大貫隆訳・著「グノーシスの神話」

     講談社学術文庫 2014年5月
 
 この本は1999年に刊行され、2011年に「岩波人文書セレクション」として復刊されたものが、今回、講談社学術文庫に収められものらしい。ナグ・ハマディ文書・マンダ教・マニ教などの経典から抜粋した文章を収め、それに大貫氏が注釈をつけたものである。以前に筒井賢治氏の「グノーシス 古代キリスト教の〈異端思想〉」を読んで面白かったので読んでみることにした。この筒井氏の本は2004年に刊行されている。今、その文献案内をみるとこの本も紹介されている。しかし、筒井氏が外国語からの翻訳でない日本語で書かれたグノーシスの入門書は自分のものがはじめてと思うと書いていたので、あえてこの大貫氏の本を読もうとは思わなかった。大貫氏は筒井氏の師匠筋にあたるひとのようである。(と、ここまで書いてきて、ブログの過去記事を見返してみたら筒井氏の本の感想は2004年の記事にあった。 id:jmiyaza:20041020 それはいいのだが、この大貫氏の本も2009年にすでに購入していた。買ったきり読まずに忘れてどこかにしまいこんでしまったらしい。すでに何冊もある健忘による二重買いにまた一冊追加してしまった。)
 
 筒井氏の本の感想の時にも書いたが、最初グノーシスということを知ったのは橋本治氏の「宗教なんかこわくない!」を読んだときだと思う。
 この橋本氏の本は1995年7月に出版されていて、同年3月のオウム真理教事件を直接のきっかけに書かれたものである。とんでもない本で、「宗教とは、この現代に生き残っている過去である」とか、ゴーダマ・ブッダの言ったことは「我思う、ゆえに我あり」であって、「自分の人生は自分のものだ」ということだとか、「キリスト教も仏教になる」(仏教は「誰にでも悟りは開ける」とする「仏(ブッダ)=ただの人になる」という能動的な教えなのであるが、キリスト教は神を信じる、つまり受動的な“してもらう”宗教、ところが異端のグノーシスは神(イエス)のようになりたいという能動性をしめしたものなので、キリスト教は今後この方向にいかないと、もう未来はないよ、という話)とか、ドーキンス利己的な遺伝子は「昔霊魂、今遺伝子」で、現代版の輪廻転生説なのであるとか、専門学者からみたら憤懣にたえないであろうような独断と偏見に充ちたことがかかれた本である。
 最初に読んだときには「あっ、丸山真男と!」思った。「どのようであるか」ではなく「どのようにするか」へ。「受動的」から「能動的」へ。とにかく橋本氏の本では、グノーシスというのは「イエスのようになりたい」という宗教だとされている。
 現在においてグノーシスについて考えようとすると、このような補助線を引かないと、取りつく島のない大昔の単なる奇矯な話になってしまう。筒井氏の本は、そういう現代に引きつけて読むやりかたについてはかなり禁欲的であったが、この大貫氏の本は最終章の「結び グノーシス主義と現代」で、現代におけるグノーシス主義の問題について、いろいろと考察している。
 ここでは、その最終章を主としてみていくことにしたい。今から15年ほど前の1999年に書かれた考察であることには注意が必要と思う。
 
