橘玲「バカが多いのには理由がある」(1)
集英社 2014年6月
きわもののような本かと思ったのだけれど、いろいろと教えられることが多かった。
著者の立場は、構造改革派あるいはグローバル・スタンダード派に近いもののように思われるが、自分はこう思うけれども、そのような言説を唱えたとしても世論が変わることが期待できるはずもないことはよくわかっているというスタンスのように思われる。どこかの政治勢力に加わって自分の主張を少しでも実現していくといった現実政治とのかかわりへの志向にはいたって乏しい冷めたひとのように思われる。
さて、著者はいう。「近代の啓蒙主義者は、「バカは教育によって治るはずだ」と考えました。しかし、問題は、どれほど教育してもバカは減らない、ということにあります。」
わたくしは自分を啓蒙主義者だと思っているので、さてそうなのだろうかと考えてみる。どうして啓蒙主義者なのだと思うのかというと、ポパーが自身のことを啓蒙主義者といっているからで、ポパーが啓蒙主義者なのならば、自分も啓蒙主義なのかなということである。
ポパーは啓蒙とは何かということについて、ヴォルテールがこういっているという。「寛容は、われわれとは誤りを犯す人間であり、誤りを犯すことは人間的であるし、われわれのすべては終始誤りを犯しているという洞察から必然的に導かれてくる。としたら、われわれは相互に誤りを許しあおうではないか。これが自然法の基礎である。」
ポパーの説を信じるのならば、啓蒙主義者というのは「われわれはみんなバカである」といっていることになるのかと思う。そうだけれども、少しでもバカを脱していくためにみんなで努力しようよ、というのが啓蒙派の立場である。と。
本書の「PROLOGUE」は「私たちはみんなバカである」というタイトルである。そこででてくるのがカーネマンの「ファスト&スロー」。わたくしはカーネマンの名前をタレブの「まぐれ」を読むまで知らなかった無知な人なのだけれど、カーネマンによれば、われわれの思考には「速い思考」と「遅い思考」の二種類があり、われわれは大部分の思考を「速い思考」ですませている。速い思考とは「直感的思考」で、これは時間もかからず、負荷も軽い。
さて、橘氏がいうには、「速い思考」は「文化(体験)」によって作られるのではなく、生得的なものであるという。これが問題となる。生得的というのは進化によって規定されているということだから、人間の「速い思考」も石器時代に形成されてものであり、そのあとの時間は進化的な変化をおこすほどの長さではないので、「茂みで物音がしたら、何も考えずに逃げ出す」というわれわれの祖先が生き残るのに寄与した、石器時代に形成された反応がそのまま現代においても「速い思考」を規定している、そう橘氏はいう。
しかし、文明が発達してくると、「速い思考」だけでは対応できないことが増えてくる。特に科学が発達してくると、「速い思考」からみると不思議としか思えないような見方が次々とでてくる。
地球が生まれてから今日までの時間を一年で表すと、生命の誕生は4月8日。11月1日までは単細胞生物だけ。魚類は11月二十六日に出現。最初のサルは12月25日に現れ、人類の祖先は12月31日午後8時10分、エジプトなどに最初の文明がでてきたのが、12月31日午後11時59分30秒。「遅い思考」が必要になったのはその最後の30秒だけで、それまでは「速い思考」だけで充分にこと足りた。
著者は本書で「速い思考」で考えるひとのことをバカ(直感思考型)と呼んでいる。これはわれわれの身体の中に進化の過程で埋め込まれているのだから、いかんともしがたい。だからわれわれはみんなバカである。とすれば、啓蒙主義者がいかに努力しても無駄である。しかしほんの少しは時に「遅い思考」をできるひともいて、それを「著者」は「利口」と呼ぶ。
本書でわたくしに面白く、かつ教えられたのは、一見そうとは見えないものにも進化的背景があるという指摘である。たとえば、「正義」。進化論からは「正義とは、進化の過程でなかで直感的に「正しい」と感じるようになったものである」とされているのだ、と。チンパンジーだって「正義」の感情を持つ。下位のチンパンジーに餌をあたえたところに「ボス」猿がとおりかかかっても、「ボス」は決してそれを勝手に奪ったりはしない。「物乞いのポーズ」をしてそれをねだる。「先取権」の観念はチンパンジーにもある。ガラスで仕切った檻の双方にチンパンジーを入れ、最初キューリを双方にあたえる。問題はない。こんどは一方にキューリ、他方にリンゴをあたえる。キューリをあたえられたほうは怒る。「平等」の観念はチンパンジーにもすでにある。2匹のチンパンジーの中央にリンゴを置く。2匹は争う。しかし何回もそれを繰り返すうちに、弱いほうは自然に手をださなくなる。チンパンジーの世界にも「序列」はあり、そこでは臣下は主君に従うルールがある。またチンパンジーにも「互酬性」のルールがある。何かを与えたらお返しをすることで仲間との関係を維持している。ここでみられる「所有権」「平等」「組織の序列」はフランス革命における「自由」「平等」「友愛」に対応するのだと著者はいう。
