうのではないかと思う。
 本文を十分読まずに上記のようなことを書くのはいけないのであろうが、「まえがき」と「あとがき」と本文の一部を読んで、奇異に感じられることがあったので書いてみた。
失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

果てしなき探求〈上〉―知的自伝 (岩波現代文庫)

果てしなき探求〈上〉―知的自伝 (岩波現代文庫)

ドラッカー わが軌跡

ドラッカー わが軌跡

小林秀雄全作品〈別巻1〉感想(上)

小林秀雄全作品〈別巻1〉感想(上)