堂目卓生著「アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界」

  中公新書2008年3月
  
 ソヴィエト・東欧圏が崩壊し、マルクス主義にもとづく計画経済体制による運営は機能しないことがほぼ共通の認識となり、これからは市場の価格調整メカニズムによる運営しかないということになってきているように見える現在、その市場経済体制の教祖であるアダム・スミスは、個人の利益追求を是とし、市場の規制撤廃と競争による社会運営の主唱者とされているようである。しかし、本当にアダム・スミスは単純な自由放任主義者であり、個人の利益追求行動が社会全体の利益を無条件にもたらすとする、急進的な規制緩和論者だったのだろうか? 決してそうではないのだ、それはスミスの「国富論」以外のもうひとつの主著「道徳感情論」を読めばわかる、というのが本書における堂目氏の主張であるようである。
 
 現在、市場原理主義というのははななだ評判の悪い言葉で、現在のわれわれの社会に存在する不都合のほとんどはそれに起因するとするような見方さえ少なからずあるように見える。本書もその驥尾にふしたものともいえなくはないのかもしれない。「道徳感情論」によって「国富論」の単純なスミス像を覆すことで、スミスを錦の御旗にする市場原理主義者の気勢を殺ごうとしているのかもしれない。
 
 アダム・スミスというと「見えざる手」である。われわれがどのように欲の皮がつっぱったことをしていても、なぜかしらんそこに「見えざる手」が働いて、不思議なことに全体としてはうまくいって、世はすべてこともなしという状態になるというのである。予定調和の世界であって、それならどうしても神は天にあり、でなければおかしい。
 しかし、「経済思想の巨人たち」で竹内靖雄氏がいっているように、『この「見えざる手」という言葉を、何か最善に結果を導いてくれる「神の手」を連想させるような意味で使うのはどうかと思われる』ので、『競争的市場をもつ経済システムでは、何をどれだけ生産すればいいかは、政府の計画や介入なしに「自然に」解決される』というだけのことであろう。『「見えざる手」を万人にとって申し分のない状態をもたらすもののように考えてはならない』のである。
 むしろ、堂目氏が指摘しているように、スミスと同じスコットランド啓蒙派であるヒュームが『経験と慣習を通じて徐々に築かれた社会制度を重視し、理性の力によって、それを即座に、またいかようにも変えることができるという考え方には懐疑的であった。「啓蒙」の時代にあって、また「啓蒙」を担いながら、ヒュームは「啓蒙」の中にある傲慢を洞察した』という点が重要なのであって、『スミスもヒュームから、この洞察を受け継いだ』のであるから、あてにならない理性などというものであれこれ考えるよりもまだ市場のほうが増しなことをしてくれる、ということのほうが大きいのではないだろうかと思う。
 マルクス主義の計画経済というのは、並外れて優秀な人間の頭脳は何が最適であるかを知ることができるという理性への信頼、あるいは理性への過信に基づく制度なのであり、スミスやヒュームは人間の理性(の過信)への不信を自説の根底においたということなのだろうと思う。
 そして、この啓蒙、理性への信頼あるいは過信の極致がフランス革命なのであり、ロシア革命フランス革命の後裔なのであるから、結局問題は、理性をどの程度信頼に足るものかとするかということに帰着するのであろう。
 西欧においては人間に理性をあたえたのは神なのであるから、結局、人間を神のごときものであると考えるか、人間もまた他の動物とかわることのない平凡な一動物であるに過ぎないと考えるかに、それはいきつくはずである。

