内田樹「私家版・ユダヤ文化論」

  文春新書 2006年7月20日初版

 
 ユダヤ文化全体ではなく、「なぜ、ユダヤ人は迫害されるか」という問題のみを論じた本であるという。
 当然それについては、「迫害する側」からの見方と「迫害される側」の見方の二つの対立する立場からの回答がありうる。本書でもその双方が論じられるわけであるが、その二つの見方がどのようにつながるのかが、わたくしにはよくわからなかった。
 「迫害する側」の論理は「寝ながら学べる構造主義」(文春新書 2002年)の延長で論じられているように思う。一方、「迫害される側」の論理は「レヴィナスと愛の現象学」(せりか書房 2001年)の延長線上である。その二つの部分は文体までもが異なっている。

 前者の文体:「サルトルの理路は明快である。理路が明快であることは(仮に間違った主張である場合でも)よいことである。明快なおかげで、私たちは比較的簡単な検証手続きによって、ここには「たいへん適切な知見」と、「それほど適切でない知見」がともに含まれていることを知ることができる。」

 後者の文体:「そのつどすでに遅れて登場するもの。/ この規定がユダヤ人の本質をおそらくはどのような言葉よりも正確に言い当てている。そして、この「始原の遅れ」の覚知こそ、ユダヤ的知性の(というよりも端的に知性そのものの)起源にあるものなのだ。/ この言明と、前説の最後に記した、「反ユダヤ主義者はユダヤ人をあまりに激しく欲望していた」という言明の二つを併せて読んで頂ければ、私が本書で言いたかったことはほぼ尽くされている。/ 「ほぼ尽くされている」とは言っても、読者のみなさんにはやっぱり何のことだかよくわからないだろう。残された紙数で、できる限りの説明を試みたいと思う。(中略)ユダヤ人はむしろ、私たちが「被造物」としてこの世界に現に到来したという原事実から出発して、「造物主」が世界を創造したという「一度として現実になったことのない過去」を事後的に構築しようとしていたのである。/ たいへんにわかりにくいことを書いていることは私自身にもよくわかっている。けれども、もう少し我慢して読み続けて頂きたい。/(中略)まず、罪深い行為が犯され、ついで、それについての有責感が外部に「投射」されて「恐るべき父」の像を結び、それに対する恐怖に動機づけられた慰撫の試みが共同体の倫理や「神」の概念を導出する…という「原父の物語」を拒絶する人々がいたということがおそらくは反ユダヤ主義の起源にある事実なのである。」

