千葉雅也「現代思想入門」(2)

 さて、現代思想とは?
1) 秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する。
2) それが今、人生の多様性を守るために必要だ。
というのが千葉氏のp14での論。
 翻訳すれば、「俺が何しようと勝手だろ。いちいちうるさいこというな、ほっといてくれよ!」 排除される余計なものをクリエイティブなものとして肯定したことが20世紀の思想の特徴である、と。
 このような管理、秩序維持をいたってソフトな形で、一見そうとはわれわれが気づかない形でおこなっているのが現代管理社会の特徴と指摘するというのがポストモダン思想の言説のかなりの部分をしめていたようにわたくしは記憶するのだが、ではそういうソフトな形ではなく、もっと直接に剥き出しに権力が個人に介入してくるような事態がおきた場合には、ポストモダンの思想家たちは、まだソフトな管理がまし、ハードな管理はお断りというだろうか?
 もはやハードな管理など先進国では過去のものとなっているというのが、ポストモダン思想の前提となっていたように思う。つまりヨーロッパという存在を前提とした思想。

 ここで千葉氏は、実に奇怪なこととわたくしには思えることを言い出す。「ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害は法によって遂行されたのであり、抵抗するには違法行為=逸脱が必要だったのです。」(p15) つまり、もしも逸脱が認められないのであれば、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害に抵抗することも是認されないだろう、と。
 しかしこれは、万引き・窃盗・強盗といった犯罪とナチス・ドイツによるユダヤ人迫害とをただ「逸脱」という言葉の次元で同一視するという言葉の遊びであり、私見によればポストモダン思想にはこのような言葉を持て遊ぶという傾向がいつも潜在してきているように思う。

 科学哲学の分野では例えば、ファイアーベントの『方法への挑戦  科学的創造と知のアナーキズム』がある。「科学は本質的にアナーキスト的営為であり、科学を進歩させる為の唯一の原理は、Anything Goesなんでもありである」と。
 しかし今、科学哲学の方法論としてファイアーベントを読むひとはまずいないだろう。これは1968年前後の世界の空気を強く反映したもので、ポストモダン思想の一時の隆盛も、同様に1968年という時代背景がなければありえなかったのではないかと思う。今はパリは燃えていないし、造反有理!を叫ぶ若者たちもいない。
 そのような空気は今では消滅している。だからどうしても議論は学者社会という閉じた蛸壺の中での些末なものとなっていき、普通の生活人には全く届かないものとなってきているのだと思う。

 千葉氏は現在のソフトな管理社会は戦時中のファシズムに似ているという。「秩序をつくる思想はそれはそれで必要です。しかし他方で、秩序から逃れる思想も必要だというダブルシステムで考えてもらいたい」のです、という。
 しかし「秩序をつくる思想はそれはそれで必要です」なんて弱気なことを言っていては、思想としては決定的にパンチが足りないことにはならないだろうか? ニーチェはそんなことは決して言わなかっただろうと思う。

 さて千葉氏は「現代思想全体が今では解けない暗号文みたいになってしまい、どういう周辺知識がいつ必要かも含めて説明しないと読めないものとなってしまっています。」という。(p19) たった50年前の言説が今では暗号文になってしまっているというのが、ポストモダン思想の最大の弱点の一つと思うが(ソーカルらの論難はそこをついたものだったと思う)、千葉氏はこのことについて特に考察せず、だから「プロ」のわたくしが「一般」の読者のみなさんに現代思想の基礎を教えて進ぜよう、という方向に向かう。それが不思議である。
 ポストモダン思想というのはあのような難解な書き方を要請したのであり、それと表裏一体なのであり、やさしく解説などしたら、その最大の美点がどこかに消えてしまう性質のものだと思う。
 ポストモダン思想というのはプラトンからカント、ニーチェからフッサールレヴィナスなどを読み込み読み飽き、数学基礎論などにも一家言持つような「高級な」人のためのものであって、「一般の人」とは接点を持ちえないものであると思う。
 「一般の人」ではなく「レヴィナスの人」である内田樹さんは従って、ポストモダン思想に反応(反発)する資格を持つ。で、氏の最初の単著である「ためらいの倫理学」には「ラカン派という症候」というラカンを疑う文も収められることになる。
 そこで内田氏はいう。「同職者集団でしか通用しない語法は、必ず無限循環に陥る。」もしもポストモダン思想が同職者集団でしか通用しない語法によってしか成立しないものであるなら、それはドツボにはまっていく運命にあるということである。
 また同書には「「分かりにくく書くこと」の愉悦について」というソーカルの「「知」の欺瞞」の書評もある。「「ポストモダニストの悪口」をここまで徹底的に書いた本はない。」と内田氏はする。ドゥルーズデリダガタリ、イリガライ、ラカン、ラトゥール、リオタール、セール、ヴィリリオらの書いたものを、彼ら自身も自分が使っている数学概念をまったく理解していない、とソーカルらは批判するわけであるが、こういう「難解な部分」を取り除いてしまうとポストモダン思想(千葉氏のいう「現代思想」)って「なんだ、たいしたことはいってないじゃん」となる可能性は決して低くはないのではと思う。
 だからこのような本を千葉氏が書く事が現代思想にとっていいことなのか? え? 現代思想ってたったそれだけのことなの? となり、射していた後光が消えて有難みがなくなることはないだろうか?と思う。