 渡部昇一氏の「新常識主義のすすめ」に収められた「不確実性時代の哲学」はヒューム論であるが、そこではハイエクについての言及がひんぱんにおこなわれている。ひとつはハイエクノーベル賞受賞記念講演の「Pretence of Knowledge 」である。これは題名の通り、「知りもしないことを知っているという態度をとること」を論じたものである。それは一言もヒュームには言及していないが、それにもかかわらずヒュームに負うところの多いものだと渡部氏はしている。計画経済が人間に知ることのできるはずのない適性価格などというものを知ることができるような顔をしていること、また現代経済学がごく一部の数値化できることだけで人間の全体を知りえたような顔をしていることを批判したものなのだと紹介している。
 もうひとつはフライブルグ大学での「デイヴィッド・ヒューム法哲学と政治哲学」という公開講演で、これはヒュームが否定した合理主義とは「構成的主知主義」であったということを述べた講演なのだという。「構成的主知主義」とは、フランス革命に典型的にあらわれた人間の知性によって国家を思いのままに作り変えることができるという思想であり、人知に対する全くの信頼を示すものなのだという。
 人知に対するまったくの信頼をもつ人は、スミスの「道徳感情論」では「体系の人」と呼ばれているらしい。堂目氏の本書では『スミスにとって、諸規制のもとで既得権益を享受している人びと以上に危険なのは、人びとの感情を考慮することなく自分が信じる理想の体系に向かって急激な社会改革を進めようとする人―体系の人―であった』とされている。この「体系の人」はわたくしの持っている米林富男訳の「道徳情操論」では「主義の人」と訳されている。原語は「man of sysytem」らしい。

 ここで描かれているような人知の限界という方向からの啓蒙をとらえるという論をわたくしがはじめて知ったのは、ポパーの本を読んでいるときだった(「寛容と知的責任」 「よりよき世界を求めて」未来社 1995年所収)。『「啓蒙とは何か」とヴォルテールは問い、そして次のように答えています』として、『寛容は、われわれとは誤りを犯す人間であり、誤りを犯すことは人間的であるし、わわわれすべては終始誤りを犯しているという洞察から必然的に導かれてくる。としたら、われわれは相互に誤りを許しあおうではないか。これが自然法の基礎である。』、そうポパーは書いていた。
 それまで、啓蒙というのは、既に何かを知ったひとが、まだ知っていない人を教え導くこと、蒙をひらくこと、闇を明るく照らすことであると思っていたから、われわれはお互い、闇の中で手探りをしているのだというような啓蒙論を知ってびっくりした。
 わたくしのそれまでのイメージでは、丸山真男が典型的な啓蒙家で(あとからとてもそれだけのひとではないと思うようになったが)、進歩的文化人はその亜流と思っていた。だから、啓蒙家というのはいやな奴だと思っていた。要するになんにでも対策があり、それについての対策を自分は知っていると称するような人間である。福田恆存がどこかで言っていたことにしたがえば、ある海難事故を評して、船長の指揮にしたがって行動すれば水死はなかったはずだとかいう人間であり、また吉田健一がどこかで言ったいたことによれば、人口が増えて余った人間が押された海に落ちたらどうするのだと訊かれて(むかしは、といってもほんの50年くらい前は、そんなことを心配していたのである。だから人知の限界なのである)、おざなりでいい加減なことを答える人間である。しかし、人間にはどうしようもないこともあって、われわれはいつか必ず死ぬ。それに対するどのような対策もないというのが人間の根本である、そう吉田健一はいっていた。

 渡部氏はヒューム再評価はシカゴ学派によるところが大きいとしている。具体的にはそれは「構成的主知主義」の流れを引くケインズの批判として始まったのだが、次第に経済学にとどまらず、哲学や思想の世界にまで広まってきているのだとする。一般的な見方によれば、シカゴ学派市場原理主義者の牙城であるはずである。たとえば、渡部氏は現代は「構成的主知主義」と「ヒューム的不可知論」の対立の時代なのであるという。