 前者は他者に向かって書かれた啓蒙の文である。しかし、後者は自分という読者にむかって書かれた自己説得の文である。
 本には二種類ある。自分にわかっている情報を他人に伝えるための本と、自分が何かをわかるために書く本である。そういう二種類の本が一冊になっているから、本書は奇妙に分裂した印象をあたえる。前半は教師が書く一般読者あるいは生徒のための啓蒙の書、後半は自分が自分のためだけに書いた本、あるいは対話の相手をレヴィナス師ひとりに限定した問答の書となっている。
 この本のつらいところは、日本人はユダヤ人を「迫害する側」でもないし、またユダヤ人でもない以上、当然「迫害される側」でもないということである。内田氏も言う如く「日本人とユダヤ人の間には何の関係もない」のである。
 何の関係もないのは、日本人が一神教的伝統とはまったく無縁のところで生きてきたということとほとんど同義である。一方レヴィナスが敵とするのはキリスト教的(とくにプロテスタント的)な「神」概念なのであり、そういう「敵」がいないところではレヴィナスの論理は空転するほかないはずなのであるが、内田氏はレヴィナスに心酔しているので、どこかでレヴィナスを日本に着地させなければならない。
 日本が西欧社会にとにかくも無縁でいられなくなったのは近代になってだから、内田氏は「迫害する側」の論理とはほとんど西欧近代の論理と同値であるとし、日本もその西欧近代に組み込まれた以上、「迫害する側」と無縁ではないのだとして、「何の関係もない」はずの日本人とユダヤ人のあいだに関係を作り出し、日本人が無意識におこなっている「迫害する側」の論理の根にある根源的な問題を指摘するものとしてレヴィナスの思想を差し出すのである。
 つまり本書がいいたいことは、レヴィナスの思想は日本人にとっても無縁のものではない、それどころか現代日本の根幹にある問題と深くかかわるのだ、ということなのである。反ユダヤ主義というのはきわめて歴史の長いほとんどキリスト教の歴史と同値くらいの長い歴史をもつものであるはずなのであるが、本書ではそういう論理の必要上、西欧近代の反ユダヤ主義のみに大きな部分が割かれている。その結果、「なぜ、ユダヤ人は迫害されるか」という問題の本当の根っこには回避されてしまっているように思われる。
 前半の「迫害する側」の論理の部分は、いつもの内田節、頭のいい樹くんであり、きわめて明快な論理がたどられる。ソシュールを援用した例の分節理論によって、ユダヤ人という言葉は、それが何であるかということではなく、何々ではないのだということを指し示す言葉として作られたと主張する。
 ヨーロッパ近代の啓蒙思想家が、その明るい光ではまったく理解できない不気味なもの、根本的に開明思想と背馳する暗いものを発見したとき、それを「ユダヤ」と名づけたという。もう少しくだけた言い方をすれば、古来からユダヤ人というものは存在したが、それに西欧近代の人びとが抱くようなイメージを発見したのは、近代の啓蒙思想家であるということなのである。その論理を貫徹した人としてJ−P・サルトルの論が示される。これは典型的な社会構築主義による論であり、ボーヴォワールの「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と同じ論理構造であることがいわれる。(社会構築主義は反啓蒙、反近代なのであるから、西欧の近代も反近代も二つながらともに否定するものとして「ユダヤ」があることになる。だから「ユダヤ」はあるところでは反西欧近代であり、別のところでは反ポストモダンとなる。「ユダヤ」にはきわめて合理的なところと、きわめて神秘的なところがある。むしろ、きわめて神秘的であるが故に合理的なのであるというアクロバティックな論理が本書の肝なのであり、それを提示し読者に納得してもらうというのが執筆の目的でなのであろうが、それが成功しているようにはみえない。)
 ユダヤ人を“発見”することにより、ヨーロッパ人はユダヤではないものとしてのヨーロッパというものをはじめて自覚したという。
 そして、日本人がユダヤ人を発見したのは皇国思想によるのであるという。「神に選ばれた民」としての日本民族ユダヤ民族ということである。
 この世界はユダヤ人の陰謀によって動かされているという「陰謀史観」は世界のあらゆるところで綿々として続いている。陰謀史観は近代以前のはないものであり、19世紀的近代人のあらゆる事象は因果律で説明できるという機械論的世界観が産みだした物である、と内田氏はいう。
 内田氏の論で説得的であるのは、反ユダヤ論には濃厚に近代主義批判がふくまれているという指摘である。ブルジョワ的な拝金主義、成金趣味、出世主義、科学技術万能主義、軽薄な都市文明、これらをもたらすのはユダヤ人なのであり、緑豊かな田園、全員が慈しみあう共同体、自身の義務に忠実な貴族、勇敢な兵士などといったものは非ユダヤ的なのだという。これはほとんど日本のマスメディアの社会批判そのものではないかという内田氏の皮肉は痛烈である。反=グローバリズムというのは、ほとんど反=ユダヤ主義なのではないか、と。反近代主義ロマンチシズムの回顧趣味は都市化・近代化の産物なのである、と内田氏はいう。だから西欧における反ユダヤというのは、近代化=都市化の趨勢への嫌悪なのである、と。なぜならユダヤ人は農耕世界から放逐されやむなく都市の中でいきるしかなかったのだから。
 ここらあたりまでの内田氏の論は説得的である。だが氏が、社会は常に「供儀」として捧げられる犠牲者を必要としており、西欧においてはその対象としてユダヤ人が選ばれたという説明を辻褄があいすぎる科学的な説明として退けるあたりから、本書の説得力は急激に失われていく。ユダヤ人はそういう世界のあまたある差別されるものたちのワンノヴゼムなのではなく、まったく特別な何かなのだと主張しだすあたり(p165あたり)から、本書は公的な啓蒙書から私的な自分のための本へと変化していく。ユダヤの問題は、現実の次元の問題ではなく幻想の次元の問題なのだというのである。
 ユダヤ人たちは、「ある「民俗学的奇習」として、「自分が判断するときに依拠している判断枠組みそのものを懐疑すること、自分がつねに自己同一的に自分であるという自同律に不快を感知すること」を彼等にとっての「標準的な知的習慣」に登録した。/ いったいどういう歴史的経緯でそのような民族的合意に至り着いたのか、私には想像もつかないけれど、そう仮定する他に説明のつけようがないのである」というような無茶なことを言い出す。ユダヤ人全員が知識人なのであり、ユダヤ人全員が埴谷雄高なのである、というのだからもうなんとも早である。ここらへんはもう内田氏は読者を説得することを完全に放棄している。というか、そもそも自分でさえ充分には説得されていない。それでも、自分はこう思うのですが、それでいいでしょうか、レヴィナス師よ!、というのが、180ページから後の論なのである。
 ユダヤ人が知的なのは、民族に固有の聖史的宿命のなかで、そういうものを彼等が習得し、涵養しなければならなかったからなのだという。かれらは普通でないことを聖史的宿命として主体的に引き受けたのである、という。「選ばれた」ということは「特権」ではなく「責任」なのだという。ユダヤ人は非ユダヤ人よりも世界の不幸について多くの責任を引き受けなければならない。神はそのためにユダヤ人を選ばれたのだ、と。個別的・歴史的なエスニシティナショナリティを脱ぎ捨てて、「端的に人間であること」を目指すのは、諸国民のうちただユダヤ人だけであるのである、と。
 「近代化したヨーロッパは近代が産み出す毒を、自分が産み出したものであるにもかかわらず、それをユダヤの産み出した物として自分の責任から目をそらそうとすたのである」ということを、ノーマン・コーンという人がいっているのを紹介したあと、そういう説明方法はフロイトが「トーテムとタブー」で用いた論法そっくりである、と指摘し、しかしコーンのフロイト解釈は浅いと内田氏はいう。だが、それに代替するものとして内田氏が示す超=フロイト解釈は説得的なものとはとても思えない。フロイトのもともとの説自体がいくら読んでも奇矯としていいようのないものであり、よくそんなことを考えたよ、というようなものであるのに、その裏を読もうというのであるから、奇矯の三乗くらいの印象となる。それで、氏の結論:なぜユダヤ人はあれほど憎まれたのか、それは「反ユダヤ主義者はユダヤ人をあまりに激しく欲望していたから」というもの。しかし、なにもフロイトなどを仰々しく持ち出さなくても、そのことは日本では昔から衆知のことである、いわく《いやよいやよも好きのうち》。
 「そのつどすでに遅れて登場するもの」(レヴィナスのいう「始原の遅れ」)という以上に正確なユダヤ人の本質規定はないと内田氏はいう。そこから「過失を犯していないにもかかわらず、罪の意識を抱くこと!」「人間はあらゆる行動に先んじて、すでに有責なのである」ということが導かれるのだそうであるが、もしもそういう思考法がそのままユダヤ人なのであるとしたら、ユダヤ人というのはまことにいやな奴であって、この世界からいなくなって欲しいというひとがいるのも、まことによくわかる話であるように、わたくしには思える。
 文明というのはそのような馬鹿馬鹿しい御託を克服することのうちにあるのではないだろうか? 「罪の意識」というのはキリスト教が世界にもたらした最悪の遺産であると思うが(特に、自分は「罪の意識」を持つがゆえに、「罪の意識」をもたないものを憐れむという屈折した《劣等意識と優越意識の複合》)、ユダヤ教の内のすでにその芽が萌ざしているのであろうか?
 以前、内田氏の「レヴィナスと愛の現象学」(せりか書房 2001年 以後「愛の現象学」と略す)を読んだときには、レヴィナスの思想として内田氏が提出するものに、そのような臭みは感じなかった。むしろ反キリストとしてのスラブに通じるような「無垢」をレヴィナスはいっているように思った。反キリストとしてのスラブというようなわくたしの見方は福田恆存経由のロレンスなのであるが、われわれは「カラマゾフの兄弟」のアリューシャを嫌な奴とは思わない。しかし、ここで内田氏がいっているユダヤ人は嫌な奴としか思えない。内田氏の論に従えばユダヤ人は選民意識に凝り固まっているとしか読めないからである。「愛の現象学」を読んだときには、レヴィナスは選民意識の対極にあるひとであるように思えたのだが…。
 内田氏の立論法の困ったところは、《「罪の意識」というのはキリスト教文明が世界にもたらした最悪の遺産であると思う》などとわたくしがいくら言っても、それは実は「罪の意識」をもつことを強くもとめているからなのだ、という「寝ながら学べる構造主義」でいう不敗の論理の中で展開されてしまうことである。反ユダヤ主義者がユダヤ人を嫌えば嫌うほど、それは反ユダヤ主義者が本当は(無意識のうちに)ユダヤ人をあまりに激しく欲望していることを証明することになるという論理は、論理的には反論不能である。
 これがフロイトの発明した無意識論の困ったところで、フロイトの論の正否を論じると泥沼に陥るばかりであるので、脳において意識とはどのような状態を反映したものであるのかという《事実》の次元から、フロイトの論の前提を議論していくしかない。そして、いくらそうはいっても、構造主義の立場からは、生の《事実》などというものはないことになるのであるから、相変わらずフロイトの論は無傷のまま残ってしまう。
 本書の後半部分はほとんどがレヴィナスの論のかなりこなれの悪い紹介である。レヴィナスが全人類のものであるとした有責論をユダヤ人に限定した説であるとしているように読めてしまうため、これだけ読むとレヴィナスの論を誤解してしまう人が多くでるのではないかと思う。もともと難解といわれるレヴィナスの思想についての内田氏の見方も特殊なのであり、だからこそ《私家版》なのではあるが、「レヴィナスがこういっている」ということが、だからユダヤ人は本当はこうなのだ、という説明になるというのは、レヴィナス信者以外には通用しないことではないだろうか。