 ハンス・ブルーメンブルクというひとが、アウグスティヌス以後のキリスト教的中世全体がグノーシス主義の隠れた影響下にあったといっているという。問題となったのは、グノーシスがもたらした「悪は何処から来たのか」という問いで、その超克を中世のキリスト教は結局果たせず、解決には近代の合理主義の登場を待たなければならなかった、と大貫氏はしている。
 アウグスチヌスはキリスト教に帰依する前はマニ教徒であった。その「予定説」と「原罪説」は実はグノーシス主義の変態なのだとブルーメンブルクがいっているそうである。
 「予定説」と「原罪説」はグノーシス主義に潜在している世界逃避の姿勢がキリスト教思想に流れ込んだものであり、現実の世界を人間にとって益となる方向へ変革することは不可能であるとして、その方向を否定するものであった。そのゆえに中世は人間中心ではなく神中心となった。啓蒙期以降の世俗化により、ようやく、その問題は克服されていったのだ、とブルーメンベルクはしている、と。
 しかし、と大貫氏はいう。その啓蒙に由来する近代合理主義は行き詰まってはいないか? 資源は枯渇し、生態系は破壊され、核の危機があり、地域の紛争は続き、貧富の差は拡大し、一方では飢え他方では飽食している、などなど、近代の啓蒙ははたしてわれわれに益をもたらしたのだろうか? 「現実世界を人間にとって益となる方向に変革する」力であると期待された人間の理性はもはや信頼を失ってしまっているのではないか? だからこその現代のポストモダン状況なのではないか?
 (大貫氏の紹介によれば)宗教学者島薗進氏は、現代を1)キリスト教イスラム・仏教に代表される歴史的救済宗教、2)啓蒙的合理主義、3)ポストモダニズムの三派鼎立の状態としており、「精神世界」あるいは「新霊性運動」などといわれる動向は広い意味でのポストモダニズムの一形態としてあるのだとしているという。
 「精神世界」は「既成の宗教や近代科学、西洋文明をこえようと主張する新しい運動で、霊性を尊ぶ新しい人類の文明をめざすが、科学的な認識と霊性の深化は一致できる」とするものであり、オウム真理教も、日本での「精神世界」や米英での「ニューエイジ」運動と関連したものとして理解することができる、と。
 しかし、グノーシスは世界を「悪」とみるが、「ニューエイジ」では、世界は調和的とみる。その点では、グノーシスはむしろストア派に近いかもしれない、そう大貫氏はいう。
 そして「グノーシス主義症候群」とでもいうべき「グノーシス」気分は、未来に希望を持てない現在の若者のほうに見られるのではないかとする。だが、自分は無垢であり、悪いのは世界のほうであるとする彼らの見方は、グノーシスの「自分自身の中に悪を見る」という姿勢とは根本的に異なっているとも、大貫氏はいう。
 グノーシス主義は究極的には絶対的人間中心主義であり、独我論の体系なのであると大貫氏はいう。この点が、近代のさまざまな問題が一気に噴出しつつある現在のポストモダン状況には、きわめて親和的であると大貫氏はする。しかし、グノーシスに反駁した古代キリスト教会の反異端論者の言説は、それがきわめて問題が多いものであったとしても、「神は人間に対し、人間世界でのできごとに関心をもっている」という見方を鮮明にもっていた点は重要であると、大貫氏はしている。
 
 大貫氏はグノーシス主義を「現代日本人にこれほど分かりやすい思想はないはず」という。「世界と人間が造られたものである」という「創造信仰」とはまったく縁がない日本人には、聖書に描かれた絶対的超越神ほど理解しがたいものはなく、グノーシス主義の「人間即神也」の思想はずっとわかりやすいはずである、と。
 グノーシスの思想を理解するために肝要なのは、そこでいわれる神が聖書の一神教の神をも超える超絶した神であるといった方向の誤解をしないことであり、「神とは実は人間の別名である」ことに気づくことである、それがわかれば、超越なき現代にとって、これはとても理解しやすい思想のはずである、そう大貫氏はいっている。
 