近代社会は民主政(デモクラシーを民主主義ではなく、「神政」「貴族政」などと同じ一つの政治制度として著者はこう訳す)を前提になりたっている。民主政も、どれを重視するかによって、自由を求める「自由主義」、平等を重視する「平等主義」、共同体を尊重する「共同体主義」の3つに区別される。しかし、もう一つの立場として「功利主義」があり、これは進化に基礎をもたないものであると著者はする。「最大多チンパンジーの最大幸福」などということを考えるチンパンジーはいないから。
功利主義からみると、「正義」とは功利的に設計された制度となる。功利主義は経済学と相性がいい。というか、経済学は功利主義的な理想社会をつくるための(社会)科学なのである(市場原理)。この立場を一般には「新自由主義」(ネオリベ)と呼ぶ。功利主義はしばしば冷たいとか非人間的とか批判されるが、それは進化的な裏付けをもつ正義感情とは別のところから生まれたことによる。
第二次世界大戦でのアウシュビッツとヒロシマ・ナガサキで、われわれは帝国主義の時代は終わったと感じ、国家の目的が領土の拡大から、「国民の幸福の最大化」へと変わった。福祉国家化である。しかし財政赤字の増大によって「福祉国家」路線への疑問が生じてきた。
オールドリベラリストは「財政支出を拡大して社会福祉を充実すること」がみんなの幸福であると考える。ネオリベは福祉国家は持続不可能であると考え、市場原理を活用した政府の効率化を求める。今の日本は国会議員の大半がネオリベである。財政状況を考えればそれしかないのである。だから、現在の日本では安倍政権の対抗軸が共産党しかないという奇妙な図式になっている。
上で見たように、正義にも複数のものがあるのだが、正義は一つしかないと信じるている人が多く、自分こそ正義として相互に口汚い罵りあっている。まともなひとはそこにはかかわらないようにしている。
「速い思考」は大切である。愛情とか友情とかいった私たちの人生で大切なものはそれに由来する。しかし同事にこの世界でもっともグロテスクなものもまた、そこから生じてく。
共同体の正義は進化論的には「なわばり」から生じる。「なわばり」を守ることは進化のうえでのきわめて強力な生存戦略である。当然人の脳のなかにも「なわばり感情」は埋め込まれている。「正義」とは「自分たちのなわばりを守ること」、「悪」とは「なわばりを奪いにくる敵のことである。ヒトは集団を「俺たち」=味方と「奴ら」=敵とにわけて、殺し合ってきた。これは人間の本性で、カール・シュミットは「奴らは敵だ、敵を殺せ」が政治の本質だと述べたのだそうである(埴谷雄高かと思っていた・・恥)。
進化論的な直感からは、世界は「善」と「悪」に二分され、“俺たち”が“奴ら”に打ち勝つことで「正義」が回復する。
もう少しあるのだけれど、とりあえずここまで。
わたくしは、基本的人権などというのはまったくのフィクションで、人間の頭の中だけ(つまり遅い思考にだけ)にあるものと思っていたので、自由、平等、友愛などが進化の過程の産物でしたがって人間以外にもみられるという橘説にびっくりした。もっともこれは犬や猫にはみられないということで、中枢神経系の発達と共同生活(社会生活)の有無に左右されるわけである。人間が社会性の動物でなければ、自由も平等も友愛もありえない。
もう一つ、功利主義が進化とは無関係のものであるという主張にも考えてしまった。わたくしは自由とか平等とか友愛というのが理性の産物、理屈の産物、遅い思考の産物であると思っていて、それに対して功利主義というのはわれわれの生活にかかわるものなのだから、もっと生物学的なもの、理性とか脳といったものではない、肉体的なものというイメージをもっていた。身体にかかわるほうが進化論的説明が容易で、脳の機能(特に遅い思考)のほうは進化論的に論じるのは厳しいのだろうと感じていた。
われわれにあるもので身体・肉体にかかわるものとして誰でもが想起するのは性にかかわることで、しかしこれは”臍から下”の問題とされて、頭とは関係ないとされ、知性とは正反対に位置するものとされる。そして人間は高級な生き物だから、肉体の奴隷になるのではなく、それも頭でコントロールできる存在と、建前上はされている。
プラトンの魂の3分説というのはよく知らないが、理知・気概・欲望だっただろうか? 気概が存在する場は胸郭とされていたように思う。気概はおそらく誇りとかかわるような何かであると思うが、感情にむしろ近いものなのだろうか?