 いふまでもなく、トルストイドストエフスキーとの偉大はその原罪意識にさゝえられてゐる。チェーホフにはそれがない――かれは生まれながらにして無我の善人であり、生まれながらにして教養人であり、生まれながらにして野性を缺いてゐた。といふことは、歴史と伝統をもたなかつたといふことであり、階級のそとにあつたといふことにほかならぬ――なぜならば歴史と伝統とは悪と罪との堆積であつて、その凝固点であり収縮点であるからだ。チェーホフは完成から、終点から出発してしまつたので、模索し、かなぐりすてておしのけなければならぬ堆積物がごく少量しかなかつたし、またそれを除去する近代的方法を習得してゐたのである。かれのしごとは奴隷の血を搾りすてることだけであつた。それをやってしまへば――原罪などはばからしいことだ、とかれは考へてゐた。チェーホフはまちがつてゐたのだらうか。やはりかれは二流作家にすぎぬのであらうか。
 が、ほかでもない。チェーホフはさういふ思考法に――いはゞ西欧の近代精神に一矢をむくいてゐるのである。原罪を仮説としなければ偉大と栄誉を獲得しえないヒューマニズムとはなにものであるか。稚児のごとき無我の純粋な人間が天才や偉人や賢人よりも尊ばれぬ世界、あまつさえ嘲笑と軽侮とにあまんじなければならぬ世界、それが存在するかぎり、藝術も科学もよくなりはしない。あういふ世界が存在するかぎり純粋な魂は孤独のうちにじつと「たへしのぶ」ことよりほかに道はないのだ。(福田恆存チェーホフ福田恆存評論集2 新潮社 1966年)