 先日、戸田山和久氏の「哲学入門」を読んでいて、「この世はようするに、物理的なものだけでできており、そこで起こることはすべて煎じ詰めれば物理的なもの同士の物理的な相互作用に他ならない、このように考える立場は、政治的立場が何であれ唯物論だ。で、現代人の多くは、この世のありさまはおおむね科学が教えてくれるようにできあがっている、という科学的世界像を受け入れているのではないかな。この限りにおいて、われわれはすでに程度の差はあれ唯物論者なのである」という部分に躓いた。
 世界は科学の成果によって合理主義の方向にむかうのではなく、科学の成果を享受しながらも、平気で非合理の方向にむかっているのではないかとわたくしには感じられるからである。前世だとか来世だとかを信じるひとは以前よりも増えてきているように思う。(「日本熔解論」での三浦展氏によれば、「人間は死ぬといつかまた別の人間や生き物として生き返る」と信じているのは携帯を使う女子高生で47.1%(男子では37.8%)、PCを使う女子高生では31.0%だそうで、細木数子美輪明宏江原啓之の言っていることを信じるものも多く、江原啓之を信じるものは携帯女子高生の40%以上なのだそうである。)
 「哲学入門」のあとがきで、戸田山氏は執筆中に母が死んだが、唯物論者だから「本書を母の霊前に捧げ」たりはしないといっているが、「科学の世界」(唯物論の世界)になっても、相変わらず葬式はおこなわれるだろうし、墓というものも作られ続けていくと思う。
 医療の世界では「喪の儀式」と呼ぶが、人間は(あるいは人間以外の生き物も)「生きもの」から「モノ」へ、ある瞬間に移行するのではなく、ある期間の「生きて」はいないが「モノ」でもない時間を必要とする。死の定義、あるいは死亡の時間の決定というのはきわめて曖昧なもので、通常は充分に死んでいる時間をそれとするが、個体の死と細胞の死が一致しないことはいうまでもなくて、「死」後も爪は延び続けるし、HeLa細胞は今でも生きている。
 だが、そういうのは唯物論的な議論であって、内田樹さんは「呪いの時代」で原発供養などというとんでもないことを書いている。原発神社、原発祭りなどをおこなっていたら原発事故はおきなかったのではないかといっている。こういうやりかたをしたときに日本人は一番真剣になるのだから、と。そういう供養をすると「恐るべきもの」が「恐るべきもの」であることが脳裏から去らず、絶えざる緊張のもとで仕事をすることになる、と。わたくしが職場の責任者だったときにある建築工事をおこなうことになったが、神主さんが来て、祝詞をあげ、榊をふる(というのかな?)地鎮祭を厳かに?とりおこなった。これなしには現場の人たちは絶対に仕事をしてくれないのだそうである。これは「非科学的」である。しかし、これが現場からなくなることはまずないのではないだろうか?  
 
 「現代人の多くは、程度の差はあれ唯物論者」なのだろうか? 戸田山氏は「分析哲学者たちが、「われわれの直感」とか「われわれの判断」と呼んでいたものは、高学歴白人男性のそれにすぎない」という実験哲学からの批判を紹介している。戸田山氏の論で「現代人」といわれているのは「高学歴」のひと・インテリ・知識人なのであって、決して現代に生きているひとを代表するものとはいえないと思う。それに知識人だってオカルトの方へいくひともいるわけである。
 渡部昇一氏は、三島由紀夫がああいう死に方をしたのは、そうすれば二・二六の英霊に会えると信じたからであって、頭がいい人間はオカルトへはいかないなどと考えるから三島事件が理解できなくなるのだと書いていた。渡部氏のその文は「戦後啓蒙のおわり・三島由紀夫」と題されていたが、そこで戦後啓蒙といわれているものが石坂洋次郎の「青い山脈」である。「古い上着よさようなら」である。そして「青い山脈」のころには遠く見通せていた山脈が、まわりにはりめぐらされる壁によって見えなくなってきていることを描いたのが三島由紀夫の「鏡子の家」で、そこで「戦後啓蒙は終わった」のだというのが渡部氏の論であった。
 西欧の啓蒙思想家が戦った相手はキリスト教的な何かである。しかし大貫氏もいうように、日本にはキリスト教的大伽藍はまったく存在しなかった。それで日本の啓蒙家たちが敵手としたのが、「封建的」とか呼ばれた何かであり、端的に「古い」ものであった。日本は古い、西洋は新しい! 最近はさっぱりきかなくなったが、わたくしが子供のころはやたらと「封建的!」という言葉が使われたものである。「古い!」というのもあったように思う。見合い結婚は「封建的!」で恋愛結婚が「民主的!」? 「ナウい」という言葉も死語であろうが、そういう風土であるからこそ坪内祐三氏の「古くさいぞ私は」という本のタイトルも生まれる。(これはもちろん荒川洋治氏の「あたらしいぞわたしは」のもじりなのだけれど、「美代子、あれは詩人だ。/石を投げなさい。」荒川洋治。「美代子、あれは哲学者だ。石を投げなさい。」なんてね。) 