感情というのがどこに位置するかが問題である。速い思考を司るのは感情なのだろうか? そしてわれわれの感情とは石器時代にやはり培われたものなのだろうか? 感情は氏で決まるのではなく、育ちのなかで形成されることはないのだろうか? 橘氏は明確に、速い思考=進化の産物、遅い思考=知性の産物とするのであるが、速い思考にも後天的なもの(経験的なもの、文化的なもの)があるのではないだろうか? 以下に書くことはほとんど脳科学者ダカシオからの受け売りである。われわれは過去に経験したことを”肉体的に”記憶していて、新たな事態に直面した時に体がある反応をおこすと、それが過去の身体反応と比較され、あらたな事態への対応がそれに基づいて決定されるとダマシオはいう。これまたカーネマンとは別の、われわれは大部分の場合は頭で考えてはいないとする説である。
内田樹さんによると「頭がいい」というのは「体が頭がいい」ということなのである。知性で考えるひとは失敗する。「体が頭がいい」ひとはうまくやれる。橘氏は沈思黙考・熟慮型の思考をする人を利口とし、脊髄反射的な思考?する人をバカとするのであるが、おそらく内田氏は、頭の思考を皮相なもの頭だけのもの、身体での思考を身についた腑に落ちる真っ当なものとしている。
内田さんは『私は「頭のいい人」に無条件に敬意を抱き、「バカ」には無条件で敵意を抱くという度し難い「主知主義者」である。「頭のよしあし」を私ほど無批判に査定の基準にする人間を私はほかに知らない』という。氏によれば「性格がよい」とか「やさしい」とか「思いやりがある」とか「想像力が豊か」とかいうのはすべて「頭がいい」という本性のその都度の表出にすぎない」のだそうである。そして『「ウチダの頭」は「頭が悪い」のだが、「ウチダの身体」は「頭がよい」』のだそうである。『頭が理解できないことでも身体が理解できる、というのが私の特技』という。『そいつのそばにゆくと、私の身体が「ぴっ、ぴっ。こいつバカですよ。ぴっ」と信号を発する』のだそうで、この信号は生まれてから一度も間違ったことがなにのだそうである。氏の「頭」が「この人は立派な人だ。尊敬に値する人だ」といっても「身体」が「ぴっ、ぴっ。こいつバカですよ。ぴっ」と執拗に信号を発するのだ、と。だが、内田氏も成熟した社会人として、とりあえずは「頭」に従うことがしばしばあるが、常に「身体」が正しく、「頭」が間違っているのだそうである。(「私の身体は頭がいい」という言葉のオリジナルは橋本治『「わらかない」という方法』の一節)
ここで内田氏が「頭」といっているものは「遅い思考」のことなのだろうが、「身体」といっているものは「速い思考」とどこかで関係するものであると思う。ただ進化に由来するものではなく、生まれた後の経験から得た何かであるような気がする。
日本では一般に、理屈を嫌う傾向がとても強い。理屈はすぐに屁理屈といわれて嫌われるようになる。「日暮硯」での恩田木工も理屈を嫌っていた。理屈は情に反するものとされるのである。それならば情とは何のか? 感情? 気概? おそらく日本でなら人情が一番近いのだろうか? そして人情を外国語にうまく訳せるかである。落語を欧米語に翻訳しても、あちらにそれを面白いと思うひとがどのくらいいるのだろうか? どうも橘氏の利口ーバカ二分説はいささか単純化すぎる論のように思う。
われわれのなかでおきるもめごとの多くは「馬鹿にされた!」といった感情から生じる。これもとなりのサルはリンゴをもらっているのに、自分はキューリであるサルの怒りに由来するのであろうか?