 わたくしには「愛の現象学」で読む限りにおいては、レヴィナスは原罪の人ではなく無垢の人であるように思えた。ここで福田恆存が描くチェーホフのようなひとがレヴィナスなのであるといったらあまりに奇矯な理解であろうか? もちろん奇矯なのであるが、「愛の現象学」では、レヴィナスの主張はユダヤ人についての議論ではなく、人間すべてに共通した問題として提出されているように読めた。つまり人間はみな「神」からみれば平等である存在なのであり、まさに選民意識とは正反対のものがそこから立ち現れてくるように思えた。
 ゲイはフロイトのことを「神なきユダヤ人」といったけれども、神なきという形で神はいる。西欧世界においても「神は死んだ」のかもしれないけれども、「神は死んだ」という形で神は生きている。否定すべきものがあるということは、それはまだ存在するのである。
 しかし日本人はずっと「神」なしでやってきた。文明開化で西欧を受け入れたとき「神」をもまた受け入れたのだろうか? 「科学技術」も「合理主義」もその背景には一神教的世界観がある。それはその通りなのであろう。しかし一神教的世界観は「科学技術」と「合理主義」を産むことでその役割を終えて、この世から退場してはいけないのだろうか? ユダヤ教の伝統に由来するタルムード解釈の歴史が「知性」を産んだのかもしれないが、「知性」を産むことでその役割は終わったということはないのだろうか? 
 何で今さら、「神」という言葉をもちだす必要があるのだろうか?
 たとえば、次のような言い方。