 さて、いままでわたくしは「ポストモダン思想」という言葉を使ってきたが、千葉氏は「こちらは悪い意味で言われることもあるので、あまり使いたくない」としている。(p20) 悪い意味というのは批判的という意味ではないかと思うが、批判に真摯に向き合うというのがあらゆる討論の前提ではないかと思うので、これもちょっと解せない点である。

 千葉氏は「ポストモダン思想」という言葉をきらうということだが、「近代」と「ポストモダン」へと論が進む。
 「近代は「人間は進歩していくんだ、と皆が信じている時代、その後、価値観が多様化し、共通の理想が失われ、「大きな物語」が失われたのがポストモダンの時代」であるという。

 ポストモダン思想はよく相対主義だと批判される。相対主義では「なんでもあり」になる、という批判がある。しかしと千葉氏はいう。「真理の存在が揺らぎ、人々がバラバラになるのは世界史のやむをえない成り行き」だとしている。
 しかし「真理」というのが歴史を超越した普遍的なものなのか?時代に相対的なものか?というのは大問題ではないか思うので(カントの哲学というのは、われわれは「真理」に到達できるはずはないのに、ニュウトンはなぜ真理へ到達できたのかという疑問への回答の試みだったのではないかと思うが、その後、相対性原理によってニュウトン理論が相対化したとしても、それを単なる世界史の成り行きとしていいのかについては大きな疑問を感じる)、このあたりあっさりと大した検討もせずに「世界史のやむをえない成り行き」として通りすぎることには大きな疑問を感じる。

 さて千葉氏は「みんなバラバラ」でいいというのではなく、一度既成の秩序を徹底的に疑ってみることで、ラディカルに「共」の可能性を考え直すことが出来るだとしている。
 しかし、氏が「現在思想」研究者集団というすでにできあがっている秩序をラディカルに疑ってみているようにはわたくしには思えない。

 さて23ページから「現代思想」の前にある「構造主義」の紹介が始まる。
 まず「構造」とは概ね「パターン」と考えていいと。それはレヴィ=スとストロースの文化人類学が起源になるといわれる。
 わたくしは「悲しき熱帯」と「野生の思考」は読んだ記憶はあるが50年くらい前のことなのでほとんど何も覚えていない。しかしそれほど難しい本と思った記憶はない。千葉氏は比較的これらは「静的」な論だったとする。つまり現代思想はそれとは違って「動的」なのである。

 パターンから外れるもの、逸脱を問題にし、もっとダイナミック・動的に世界を見るのがポスト構造主義であると氏はする。氏は静的なものを嫌い、動的なものに共感するようである。
 氏は、「現代思想」が論じる場合、それは基本的に「二項対立の脱構築」つまり「二項対立」的な見方をいったん留保することから始まるとする。
 それで、デリダは「概念の脱構築」、ドゥルーズは「存在の脱構築」、フーコーは「社会の脱構築」を考えたという大雑把な方向が提示される。「概念」や「社会」を所与のものとせずに改めて疑うというのは何となくわかる気がするが、「存在」を考え直すというのはなかなか理解しづらい。だから「現代思想」は難解とされるのであろう。
とにかく「両義性」が肝要ということがいわれて、本論のデリダ論にはいることになる。

方法への挑戦―科学的創造と知のアナーキズム
「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)
ためらいの倫理学 戦争・性・物語 (角川文庫)