F・フクヤマの「歴史の終わり」はもっぱら「気概」という概念から西側の勝利を語ったものであったが、へーゲルの歴史哲学(とコジェーブが解するもの)に依拠しているらしい。要するに歴史は「馬鹿にするな!」で動いてきた、と。あるいは「強いものに従え!」と「馬鹿にするな!」が争ってきて、「馬鹿にするな!」がついに勝利したのだ、と。(最近ではまた、「強いものに従え!」が盛り返してきているのかもしれない。) 東西の争いは東が「強いものに従え!」で西が「馬鹿にするな!」であったが、人間はいつまでも「強いものに従え!」にはついていけない存在なのだから、それゆえに西側が勝ったのだといったのがフクヤマ氏の論だったように思う。
フクヤマ氏は、人間以外の動物は腹が空いたとか喉が乾いただけで動いているが、社会的動物である人間はそれとは違って、気概という高度な動機で動いているとしているようなところがある。おサルさんからは「俺たちを馬鹿にするな!」といわれるのではないかとも思うが、橘氏も愛とか友情とかいうわれわれのもっとも美しい感情も速い思考から生まれるのだが、この世でもっともグロテスクな感情もまた速い思考から生まれるとしている。
「なわばり」というものは進化論的な基盤をもち、共同体というものもそれに由来する。「“正義”とは自分(たち)のなわばりを守ることで、“悪”とはなわばりを奪いに来る“敵”のことです。ヒトは石器時代のむかしから、集団を俺たち(味方)と奴ら(敵)に分けて殺し合ってきました。」と橘氏はいうが、馬鹿にするな!は強権への抵抗の基盤にもなるし、みなごろしの基盤にもなるわけである。
人間に対する見方には、ホモ・サピエンスとして知恵のある優れた生き物とする方向と、動物のなかで人間ほど同種を大量に殺戮する動物はいない!、なんという恐ろしい動物という正反対のベクトルがある。たぶん、人間はそのどちらにもなりうるのであるが、そのグロテスクな方向を抑制していくには遅い思考を用いるしかない。しかし、それができずにグロテスクな方向を全開にしている人間を橘氏は「バカ」と呼ぶのであろう。身内には情に篤いひとが、身内でないひとには平気で冷酷で残忍な人間になってしまい、しかも本人はそれを当たり前のことと思って、まったく不思議には思わないひとは多い。
栗本慎一郎氏の「パンツをはいたサル」は第一章が「人間は知恵ある動物か」と題されているが、『異国人が団体で入ってくると、たとえそれが友好的な人びとであっても、人はすぐに砂かけばばあや妖怪・一反もめんのごとき妖怪と考えてしまう。・・社会学が明らかにしているように、私たちの心の中には、よそのおばあちゃん(社会学的には制外者、異人またはよそ者と呼ぶ)が、砂かけばばあや妖怪・一反もめんに見えてしまう構造が存在している』という。これが生物学的な基礎を持つことを栗本氏も指摘している。
問題は、誰を身内とし、誰をよそ者とみなすかは決して進化によって規定されているわけではなく、文化と歴史によって規定されることであろう。
タレブは「ブラック・スワン」で、自分の出身地であるレバノンが多くの宗教や民族の坩堝でありながらも、長らく平和に共存していたことを述べている。それがあるときに崩れた。一度、崩れれば、ずっと以前から争っていたように相互の憎悪は拡大を続ける。「なわばり」争いは愚かである。愚かではあるが、それは進化的基盤のうえにあるのであるとすると、われわれから消し去ることができないものであることになる。今現在も「俺たち」と「奴ら」の争いが世界のあちこちで火を噴いている。その対策としてかすかにでも可能であるかもしれないことは、「奴ら」と思っていたものも「俺たち」の仲間であると「遅い思考」を駆使して、なんとか納得していくことだけなのかもしれないが、橘氏によれば、「遅い思考」ができるものはめったにいないわけで、「バカが多い」のは進化的な必然であるのだから、いかんともしがたいのかもしれない。
われわれは功利主義というものに何か浅薄で軽薄なものを感じる。人間は安全で腹がくちくなれればそれでいいんでしょ!といっているような気がする。人間にはあるはずのもっと崇高な計算などできない要素が無視されてしまっているように感じる。遅い思考は計算をする。速い思考は一気にわかる。「和める心には一挙にして分る」(中原中也) しかし「和める心」ばかりでなく「憎しみの気持ち」も一挙にわかってしまうのかもしれない。功利主義は”本当の幸福”とは関係のない表面だけをあつかうのように感じられるとしても、それが遅い思考の産物ではあるので、敵と味方を峻別するという思考とは遠い場所で考えることを可能にするかもしれない。