 同じことは「神」という概念についても言える。「神」というのは定義上人知を超えたものである。「神」を「神」と名づけた私たちの知力そのものが(その不調や欠陥こみで)「神」によって賦与されたものである以上、人間が「神」について過不足なく語るということはありえない。

 という本書22ページの文など、「神」という言葉がある以上「神」はいる、というとんでもない議論であるように、わたくしには思える。まず「神」という言葉でユダヤキリスト教的な一神教的全能神が何の根拠もなく導入されてくる。こういう文章を読むと、グノーシス主義でいわれる《ユダヤ教の神(=創造神)は大したことのない存在であり、それとは別に高貴な神(=至高神)がいるという見方》のほうがずっと清々しく感じられる。
 倉橋由美子チェスタトンを評して、言っていることには全部賛成だけれども、チェスタトンの議論は神なしでは成立しないのだろうか、というようなことを述べていた。レヴィナスの議論もまたユダヤ教の神なしで存在させることはできないものなのだろうか? もちろん、キリスト教なしのチェスタトンユダヤ教なしのレヴィナスはありえない。そうなのではあるが、なんで今さら「罪の意識」をもたなければいけないのだろうか?
 もちろん、内田氏は罪の意識を持ちなさい、などといっているわけではない。「始原の遅れ」というこなれの悪い言葉でいわれるユダヤ人の時間感覚はわれわれには決して理解できないものなのであることを理解しなさい、というのが内田氏の主張なのである。その通りであって、「始原の遅れ」というような論はわれわれには言葉の遊びであるとしか思えない。それが腑に落ちるものとして納得できることなど想像もできない。
 「ある「民俗学的奇習」として、「自分が判断するときに依拠している判断枠組みそのものを懐疑すること、自分がつねに自己同一的に自分であるという自同律に不快を感知すること」を彼等にとっての「標準的な知的習慣」に登録した。/ いったいどういう歴史的経緯でそのような民族的合意に至り着いたのか、私には想像もつかないけれど、そう仮定する他に説明のつけようがないのである」という議論を受け入れられるかどうかである。日本人は誰にひとりこのような法外な議論に説得されるひとはいないであろう(内田氏を除けば?)。それはいい。ユダヤ人と呼ばれるひとたちはこの議論を受け入れるのだろうか? そもそもレヴィナスの論をユダヤ人と呼ばれる人たちは受け入れているのだろうか? 
 わたくしは哲学的な思考法というのは、ある種の変わった人の採用する「奇習」であるとは思うが、「民俗学的奇習」としてある集団が全体としてそのような「奇習」を採用することはありえないと思う。レヴィナスがもしも内田氏のいうように、ユダヤ人がそのようなものであると主張しているであるとすれば、ユダヤ人自身がそのことを迷惑に思うということはないだろうか? 
 日本人は特殊であると主張する人がいる。そのことを迷惑であると思う人もいる。どういう人を日本人と呼び、どういう人をユダヤ人と呼ぶのかという問題は擱いておくとして、日本人とユダヤは違う、しかしそれでも同じ人間であるということでなぜいけないのだろう。あるいは内田氏の議論は大きな孤を描いてそこに着地することを構想するものなのであるが、わたくしにはそれが見えないだけなのかもしれないが。
 本書の前半は集団心理の問題を扱い、後半は個人の倫理の問題を扱っている、と見えるのだが、後半部分はどうしても、ユダヤ人という集団に固有の倫理があるように読めてしまう。ある集団が共同でもつ倫理という前提自体がきわめて危うい(いくらなんでもそれを遺伝的であると主張するのではないだろうが、ユダヤ教の経典をレヴィナスのように読むことが普遍的を持つことはありえないのだから、合理的な説明はありえない。それはたとえば奇跡によるとでもいうしかなくなるのであり、そのことが神の存在を証明するという方向にいくならば、「始原の遅れ」と正反対になってしまう)。
 ユダヤ人があのようであることは、合理的には説明できないから、「神」がそれを作ったのであるというのは、あんまりな弁神論である。なぜだかわからないけれども、そういう人たちがいるということにしておくほうが、内田氏のいう「デスクトップに並べておく」ようにしておくほうがいいように思う。本書で内田氏はあまりに性急に問題を整理したがっているように思える。
 内田氏はレヴィナスに人間に普遍的な問題を見出したのだと思うけれども、本書ではそれをユダヤ人の問題として論じるというやりかたをとってしまったため、ローカルな議論に収斂してしまったということはないだろうか?
 

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)