内田樹「知に働けば蔵が建つ」
[文藝春秋 2005年11月25日初版]
読んでいて、自分の関心領域と重なるひとがたくさんでてきてちょっとうれしくなる本であった。
グレゴリー・ベイトソン(30歳ごろ熱中して読んだ)、マイケル・ポラーニー(栗本慎一郎さんがアクティブだったときに盛んに推奨していた。それで買ったけれど、あまり読んでない)、山田昌弘「希望格差社会」(今年のはじめにとりあげた)、オルテガ(これは西部邁さんが右に落ちる前に盛んに喧伝していた。これは読んだ。最近はオルテガ・イ・ガセーというようである。昔はガセットだったように思うが)、ニーチェ(実はあまり読んでないのだけれど)、ピエール・ブルデュー(まだ読んでないけど、いづれ読むつもり)、エマニュエル・トッド「帝国以後」(これは養老孟司推薦で読んで大変面白かったので、以前ここでとりあげた)、加藤典洋「僕が批評家になったわけ」(これも前にとりあげた)など本書でのキーとなっている本の相当部分がこちらの関心と重なっている。刈谷剛彦「階層社会と教育危機」という本だけは知らなかった(あるいは山田昌弘氏の本のどこかで紹介されていたのかも知れないが)、今度読んでみようと思う。ある本を読んで、そこで何冊か次に読んでみたい本が見つかったら、それでその本は元がとれたことになる。
内田氏が、相当部分はわたくしがすでに読んでいる本をネタに一冊の本を作っていまうことができるのも、レヴィナスという不動の支点をもっているからなのであろう。この本の最後のほうで、加藤典洋がなぜ内田樹がある年齢まで世にでることができなかったかということにもっともらしい理屈を述べているが、何、子育てに忙しかっただけなどと韜晦しているが、レヴィナスという不動点の仕込みに時間がかかったということなのではないだろうか?
それで、話が最初の教養論に繋がる。内田氏によれば、教養と雑学はまったく異なる。教養とは情報ではない。情報単位の間に関係性を発見する力である。そこで内田氏はポランニーの「暗黙知」を持ち出す。暗黙に知られていたことを明示的な形に変えること、それが知であるという。情報単位の間に一つの物語を構築することという。
それでは、関係性あるいは物語は、情報の間に客観的に存在するのであろうか? そうではないはずで、関係も物語りも《見つける》ものである。雑学と教養の何か違うかといえば、「問題」の解決に何の役にもたたないものが雑学であり、役に立つものが教養なのではないだろうか? ある人が「問題」をもっていなければ、すべての知識は雑学で終わってしまう。そこに「問題」があるからこそ。知識はその人と関係あるものとなる。「問題」がなければ、すべての知識は受身である。「問題」があるからこそ、それを解決するために知識を能動的に求める。ある人がもつ「問題」と別の人のもつ「問題」は当然異なる。そうであれば客観的な教養といったものはありえない。重要なのはその人がもつ「問題」である。「問題」が時代に根幹的、あるいは時代を超えて普遍的なものであれば、その人の得た教養は公共的なものとなりうる。だから大事なのは「問題」を感じ取る感受性の方である。その感受性が豊かな人が教養がある人であって、それを欠いていれば、どんなに知識を持っていても、せいぜいクイズ番組で優勝できるだけである。
内田氏はある時レヴィナスに傾倒した。そこに自分の「問題」に応える何かがあると感じたのである。あるいはレヴィナスが内田氏に「問題」のありかを教えたのかもしれない。どちらが鶏か卵かと問うことには意味がない。共犯関係なのである。自分の「問題」が何であるかということが本を読むことで明らかになるということはしばしばある。これが内田氏のいう暗黙の知から明示的な知へということであるかもしれない。
しかし暗黙であってもその人の中に何かがなければ本に触発されるというようなことは起きない。それで内田氏はレヴィナスとの対話を続けた。対話といえばきこえがいいが、一方的に攻め込まれるような関係だったのではないだろうか? 一度自分がなくなって自分の思考をレヴィナスが乗っ取ってしまう。そういう時期があり、そこからふたたび自分がまた少しづつ芽吹いてくる。それによって、自分とレヴィナスの間にようやくある距離がとれるようになる。そういう経過で、はじめて書けるようになったのではないだろうか? そして今度は、レヴィナスという物差しで色々なものが測れるようになる。それも客観的なレヴィナスではなく内田氏の問題を内にふくんだレヴィナス、現代日本に生きる人間としての内田氏の問題により変容したレヴィナスである。教養とはそういうものであると思う。福田恆在のロレンス、大岡昇平のスタンダール、中村光夫のフロベール、などに見られるように、ある時期誰かと徹底的に対話し打ちのめされるような経験を経ていない知識は力をもたないのである。