 現代人の多くは、科学あるいは科学技術について極度に両価的で、科学(というよりは技術?)なしではいられないが、科学の思想については関心がないか、鼻をつまんでいやいや認める方向のように思う。
 科学はモノだけにかかわるのであり、こころとはかかわらない(かかわれない?)と感じていて、こころの方面については科学とはまったく別の原理が支配しているという受け取りかたのひとのほうが多いのではないだろうか? スマホという科学技術のかたまりのような機械を使いネットを通して自分の運勢を見ることになんの矛盾も感じないひとも多い。
 また科学は人間がいままで抱いてきた「道徳」や「倫理」を破壊する方向にいくと感じているひともいる。ではその「道徳」とか「倫理」をまもるにはどうするかといえば今では「工学的」方法なのである。たとえば監視カメラとか。
 科学が普及すればわれわれはそれによって唯物論的になっていくという戸田山氏の見解は随分と楽観的なもののように思う。普及してきているのは科学的見方ではなく、科学技術が生んださまざまな製品と技術のほうだけなのではないだろうか?
 現在ではかなり旗色が悪いけれども大貫氏がこの本を書いたころには、「ポストモダン思想」というものがあり、(インテリの間だけであっても)一時はかなり流行したものである。流行したのはやはりそれだけの理由があったのだと思う。
 また一方では、インテリならざるひとはいまだ「前世」や「来世」の信者であるし、インテリだって、にオカルトなどの方向にいかないというものでもないし、そもそも「ポストモダン思想」というのがオカルト思想の一種というひともあるかもしれないと思う。グノーシスの思想も紀元2世紀ごろの都会の知識人の思想であったらしいから、今ならポストモダン思想家になっていたようなひとが、その当時はグノーシスの思想家になったのかもしれない。
 大貫氏の本ではニューエイジ運動としては、チャネリングといった方向がとりあげられているが、わたくしの若いころはニューエイジサイエンスとよばれるものも結構盛んで、それがいっていたのは反=デカルト主義であった。デカルトの合理主義、あるいは機械的な見方が諸悪の根元なのであるが、そのデカルト主義は科学の進展によって克服されたというようなことがいわれていた。一番強調されていたのは不確定原理とか観察者問題といった量子力学からの知見で、あとはゲーデル不完全性定理といったこともいわれていたように記憶している。
 要するにデカルトから出発した「機械論で動く肉体と、機械を超越した「魂」を唯一そなえる人間」といった二元論が、最新の科学によって否定され統一されるというようなことで、機械論的合理主義への反発が露わであったが、同時に最新科学への信仰も明らかであった。「ホロン」というようなこともいわれて、要素還元主義への嫌悪も目立った。G・ベイトソンも広い意味でのニュー・エイジの運動のなかにいたひとなのであろうと思う。
 しかし、このニューエイジが盛んであった1960〜70年代にくらべても、科学への信仰というのは現在ではさらに失われてきているように思う。快適と便利という一点においては科学を受け入れるが、科学の世界観そのものにはせいぜい無関心、あるいは積極的には反発というのが多くのひとの方向なのではないだろうか? 科学といっても技術の部分だけを許容するだけで、科学的なものの見方は浅薄とし、それより「心」の方を上位におく見方のほうがはるかに深いとする見方は少しも衰えているわけではなく、広い意味でのニュー・エイジ的な見方は現代においても盛んであるように感じる。最近、「人は死なない」とかいっているお医者さんもいるようであるが、遅咲きあるいは狂い咲きの「ニューエイジサイエンス」派なのであろう。科学の普及によりわれわれは唯物論的になっていくというのは本当なのだろうかと疑問に思う。
 この本が書かれた時代を反映して宮台真司氏の「終わりなき日常」の話もでてくる。成熟した社会のなかで「人間も社会もこれから大して変わりはしない」、そういうサエない日常がひっくり返ることなくこれから続いていくだろう、その中で生きるという「極度に陰鬱な世界像」はグノーシスの描いた世界像に近いと、そう入江さんというかたがいっているのだそうであるが、当時の「ブルセラ」少女たちが自分たちは無垢でイノセンスであると信じていることも同じであるとする入江説を、楽天的に「悪いのは世界で自分は無垢」とする姿勢はグノーシス思想ではない、自分のなかにも悪をみるという姿勢がグノーシスなのだから、と大貫氏はしている。