清水幾太郎氏の「倫理学ノート」は功利主義擁護の書であった。米英の哲学を席巻している分析哲学を頭の学問であって地に足のついていない学問として、功利主義を人々の生活とかかわる現実をみる学問とし、前期ヴィットゲンシュタインから後期ヴィットゲンシュタインへの変化を、「分析哲学の方向」から「功利主義の方向」への転換ととらえていた。このような見方がどの程度の一般性をもつのかはわからないし、おそらく専門家のあいだでは一顧だにされていないのではないかと思うが、わたくしには説得的、少なくとも大いに思考喚起的であった。
それにはわたくしの読書履歴が大いに関係しているはずで、ムアをふくむブルームズベリー・グループに激越に反発したひととして紹介されているD・H・ロレンスがわたくしが最初にいかれた文学者である福田恆在のかつぐ御輿であったし、ブルームズベリー・グループはわたくしのいまの御輿である吉田健一のルーツであるはずだからである。
相互に反発をしたにもかかわらず、ロレンスもブルームズベリー・グループもともにその最大の敵が19世紀ヨーロッパのヴィクトリア朝的偽善であった。わたくしが吉田健一から学んだ「ヨーロッパ文明の精華は18世紀にあり、19世紀ヨーロッパはその堕落形態」という見方は、ヨーロッパではきわめて正統的かつ伝統的な見方であることも後に知った。その見方からすれば功利主義はまさに19世紀西欧の見方なのであろう。
ケインズはハーヴェイロードの前提を奉じる貴族主義者だから、ケインズは「バカ」が嫌いだっただろうと思う。炭鉱労働者の息子であったロレンスも、ヴィクトリア朝的偽善に疑問を感じない「バカ」を嫌悪しただろうと思う。
功利主義には貴族主義の匂いは歴然とあるように思う。人々の幸福が何であるのかを知っている賢者をそれは前提にしているのだから。そしてブルームズベリー・グループの人たちが精神の貴族を自負していたこともいうまでもない。
「倫理学ノート」には、ムアが第一世界大戦の勃発に関しても一切動揺を示さず平静のままでいたことに、リットン・ストレイチーが感激していたことが書かれてあった。当時のイギリスはドイツ憎しの声で充ち充ちていたのである。
ヨーロッパ18世紀の啓蒙は「寛容」を主張した。だが「非寛容」は「寛容」しないとした。しかし「非寛容」は生物学的に、進化の過程でわれわれに組み込まれているのだとしたら、「寛容」は見果てぬ夢ということになるのかもしれない。
フォースターは「私の信条」で、「偉大なる創造的行為とまっとうな人間関係は、すべて力が正面に出てこられない休止期間中に生まれるのである。この休止期間が大事なのだ。私はこういう休止期間がなるべく頻繁に訪れて長くつづくのを願いながら、それを「文明」と呼ぶ。なかには力を理想化して、それをなるべく長く陰に押しこめておくより正面にひっぱりだして崇拝したがる人もいる、これは間違いだと思うし、これとは正反対に、力などは存在しないと解く神秘主義者はさらにまちがっていると思う。力はたしかに存在するのであって、大事なのは、それが箱から出てこないようにすることではないだろか」といっている。ファースターもブルームズベリーの一員あるいはその周辺のひとだったと思う。吉田健一も「文明」のひとで、ブルームズベリーのケンブリッジに留学して、おそらくフォースターなどとも会っているはずである。
昨今のいろいろな出来事を見ていると、もう「力」は箱から出てきてしまっているのかなと思う。そして、それに対し、「力」の行使に反対しているひとたちは、今度は、神秘主義のほうに走って、「力」など存在しない、「力」なしでも多くの問題が解決可能といっているようである。
わたくしの若いころにはまだ「思想」に一定の力があった。そして社会の体制を変えることによって、もっとわれわれがまともな存在に変わることができると信じているものも多くいた。それはある意味では野蛮な考えでもあって、憎悪の思想でもあり、「奴らは敵だ、敵を殺せ」を信条とする、キリスト教終末論やゾロアスター教の世界観の変形である宗教的な背景を濃厚に持つものではあったが、世界が変わる、変わりうるという一種の希望をあたえるものであったかもしれない。
もはや世界が根本的に改まると考えるものはきわめて少なくなってきている。この世界がこのまま変わらず続いていくとすれば、カネとモノと力の比重は大きくなるばかりである。橘氏は、それは仕方がないことで、なぜならそれが事実なのだからとしているようである。それについては稿をあらためて、もう少し考えてみたい。
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