 マルクス主義の権威は地に落ちた。それならハーベイ・ロードの人、ノブレス・オブリージの人、ケインズはどうなのだろうか? わたくしにわからないのが中央銀行の機能というのがケインズ的「構成的主知主義」の現代版なのだろうか?ということである。グリーンスパンという一人の人間が有能であればアメリカを繁栄させ、無能であれば危機に陥らせるなどということがあるのだろうか? 現在のサブプライム問題というのも、有能な人材がいさえすれば回避できたものなのだろうか? 人間にとっては誰にとっても一寸先は闇なのであって、サブプライム問題についても起きてみれば予想の範囲内であったとしても、起きるまでは誰にも予想できないことだったのだろうか? それなら日本のバブルとその破裂はどうなのだろうか?
 竹内氏は、『人間は凡人から(ケインズのような)天才まで、おしなべてエピメテウス、つまりことが起こったあとでわかる人にすぎない』といっている。経済学というのも起こったことを後から説明する学問ではあっても、未来を予見できるものではないということである。
 わたくしのいる医療の世界においても、厚生労働省の施策というのは、後からみるとはずればかりである。しかし厚生労働省の官僚も自分の天下り先を確保するためなどという矮小な理由からばかりで政策を決めているわけではないだろうと思う。自分としては最善のものと思って策を提示しているのであろう。川渕孝一氏がいうように(「医療再生は可能か」)、厚生労働省の打ち出す方向が最終的には「勘と度胸」で決められているにしても、日本の医療を悪くしようと思ってなどということはありえないと思う。なんとか日本の医療体制を維持していきたいと思って、しかし、結果的には、一生懸命に智恵を絞っているにもかかわらず、日本の医療をかえって悪い方向へと導いてきてしまっている。
 それで思い出すのが、昔に小尾某氏が打ち出した学校群制度というもので、その当時、都立高校に生じていた受験競争と学校間格差を解消するとして打ち出した制度が、結果的には、庄司薫氏が「赤頭巾ちゃん気をつけて」で描いたようないやったらしい日比谷高校をなくすことには成功?したかもしれないけれども、無個性の高校の並立と受験競争が高校から中学へと低学年化という結果だけに終わった。

 市場原理主義の旗振り役であるミルトン・フリードマンの「資本主義と自由」は1962年に最初の版が出版されているが、出版当時はまったく評価されなかったという。1956年の講演をもとにした本であるが、1956年では米政府の支出は国民所得の26%であった、と書かれている。しかし改定版がでた1982年にはそれが39%になっていた。このような《福祉国家論とケインズ主義の影響をうけた政府の肥大化》をみて世論がかわり、サッチャーレーガン政権が誕生した、しかし、それでも米政府の支出は36%とわずかに減少したにすぎず、それもほとんどが国防費の削減によるのだ、とフリードマンは指摘している。
 フリードマンによれば、1989年にベルリンの壁が崩壊し、92年にはソ連が崩壊したことは変化を加速させ、計画経済はハイエクのいう『隷従への道』につながるという認識は広く一般化した。戦後20〜30年の間、社会主義は爆発的に勢力を拡大したが、それを受け入れた国でさえ、例外なく、そのあとは、市場の拡大と、政府の役割の縮小にむかっている。世論の変化と体制の変化のあいだにはつねにタイムラグがある。第二次世界大戦後に社会主義が普及したのは、戦前にそれを志向する風潮があったからである。ソ連の崩壊による世論の変化は、今後社会主義の衰退を進行させていくであろう、という。
 1982年の改訂版で、フリードマンは、風向きを変えたのは、理論や主義主張ではなく、事実の重みである、という。かつて知識階級の希望の星であったロシアや中国はうまくいかなかった。フェビアン協会的イギリス型社会改良主義は社会の停滞を生んだ、と。
 もしも、理論や主義主張が世の中を変えないのならば、書物を書く意味はどこにあるか? 組織や制度、あるいは政府さらには民間でも、現状維持の志向はきわめて強い。本当の危機におそわれるか、さしせまった危機に直面しないかぎり、ほんとうの改革はおこならない。その時に必要とされる代替案を用意しておくこと、それが自分の仕事なのだ、とフリードマンはいっている。
 このフリードマンの本は2002年に三訂版がでているのだが、それから5年以上たった今、また風潮は変わったのだろうか? 市場の拡大と小さな政府志向のもたらした事実の重みが、また別の志向を今後産むだろうか? 市場経済体制がわれわれにとって最善の制度であることを人知が証明したなどというひとがもしもいるとすれば、人知の限界を知らぬ「体制の人」ということになってしまうのかもしれない。
 