 今の若いひとたちは、「人間の社会もこれから大して変わりはしない」どころか「世の中これからどんどん悪くなる」と思っているのではないかと思う。「科学」が世の中をよくしているという思いはまずないだろうと思う。そういう人たちが科学が普及により唯物論にいくとは到底わたくしには思えないのである。
 大貫氏がいうように、グノーシス主義は「現代日本人に分かりやすい思想」なのであろう。日本人は「世界と人間が造られたものである」という「創造信仰」とはまったく縁がないのだから。
 おそらく江戸時代にわれわれはまったく世俗化し、超越的なものへの感受性をなくした。だから、聖書に描かれた絶対的超越神は単なるお伽噺としか思えず、グノーシス主義の「人間即神也」のほうがずっとわかりやすい。
 問題は、そういうわれわれにとってすべては「あれはあれ、これはこれ」であることで、世界を統一的な原理で理解しようとする姿勢はきわめて乏しいことである。戸田山氏は「哲学入門」で「哲学はすべてを一枚の絵に描き込むことを目的とする営み」であるとして「自然科学的な世界像」という一枚の絵にすべてを描き込もうという試みを示している。「文理股裂き状態は気持ち悪いぞ」という。しかし非常に多くの日本の自然科学者は「文理股裂き状態」を少しも気持ち悪いとは思っていないと思う。それどころか「理」の分野だけにでも統一的世界像があると思っているかどうかさえ疑問であると思う。だからこそ日本の進化学者は社会生物学論争に少しも興味を示さなかったし、そういうことを口角泡を飛ばして論じているあちらの学者さんたちを「難儀なことですなあ」という目で見ていたのだろうと思う。
 科学は西欧のギリシャの自然哲学とキリスト教的世界観の中から生まれてきた。世界には統一的原理があるはずというイオニア自然哲学と神が造りたもうた統一的な法則があるという信仰が科学的探求の原動力になった。結果としてその探求が信仰の基盤を崩していったのかもしれないが、それでも世界には統一的な法則があるという信念は崩れなかったはずである。「一枚の絵」のなかにすべてを描き込みたいという希求は残った。だから二元論の克服が課題となり、一元論が求められる。戸田山氏の「哲学入門」も完全な西洋哲学の伝統の嫡流としてあり、西洋哲学史に正当な位置をもっているのであろう(そこにでてくる名前はほとんどが西欧の哲学者である)。しかし、そうまでしてなぜ「一枚の絵」のなかにすべてを描きこまなければならないのかという出発点が理解されないと、この本の根底をささえるパッションが理解できなくなる。戸田山氏がいうのは、われわれはもう科学を受け入れるようになってきているのだから、その科学の成果に立脚する科学的世界像のなかで人間とは何かを考えていこうということなのだが、科学がそれをできるまで進んでいるのかという一番肝要の点が一切考慮されていないので、非常に薄弱な根拠で強引に議論が進んでいくという印象がとても強い。わたくしにはデネットの論はある程度理解できる気がするのだが、それはデネットが今まで人文学からしか説明できないと思われてきたことも科学の立場からこのようにきれいに説明できますといっているのではなく、このように考えればひょっとして科学の立場からもまったく説明できないわけではない。だから人文学の独壇場でなく、科学にだってそこに参加する余地はあるという方向の議論のように思えるからである。「文」が神聖にしておかすべからずといった領域ではすでになく「理」にも参加する余地のある分野になってきているというのであればまったくその通りであるとわたくしには思えるし、これからさらにそうなっていくと思う。しかし現在のところは原理的にはそのようにいえるという段階であって(つまり、「文」の側の独断のまどろみをさまさせるための強力な薬ではあっても、「理」(科学)によって今まで「文」がしてきたことを代替できるところまではまったく来ていない段階)、「文理股裂き状態」が少しづつ解消していく漠然とした方向が遠い将来に見えてはいるのかもしれないが、もう「文」はいりませんね、引っ込んでいてください、という状況ではあるはずではないにもかかわらず、なんだかひょっとするとそんなことを考えているのではないかなと思えないでもない書き方に見えて、強い違和感が残る。
 なんだか大貫氏の本から離れてしまったが、戸田山氏の「哲学入門」を読んで感じだ違和感は何によるのかということを最近考えているので、こうなってしまった。しばらく、この状態が続きそうである。
 

グノーシス (講談社選書メチエ)

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