次に資本主義論。氏によれば、仕事とは額に汗してするものであり。本質的にオーバーアチーブなのである、ほうっておくと賃金以上に働いてしまう傾向こそが人間性を定義する条件の一つなのである、人間は「とりえあず必要」である以上のものを作るということにおいて他の霊長類と異なる、とりえあず必要なもの以外は誰かにあげるしかない、あげたら気持ちがよかった、あるいは気持ちがよかったので必要以上に作るようになったのか? いずれにしても、対価は大したことがなくてもとりあえず働くという数万年来の人間の営みが、現代においてくずれようとしているのである。「意味がわからないことは、やらない」ことになってきたからである。これは合理的な考えである。これがニート問題の根源である。彼らは等価交換しか信じないのである。仕事が何かを作って誰かにあげるという「非=等価交換」であるということが理解できないのである。それなのに彼らは彼らの親が非合理な愛情で彼らを養っているということは勘定に入れないのである。親という他者からの贈与は受けるが「他者への贈与」はいやという。「やらずぶったくり」である。
サラリーマンは本心では誰のお蔭で飯が食えているのだと思っている。これは太古からの人間の営みである「とりあえず必要」である以上に働いて、剰余を誰かにあげているということを俺もしているのだということを言っているのである。剰余をあげるのがいやなのではない。あげることで気持ちよくなりたいのである。それなのに誰も感謝してくれないのではいい気持ちになれないではないか! 誰もありがとうといってくれないから、ぶーたれるのである。
マルクス主義が破綻した原因の一つは、「人間は収奪されることのうちに快楽を見出すことができる」という真理をどこかで見落としてしまったことにある。自己を犠牲にして活動する革命家がいた時代にだけマルクス主義が輝いていたのはそのためである。
この辺りの氏の展開、またしてもポトラッチである。ひとが生きることに意味があるか、といえばない。しかし生きることがいい気持ちのものでありうる、それはポトラッチあるいはそれに準じる何かによってである。資本主義はあるいは現在のポスト?資本主義においては、ポトラッチ的な仕組みのどこかが壊れようとしているのである。必要なのはポトラッチ的な何かを回復することである、というのである。
なるほど。論理的である。しかし・・・。これは最近の保守おじさんたちがいっている、人は《私》の領域においては幸福になれない、《公》の領域に参加することによってはじめて幸福になれる、滅私奉公!、忠君愛国!といった方向につながらないかしら? もちろんそんなこと内田氏は毛ほども考えてはいないのであるけれども。
いきなり国というようなところにいってしまうと大げさになってしまうけれど、とりあえず共同体として考えてみる。内田氏もいうように、都市化・近代化は地域共同体と血縁集団を破壊した。それを企業と官庁が終身雇用と年功序列でとりあえず代補した。しかし男たちが会社につくしている間に最後の血縁集団である核家族が崩壊していった。ポスト産業社会となって企業も解体していく。共同体が何もなくなってしまった。なぜ、そうなったか? 「そういうのが、いい」とみんながいったからである、と内田氏はいう。「夫らしく妻らしくなんていうのはいや」「親の介護もいや」「子供も面倒もみるのいや」「隣の家とのつきあいも鬱陶しい」「会社の同僚となぜ終業後もつきあわなければいけないの」「オレはやりたいようにやる」「おれの人生に傍が口をだすな」・・・そういうことをいうからこうなっちゃった。自業自得である、と。わたくしも毎日そんなことを言っている。だから自業自得なのである。それに対する内田氏の提言は目もくらむようなものである。人間の社会的な能力は「自分が強者となって特権を享受するためにではなく」「異邦人、寡婦、孤児をわが幕屋のうちに招き入れるために」ある。喜びは分かち合うことによって倍加し、痛みは分かち合うことによって癒されることをもう一度常識のうちにとりもどすことによって、破壊された「中間共同体」を再建すること、であると。なんだかイエスの言葉である。どうもこういうところにレヴィナス経由のユダヤ・キリスト教的なものが鎧の下から覗くような気がする。
さて、内田氏によれば、思想家は「邪悪な人間」と「バカな人間」のどちらを優先的に憎むかによって二分できるのだそうで、「バカ」を「悪人」よりも憎むタイプの思想家としてニーチェ、ハイデガー、ポパー、フーコーをあげ、それに連なるものとしてオルテガを論じる。(ポパーはこのタイプの思想家だろうか。ポパーは啓蒙思想家の末裔なのであり、啓蒙思想家は「バカ」よりも「悪人」を憎むのではないだろうか? 啓蒙思想家は教化の可能性を信じるのである。あるいは少なくとも変わる可能性を信じる。)
ここで内田氏は、オルテガとニーチェの類似と相違を語る。
それで本書の背骨である「貴族と大衆」。オルテガによれば、おれのの単独性を引き受ける気がない人間ばかりで構成された社会が大衆社会である。彼ら大衆は社会全体を鳥瞰するマップを持っていない。大衆とは、自分が《みんなと同じ》と感じることによっていい気持ちになる人びとのことである。オルテガは、この対極に貴族をおいた。この構造はニーチェに近い。ニーチェ以前の思考家は大衆など問題にもしなかった。それがもたらす災厄など考えもしなかった。
ニーチェによれば貴族とは外界を必要としないもの、己の内に自足するものである。貴族道徳は自己肯定から生じる。