 堂目氏は、各人がおのれの欲望をひたすら追求すればいいという自由放任主義者としてのアダム・スミスではなく、「道徳感情論」での「同感」「憐憫」「同憂」「同情」をキーワードにして、他人への関心、共感を道徳の根源におく人としてのスミスを復活させようとしている。「道徳感情論」をみれば、スミスが人間を単なる利己的な存在とみていただけではないことは明らかではないか、と氏はいう。
 人間は自分の利益を考える存在ではあるが、それだけではなく、(自己の利害に関係がなくとも)他人に関心をもつ存在でもある。このような同感 sympathy は快・不快といった感情と結びつくわけであるが、スミスはさらにそれらの感情を超越した「公平な観察者 impartial spectator 」が経験により各人の胸中に形成されてくるとする。
 スミスは、自己の胸中の公平な観察者の判断を重視するのが「賢人」であり、世間の評判に左右されるのが「弱い人」であるとしている。この点で、スミスはストア哲学に近づいている。
 スミスによれば利己心や自愛心は義務の感覚 sense of duty のもとで制御されなくてはならない。義務の感覚というのは、スミスが一般的諸規則 general rules と呼ぶものにしたがうことで、胸中の公平な観察者が非難することはせず、賞賛することを推進することである。
 以上のことを前提に、「国富論」でスミスが『利己心にもとづく自由な経済活動を容認したこと』の意味を考えねばならない、スミスは無制限の利己心の放任を容認したわけではないのだ、と堂目氏は論じている。
 
 「経済思想の巨人たち」で竹内氏は、「議会の独立について」でヒュームが『およそ人間は無節操で利に走りやすい悪人であり、人間の行動には私益追求以外の目的はないと想定しなければならない。いかなる統治システムもこの考え方にもとづいてつくられるべきである。この私益を通じて人間を動かし、その貪欲さや野心がどうであれ、結果として公益に寄与するようにさせるべきである』と述べたとしている。
 手許にある岩波文庫のヒューム「市民の国について(下)」を読むと、これはヒュームの主張ではなく、ヒュームより前の政治的社会の諸問題を論じたさまざまな著作者たちが確立した一つの原則であるということになっている。それについてヒュームは、政治原則として見る限りという留保をつけて、この原則を承認している。
 ここでヒュームがいうのは(竹内氏も引用しているように)、人間は公人としてよりも私人としてのほうが正直であるということである。私人としての利益追求には胸中の公平な観察者がでてくる余地がある。しかし、自分が属する集団の利益権益、あるいは主義主張をある人がいう場合、それは自己の私利私欲ではないとの思いがあるため公平な観察者の出番はなく、結果的にその主張には抑制がかかりにくい、と。
 だから、この『およそ人間は無節操で利に走りやすい悪人であり、人間の行動には私益追求以外の目的はないと想定しなければならない。いかなる統治システムもこの考え方にもとづいてつくられるべきである。この私益を通じて人間を動かし、その貪欲さや野心がどうであれ、結果として公益に寄与するようにさせるべきである』ということが言おうとしているのは、『人間は節操があり、公の利益をつねに配慮する善人なのであり、人間の行動には公の利益追求という目的がつねにある』などとしてしまうと、かならずどこからか「体系の人」がでてきて、暴走をはじめてしまう。人間が私利私欲を追求しているかぎりはそうそうひどいことにはならない、というだけのことなのではないかと思う。あるいは人間は悪人であるほうが安全であって、善人のほうがよほど怖い、ということかもしれない。

 ポパーは「われわれ知識人には何ができるか?」と自問して、「多くのことをなしうる」という。なぜならわれわれ知識人は何千年となく身の毛もよだつ害悪をなしてきたから、と。理念、説教、理論の名のものでの大虐殺、それが知識人の仕事だった、と。それも最良の意図のもとで。だから、知識人が『自分が何も知らないということ、そしてそのことをほとんど知っていないことを知っている』ということを認めるならば、それは世に対するとても大きな貢献であるはずである、そうポパーはいう。ここでポパーがいっている知識人像もまた「体系の人」なのだと思う。

 スミスによれば、人間には共感という資質があり、他人の喜びは自分の喜びであり、他人の悲しみは自分の悲しみなのであるが、一方、谷沢永一氏によれば(「人間通」)、人間の最大の感情は嫉妬であり、「隣の貧乏、鴨の味」であり、「隣に蔵立ちゃわしゃ腹が立つ」ということで、『隣人の不幸はまことに喜ばしく、自分に近しいものの栄達は居てもたってもいられないほど不愉快』なのだそうである。スミスの道徳論などは「綺麗ごと言ってますなあ」と一蹴されてしまいそうである。
 堂目氏によれば、われわれは嫉妬のせいで他人の喜びに素直に同感できないことがあるのは事実であるが、胸中の公平な観察者は嫉妬を見苦しい感情として否認するので、わたしたちは嫉妬の感情を抑えようとするのだということになる。「居てもたってもいられないほど不愉快」な感情を果たして胸中の公平な観察者がうまく押さえ込んでくれるかが問題である。

