千葉雅也 「現代思想入門」(1)

 実はこの本をなんで購入したかをよく覚えていない。この頃アマゾンで本を買うことが多く、そうするとこの本もどうですかというのも出てきてついポチっとしてしまうことが多い。この本も新書だし、そんな高くないしということでポチっとしたのだろうと思う。

 「現代思想入門」というタイトルではあるが、ここでの「現代思想」とはいわゆる「ポストモダン」思想であり、わたくしが若いころにはそれなりに活況を呈していたこの業界も最近ではとんと噂をきかなくなっているので、最近はどうなっているのかなという興味と、おそらく最近のウクライナの状況から、西欧はポストモダンどころかまさにモダンに先祖返りしているように見えるので、そこのあたりがどうなっているのかなという興味もあったのだが、後者は本年3月20日初版の本書ではもちろんふれられていない。もう半年後の刊行であれば、どうしてもふれざるを得なかっただろうし、そもそも全体の構想も根底から変えなくてはいけなかったはずである。

 要するにポストモダン思想というのはモダンの世界が存在することを前提に、その中で駄々をこねている不良息子みたいなものなのだから、モダンの世界が崩壊してプレモダンに戻っていくようなことになると反抗する対象の怖い親がいなくなり、自己の存在の基盤が崩れてしまうことになってしまうのではないだろうかと思う。

 もう一つ気になったのがフロイト精神分析が自明の真理であるように論じられていることである。実地の精神科医療の分野ではもはやフロイト流の精神分析は治療法としてはほぼ過去にものとなっているはずである。(千葉氏はフランスではまだ現役の精神科治療法としておこなわれているとしているが。)

 ポストモダン思想(日本ではそれが「現代思想」と呼ばれたと千葉氏はしている)も主としてフランスでおこなわれて来たわけで、フランスローカルの思想をなぜわれわれが今学ばなければならないのか? フランスは哲学の分野での世界最進国であるので、それをわれわれもまた学ばねばならないということなのか? 林達夫氏はどこかで洋学乞食ということをいっていた。

 また、ポストモダン思想への批判(たとえばソーカル等の「知の欺瞞」)への言及も一切ないことも気になった。
さらにポパーの「あらゆる知識人はもっとも簡潔でもっとも明瞭に、かつもっとも謙虚なかたちで説明する責任があります。」「もっとも悪いことは、知識人が自分の仲間に対して、大予言者気取りでたちまわり、彼らをご神託の哲学で感化しようとすることである。」(「大言壮語に抗して」「よりよき世界を求めて」所収)
 これはポストモダン思想を対象にした論ではないけれども、どうもポストモダン思想には「大言壮語で煙に巻く」といった方向が濃厚にみられるように思うので、その方向への言及がないのも気になった。あるいは、だからこそ千葉さんがこういう本を書く事になるのかもしれないが・・・。

 さて、千葉氏はこういう。
現在思想を学ぶと「複雑なことを単純化しないで考えられるようになる。」「単純化できない現実の難しさを、以前より「高い解像度」で捉えられるようになる」「世の中には単純化したら台無しになってしまうリアリティがあり、それを尊重する必要がある」・・・
こんなことを言っていたら足元が腐ってくるまで動けなくなるのではないだろうか? 「見る前に跳べ」というのは大江健三郎だったか?

 現代では「きちんとする方向」「秩序化」が進んでいる。でも、それって窮屈じゃない? そこからはみ出すものもあるのでは? 個別具体的なものが見えなくなるのでは?と千葉氏はいう。

 そこで現代思想とは「秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、つまり「差異」に注目する」のだと。それが人生の多様性を守るためには必要であり、排除される余計なものをクリエイティブなものとして肯定する。それが20世紀の思想の特徴である、と。すなわち、過剰な管理社会への警戒!

 しかし「現代思想」全体が一般の人には今では解けない暗号文のようなものになってしまっている。であるので哲学のプロの世界では共通認識となっている現代思想の基礎を一般に開放したいというのが、本書執筆の動機なのだとされる。

 だが、こういうのって「排除される余計なものをクリエイティブなものとして肯定する」のではなく、「正統的解釈」を無学なものに教えて進ぜようという姿勢で、まさに思想の世界の管理社会化なのではないだろうかと思う。

 などと文句ばかり言っていても仕方ないので、次はもう少し具体的に本書をみていきたい。

現代思想入門 (講談社現代新書)
「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)
よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)