ニーチェからオルテガのわずかな時間の経過のうちに情勢はまったくかわった。強いのが貴族ではなく大衆になってしまったのである。自己肯定は貴族のものから大衆のものとなったのである。それに対するオルテガのいう貴族は、他者との共同生活の意思をもつもの、本来の意味での市民である。文明社会とはほんらい貴族のみで構成されるべきものなのである。大事なことはオルテガが貴族と大衆は一人の人間の中に並存して存在しうると考えたことである。貴族とは努力する生と同義語である。すべての人の中に萌芽しているはずの貴族の血を開花させること、それをオルテガは求めた。オルテガのいう貴族は己に満足できないもの、己の内に自足できないものである。貴族はその克服のためにこそ努力する。
しかし内田氏の本を読む人と、テレビのバラエティ番組に呆けている人とどちらが多いか? 衆寡敵さないのである。テレビこそが自分がみんなと変わらないことを確認するための装置である。友達の輪!である。ニーチェの意味でもオルテガの意味でも貴族などの出番はないのである。友達の輪には入れてもらえないのである。もちろんそんな輪の中には入りたくもなかろう。そうであるなら両者の間に架橋することなど端からできる話ではないことになる。オルテガ流の貴族が市民たらんとして連帯の意を表明しても大衆からは相手にもされない。ましてや貴族だけで構成された文明社会においておや。ところでここら内田氏の記述を読んでいると、オルテガのいう貴族が内田氏のいう教養人と重なってくることがわかる。そうすると、貴族と大衆をわたくし流に言い換えることができることになる。貴族とは自分の内に問題をもつひとであり、大衆とは自分の内には問題をもつとは思わず、問題は自分の外にあると思うひとである。
しかし、自分の内にある問題を自分自身で解こうと思うひとは今度はニーチェ流の貴族となってしまう。自分の頭で考えるひとは貴族であることになる。あまり貴族の定義を拡張していっても仕方がないけれども、いつの時代にも貴族が多数派になるなどということはないのである。だとすれば社会統合の原理として、各人が貴族になることなどというのはまったく空しい提言となってしまう。
それならオルテガは、あるいは内田氏はなんでそんなことをむきになって論じるのだろう。多分、スペインや日本への愛情なのであろう。このままではいけない、なんとかしなければという危機感が無駄と知りつつ言わせるのであろう。知が働くと旗が立つ。血も騒ぐ。
わたくしには、こういう議論が何となく空しく感じられるのは、わたくしに国を愛する心が足りない、あるいはほとんどないためなのであろう。わたくしは日本語以外で暮すことができないから、日本がなくなってしまっては困るけれども、日本語さえ残れば、日本という国がなくなってもあまり困らないような気もする。本当は日本的共同体の中でぬくぬくと暮すことしかできない人間で、グローバルスタンダードの競争社会の中に放り出されたら一日で泣き言を言い出す人間なのであろうとは思うけれども。
何だか内田さんは、少し偉くなりすぎたような気もする。こういうことは解決策などわからなくてもいい(解決策などないかもしれないし、どうしようもないのかもしれない)ので、ただ問題がどうなっているかの構造だけが解ればいいではないだろうか? 解ったってどうしうようもないのではあるが、それを理解した自分に誇りだけはもてるのではないだろうか? 誇りをもったってどうしようもないではあるが、これを無限退行させていけば、生きていても仕方がないことになる。もちろん生きていても仕方がないではあるが、生きていることが気持ちがいいものではありえて、生きることの気持ちよさは何もポトラッチには限らないのである。わかった! ユーレカ!、というのも、また生きることの気持ちよさなのである。そしてわかったことはみんなと分かち合いたくなるのも、また一つのポトラッチなのではないだろうか?
カール・ポパーは「寛容と知的責任」(「よりよき世界をもとめて」(未来社1995年)において、知識人に何ができるかと自問して、こう答えている。たくさんのことができる。なぜなら知識人が発明した理念、理論の名のもとで大虐殺が過去何度もおこなわれてきたのだから、われわれが間違うものであることを自覚すること、“正しい”と称する理論の“正しさ”に批判的になれること、そのことによって知識人は世に貢献できるのであると。何かおかしなことがあれば、そのおかしさから目を離さないこと、それに対する安易な解決を目指さないこと、解決がわかったような気がしたときは、人間は間違う存在であることを思い出すこと、そうしながらも相対主義の無気力に陥らないように注意すること、それがポパーの説くところである。内田氏が信仰をもつひとであるのかどうかはわからないけれども、師匠のレヴィナスは信仰の人である。信仰の人はどこかで飛躍をする。飛躍への誘惑に耐えて、その場にとどまること、その力をあたえるものが教養であるように、わたくしには思えるのだが。
(2006年4月1日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)
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