 現在、人間がおのれに備わった理性により理想的な社会体制を構築できるとするような見方、「構成的主知主義」とか「体系の人」は、いたって旗色が悪くなってきていることは確かであろう。これは思想と思想の争いの結果でそうなったのではなく、フリードマンのいうように事実の重みがもたらしたものなのであろう。
 それならば、同じく理性の活動である科学はどうなのだろう。科学によって理想的な社会体制を構築できるなどと主張するものはいないであろうが、もしもわれわれの社会を少しでもよくできる何事かがあるとすれば、それは人文系の思想の中からでなく、理系の学問、工学であるとか、化学であるとか、生物学であるとかから出てくる可能性が高いという主張はどうなのだろう? わたくしには東浩紀氏の最近の本はその方向の手探りであるように思える。
 一方、「構成的主知主義」により社会全体を一気に理想的なものに変えるというのではなく、もう少し目標を慎ましいものにおき、ある国民の所得を増加させるというようなことに焦点を絞った場合に、人間の理性はそれに何事かを提案できるのだろうか? ケインズはそれができるとした人であったのだろう。フリードマンはそれに反旗を翻したのであるが。
 どのような社会体制が望ましいかではなく、今不景気であるとすれば、それは何に起因するか? あるいはかっての大恐慌はどういう理由で生じたのか、将来それを回避するためにはどのようなてだてがあるかといったことならば、学問の範囲内で決着がつく議論なのだろうか?
 ケインズの提案とマネタリズムは討論可能なのだろうか? それはあるときには一方が正しく、別のときにはもう一方が正しいというようなことなのだろうか? あるいは双方に幾分かの真実があり、どちらも正しくもなく間違ってもいないというようなことなのだろうか?
 どのような生き方が幸福であるのかといってことについては誰も答えをもたないとしても、今目の前にいるひとりの人間の病気についてはとるべき最善の方策治療というものがあるのだろうか? それともその人がどのような生き方を望んでいるかによって最善の方策もまた変わってくるのだろうか?
 そうであるなら、経済学もまた、どのような生き方が望ましいとするかによって結論が変わってくるようなものなのだろうか?

 「理性への過信」を否定すると、それにかわるものとして、今度は「伝統の尊重」が登場してくることが多い。とにかく何かをドラスティックに壊すことはよくなくて、今あることにはみな何がしかの根拠があるのだから、という方向である。「市民の国について」の「あとがき」で訳者の小松茂夫氏は「ヒュームの政治思想は、一言でいえば、保守的です」といっている。
 保守の思想の一部は、間違いなく「理性への過信」への不信から登場してくる。渡部昇一氏もそうであろう。長谷川三千子氏などもそうだと思う。しかし、そうなってしまうと、今度は今あるものを無理にでも肯定しなければいけなくなる。あるいは、過去のほうが原罪よりもいいことにしなければいけなくなる。それも随分と不自由なのではないかと思う。
 などと書いていて、買ってきたまま読まずにおいてあった長谷川氏の「正義の喪失」をとりだしてきたみた。そうしたらそこに「ボーダーレス・エコノミー批判」という論があった。その冒頭はアダム・スミス批判である。今にわかに読んでみたところでは、スミスが万古不易のもの、普遍的に人間世界に存在するように言っている「市場」は、かっては存在しなかったのだ、あるいは市場の前提であるとスミスがしている「欲望」もかつては存在しなかったの、というのが批判の根っこらしい。15〜16世紀のイングランドの「囲い込み」とそれによるペザントリの崩壊によって「人間が大地から切り離された存在となった」こと、それが欲望を生み、市場を生んだのだというのである。このあたりはカール・ポランニーあたりに依拠しているらしいが、スミスの後に取り上げて批判しているマルクスに近い主張である。
 しかしこれは資本主義を特殊なものと見すぎているのではないかと思う。こういう議論はどんどんと退行していって、結局は人類が狩猟採集生活から農業生活に移行したこと、それによって余剰が生じ、都市というものが生まれることになった、それがいけないのだというところにまでいきついてしまうのではないかと思う。タッジというひとに「農業は人類の原罪である」という本があるが、そういう結論になってしまうだろうと思う。
 長谷川氏は、「大地から切り離される」ということで、伝統から切り離される不幸、根無し草であることの不幸をいいたいのであろうと思う。しかし、文明は都市の産物なのである。都市に住むひとは根無し草であるかもしれないが自由なのである。そしてヒュームやスミスの根底にあるのは「文明」なのであるから、なんだか長谷川氏の論は的をはずしているように思う。あえて暴論を述べるならば、個人というのは、都市の産物であり、文明の産物なのだと思う。長谷川氏のいっているように、「アメリカの発見」はアメリカに先住のひとたちにとってはただもう一方的に迷惑なだけの話で、互恵的関係など何もなく、収奪され虐殺される一方で、必要もないものをおしつけられたわけだから、それが貿易であるなどとスミスがいうのはちゃんちゃらおかしいと長谷川氏がいうのはまことにその通りなのである。しかし、わたくしはインカ文明とかアステカ文明とかいうのが、それが文明だったのだろうかとも思うのである。そこには個人はいたのだろうか? 重ねていうが今書いているのは暴論である。しかし長谷川氏も(そしてわたくしも)「西欧」の子だろうと思う。西洋以外の場所にも、もちろん個人はいた。しかし、「西欧」の個は何か違うのである。それは小説を生んだような文明である。市井のどうでもいい人間が主人公となる物語を生んだ文明である。わたくしのようなものでも意見を述べていい文明なのである。西欧が輸出したものは「個人」なのである。「欲望」は「個人」に付随してるのだと思う。
 ヒトが種として独立したのは200万年くらい前なのであろうか? その最古の人類がわれわれの前に現れたとして、われわれはそれに「共感」するだろうか? あるいは、われわれのたどりうる最古の祖先であるミトコンドリア・イヴやY染色体アダムに出会ったとしても、それに「共鳴」するだろうか? 
 
 スミスにしてもヒュームにしても、その根底にあるのは、その当時を覆っていたキリスト教的な世界観の根源的な否定であるはずである。世界はこのように作られているのだから、あるいは神は人間をこのようなものとして作ったのだから、世界とはかくかくであり、人間とはこのようなものである、としていまえばそこに思考がはたらく余地はない。
 そうではなくて、神は存在しないのだから、したがって世界や人間は神の被造物ではないのだから、世界はどのようなものであり、人間がどのようなものであるとみるかは、われわれに開かれている、というのが彼等がものを考える出発点なのではないだろうか? 人知の限界というのも、人間が全知全能の神の似姿として造られたのではない、ということから当然に生じてくる系の一つなのではないだろうか?

 とにかくわたくしは昔から人間が人間以外の動物とはまったく異なる特別な生きものであるという見方というのか思想というのかが嫌いで、わたくしのものの見方の根底にはつねにそのことがあるように思う。不滅の魂とか、精神は人間にしかないとか、心を持つ動物は人間以外にもあるだろうか、という議論すべてがいやなのである。それは途方もない人間の傲慢であるとも思うし、同時に人間から思考を奪うものでもあるとも思う。
 「伝統の尊重」という方向はいつもまにか見えない方向から「神様」が忍び込んでくるように思う。わたしくはとにかく「神様」とは無縁で生きたいので、「伝統の尊重」路線も敬して遠ざけたいと思う。
 
 そして今度は、ドーキンスデネットなどの論をみていると、科学が「神」となってしまっているように見えてしまう。われわれがどのようなものであり、なぜこのようになっているかということに答えてくれるのは進化論だけだから、進化を否定する創造論を目の敵にするのはよく理解できるのだが、地球という宇宙の片隅で一回限りおきたことはほどんど偶然の積み重ねの結果なのであるから、人間が大きな顔をしているのも偶然の産物であり、そもそも大きな顔をしていると思っているのがすでに自己中心的見方かもしれず、今われわれがこのようであることを、科学から説明できるはずはないとしか思えない。われわれという存在を説明するものは神でもなく、科学でもないだろうと思う。偶然である。偶然に生じたものを、そのようでなければならないと証明することなどはできない。科学にできることは、偶然がどのように作用したかの説明だけである。たとえば、ヒュームとかアダム・スミスという人物が生まれたのも偶然である。キリスト教が生き残り、西欧を支配する宗教となったことも偶然である。科学が文明の中で今の地位を占めるようになったのも偶然である。
 われわれがたとえばモンゴル帝国の後裔の支配する世界の中で生きていないのも偶然である。しかし、われわれは(少なくともわたくしは)、モンゴル帝国の後裔の帝国の民として生きるよりも、今の日本で生きているほうが幸せであると感じる。それは今の日本で支配的な価値観で目を曇らされているだけかもしれない。もしもモンゴル帝国の後裔の帝国の民として生きていれば、わたくしはなんと幸せな境遇に生まれたのだろうかと思っていたかもしれない。長谷川氏がかつての西欧の所業を批判し、ボーダーレス・エコノミー(今ならグローバル経済であろう)を批判できているのは、批判ということを許容するようになった西欧文明の支配する世界に生きているからであり、一個人の言論の発言を許容する社会に生きているからなのだと思う。

 スミスのいう共感というのは人間に普遍的なものではないだろうと思う。人間の歴史のある時期に、おそらく文明の産物として生まれたものなのだろう。それはいたってひ弱なもので、集団間の憎悪といった感情の前では簡単に吹き消されてしまうような危ういものでしかないだろう。あるいは嫉妬といった強い感情にも簡単に負けてしまうのかもしれない。
 だから、わたくしにはそれがミラー・ニューロンといった脳に普遍的な構造の産物であるとは思えない。しかし、本書の「あとがき」によれば、堂目氏が脳科学者たちの前でスミスの説を紹介したところ、それがミラー・ニューロンとか「心の理論」とかと深く関連していると脳科学者たちがしきりに感心していたのだという。
 少し前のエントリーで、養老孟司氏が、簡単にミラーニューロンなどというものだから、そんな安易な議論では脳科学者が怒るであろうと、半分冗談で書いたのだが、どうも冗談ではなく本気で脳科学者は、スミスの論が脳科学の新しい視座を提供すると思っている気配がある。困った事態である。お互いに相手のことを知らないとしか思えない。
 西欧古典音楽から、それを構成する要素をとりだし「和声学」とか「対位法」という学を構成することはできる。しかし、ベートーベンの譜面を調べて和声構造を分析して、そこから一般構造を抽出し、その原理からあらたに楽曲を作ったら、それがベートーベンの曲に少しでも似るだろうか? ミラー・ニューロンは「共感」を説明するための必要条件のほんの些細な部分でしかないし、それとも関係はないかもしれない。痛みとC繊維(だったかな?)との関係よりずっと淡い関係かもしれない。ミラー・ニューロンは「隣に蔵立ちゃわしゃ腹が立つ」も説明できるのだろうか?
 
 アダム・スミスが立脚していた「人知の限界」という立場からみれば、市場にゆだねればすべてがうまくいくということはありえない。人知もなんらかの解をだす。市場もまた解をだす。変数のきわめて多い連立方程式をどう解くかという問題で、1)方程式をどのように作るか? 2)それをどう解くか? である。社会が比較的単純であり、変数が多くなければ、人知のほうが市場を上回る(少なくとも同等の解を出しうる)ということはありうるのではないかと思う。したがって、ある時期、ソヴィエトの計画経済体制が、市場経済体制の上をいっていたということもありえたのではないかと思う。わたくしが小学校高学年から中学のころ(1960年前後)には、ソヴィエトでは第○次五ヵ年計画とかいうのが着々と進行しており、経済は急速に成長し、宇宙開発ではアメリカに大きく先行している印象があった。そのころの左派に勢いがあったのは、マルクス主義のもつ倫理道徳的迫力ということ以外に、ソ連の現実が計画経済体制の優位性を示しているように見えるという「事実」の力によるところが大きかったのではないだろうか? しかしながら、社会の構造がどんどんと複雑化するにつれて、多元連立方程式の元の数が天文学的に増え、そもそも方程式の構造が「人知」を超えるものとなってしまったため、「市場」はとにかくも解をだしてくるのに対して、「人知」による計画経済では解すらも提供できなくなってきたということなのではないだろうか? 「人知」は3体問題さえ解けない。しかし、コンピュータの機能もまた飛躍的に幾何級数的に向上してきているのだから、「人知」では解がだせない問題についてもコンピュータ・シミュレーションが答えをだすということはありえることだろうと思う。
 おそらく、市場のもつ力のもっともよい例は生命体の構造ではないかと思う。偶然に生じた「生き延びるのに有利である構造」は生き延びる。これは同義語反復であり、なにも言っていないに等しいという批判は昔から絶えないわけであるが、われわれが生命のしくみを知れば知るほど、それがあまりに精緻にできているので、それが偶然の突然変異の産物が選択で生き残った結果だけであるとは、到底信じられないという思いにとらわれる。だからそれらを作った「創造主」という存在を想定したくなるひうとがいるのはまことに当然なことであると思うし、それの変奏版である「人間原理」などという見方がでてくるのも少しも不思議ではない。
 ダーウィンは、自分の進化理論で本当に眼のような複雑な構造が形成されうるのかについて少しも自信を持てなかったという話がある。しかし、ごく簡単な仮定をおいて、コンピュータシミュレーションをすると、かならず眼球構造が生じてきてしまうのだそうである。

 非常に大きな視点でみれば、計画経済体制も市場経済体制も、われわれのおこなう試行錯誤の試みの一つであって、それが現実で試されているということなのであろう。しかし、そもそも試行錯誤というのが人知の限界を前提にしているものなのであるし、ダーウイン的な進化論が試行錯誤そのものである。とすれば、市場経済体制のほうがわれわれの生命の歴史と齟齬をきたさない、ということはあるかと思われる。とはいっても、社会ダーウィニズムという言葉もある。生命の歴史は強いものが生き残こってきた歴史であるとすれば、それと同型である市場社会もまた、強いものが生き残り弱者が排斥されていく仕組みを内蔵するものであるという批判は根強い。最近の格差社会論もまさにその点を指摘しているので、市場経済は弱者切捨てを肯定するものであるとする。堂目氏は、スミスは決してそういうことを肯定したのではなく、人々の間の「共感」ということを自説の基礎においたのであるとする。スミスは断じて市場原理主義者などではない、ということである。
 瞠目氏のいっていることはその通りなのであろう。もしも市場原理主義者がスミスを教祖を仰いでいるなどということがあれば、それはおかしいことであるのだろう。しかし、人知には限界があるのだから、マルクス訓詁学もスミス訓詁学を意味のないことではないかと思う。マルクスにもスミスにも正しい部分も間違った部分もあるというだけのはずである。かつてアダム・スミスという天才がいて人間についての根源的な真理を発見したというような見方ほど、スミスの主張と反するものはないであろう。
 
 ただ、スミスの生きた18世紀では「人知の限界」というのが(キリスト教という宗教の呪縛から解放された人々のあいだでは)かなり共有される思考の前提となっていたのに対し、19世紀になると科学技術の発展などを背景に「人知の無限」という方向が主流となり、ある意味ではキリスト教にかわる宗教となって20世紀にまで続いたが、20世紀の末から21世紀にかけて、ふたたび「人知の限界」という方向に戻らざるをえなくなっているという状況なのではないだろうか?
 おそらく今スミスを論じる意味があるとすれば「人知の限界」ということが、その焦点となるのではないだろうか? そして「文明」である。「共感」ということも「文明」から生じてくるのだと思う。もしも市場原理主義を批判するのであれば、それが「野蛮」であるという視点からではないだろうか? そんなものが批判として力を持つかといえば、まったく無力であろう。市場は力そのもであって、文明はまったく非力である。
 だから堂目氏のこの著作が市場原理主義の力をいささかでも弱めるなどということはありえない。しかし、それでも言っておくことは大事で必要なことなので、市場の力も、言論の力によってではないだろうが、さまざまなわれわれにとってはまだ未知の要因で、将来いつか弱まることもあるだろうからである。要するに未来のことなど誰にもわからない。市場のあり方が、われわれの生存の仕方とあまりに背馳するようなものとなってしまうことがあれば、それの力はいつか弱まざるをえない。
 とすれば大事なことはわれわれの存在の仕方とはどのようなものであるかをつねに考え続けていくことなのだろうと思う。そして、われわれの存在の仕方の一番根底にあるものの少なくとも一つは「人知の限界」ということなのではないだろうか?
 

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よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)

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資本主義と自由 (日経BPクラシックス)

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市民の国について (上) (岩波文庫)

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人間通 (新潮選書)

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正義の喪失―反時代的考察 (PHP文庫)

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