千葉雅也「現代思想入門」(終) 「ポスト・ポスト構造主義」

 この文章を書く関係で本棚をごそごそやっていたら、T・イーグルトンの「ポストモダニズムの幻想」が出て来た。1998年刊行だが、わたくしが持っているのは2003年刊の7刷。ポストモダン批判というのは結構売れるらしい。
 さらに驚いたのは雑誌「現代思想」の昨年6月号「いまなぜポストモダンか」というのが出てきたことで、巻頭の座談会には千葉さんも参加されている。なぜ買ったのかはまったく記憶にない。

 それでパラパラとみていたら、横田裕美子さんというかたの「メデューサはどこに消えたのか」という文があり、ある大学の過去のシラバスに次のような記載があったことが紹介されている。
 「少なくとも哲学の分野においては、現在真っ当な研究者であればもう「ポストモダン」という語を使うことはない。・・・曖昧でいかがわしい標語で何かを語った気になれる空気は、もはや過去のものになりつつある・・・」

 「ポストモダン思想」は「レトリックによって読者を煙に巻く記号の戯れ」だと正統派哲学からは見なされているらしい。
 「ポストモダン思想」は従来の正統派哲学とは全くことなるもので、根拠や起源は問題とされず、書き方や文体という意味でのスタイルが問題にされる、とされていたと。
 というのは、「「〇〇」について書く」ための基準となる私(主体)を、ポストモダン派は事前には定立しえないとしていいたからである。何かすることのなかから「私」は事後的に立ち現れてくるのであって、その前には「私」は存在しない、と。

 横田さんの論は「メデューサを見るためには、正面から彼女を見るだけで十分である。そうしても、彼女は死をもたらしたりしない。彼女は美しく、笑っている。」というわたくしの知らない誰かの文(詩?)の引用で結ばれる。
この文を末尾におくことで横田氏は何事かを読者に伝えられると考えていると思うが、私見では、このメデューサ云々の原典を知っているごく一部の限られた人を除けば「なにか気取っているな」という印象だけだろうと思う。この最後の引用は業界内部への目配せであって、一般読者に開かれたものではない。普通の読者には、「何か馬鹿にされた」というか「置いておかれた」「自分は相手にされていない」といった感じが残るだけではないだろうか?

 しかし、それは措いて、ここで考えたいのは「大学紀要」の方である。紀要の著者は「私」の存在を信じているのである。もちろん哲学史のなかで自分を疑う思想は繰り返し現れているが、西洋近代は「我思うゆえに我あり」なのであって、その紀要でいわれていることは「その伝統の擁護の方向で自分の研究室は仕事をしている」ということで、そうであるなら西洋近代(モダン)を根源的に疑うというポストモダン思想(千葉氏のいう現代哲学)は西洋のこれまでの哲学の歴史の全否定になるから、哲学を追求していると自称している教室としては受け入れ難いというということになる。「そんな話は哲学じゃないよ。フランス文学科あたりでやったら?」
 もしもそれが日本の哲学業界の現状であるのなら、日本で「現代思想」を研究しているひとがおかれている立場はなんとも微妙なものとなるはずである。千葉さんのようなかたが研究者として生きていくのは、とんでもなく厳しい ことになる。だとすると、この「現代思想入門」も実はわたくしのような市井の人間にではなく、現在の哲学の本流の人に、せめてフランス現代思想についてこのくらいは最低理解してから批判してほしい! お前らの不勉強は見るに堪えない!という怒りのようなものが書いているうちにこみ上げてきて、一般読者はどこかにおいておかれて、専門家なら理解できる難解な専門用語のまま最後まで進んでいくことになったのではないかと思う。

 ポストモダン思想というのは西洋近代の物の見方・考え方を根底から疑うということで、なぜならその西欧近代の思考法がわれわれを不幸にし、世界を不幸にしているという認識がその前提になっているからである。つまり「啓蒙思想」の全否定である。

 ポパーは「寛容と知的責任」(「よりよき世界を求めて」(未来社 1995)の「寛容と知的責任」で、ヴォルテールの「寛容は、われわれとは誤りを犯す人間であり、誤りを犯すことは人間的であるし、われわれのすべては終始誤りを犯していると洞察から必然法に導かれてくる。としたら、われわれは相互に誤りを許しあおうではないか。これが自然法の基礎である。」を紹介している。
 また同書の「西側は何を信じているか」で、「ヘーゲル的大言壮語」ということを言っている。そうではなく「客観的真理への接近」を目指して検討するという方向が西欧の目指すものなのだ、と。「真性の啓蒙家は論理学と数学という部門以外にはいかなる証明も存在しないことを知っている。そして西側が誇るべきは、一つの正しい理念ではなく「多数の理念」を持っていることなのだ、と。しかし、千葉氏は「客観的」などいう言葉には眩暈がするのではないだろうか。「百年古いよ」と。

 イーグルトンは「宗教とはなにか」でドーキンスの「神は妄想である」(早川書房 、2007)などを小気味よくからかっていて、読んで爽快だった。人文学の教養のレベルが全然違うのだから、イーグルトンの一方勝ちは当然である。
 しかしドーキンスとは違って「ポストモダン」陣営の方々はみな大変な物知りで、大読書家の論客たちばかりである。そのためか、「ポストモダニズムの幻想」は穏当というか、正統派からの批判の最大公約数を集めた感じで、イーグルトン独自の見解というのはあまり見られないように感じた。

 さて、第七章では「ポスト・ポスト構造主義」が論じられる。
 しかし読んでいくと、「一者とは実在であり、ただそれ自体に内在的である。」といった難しい話が相変わらず続いていく。
 「今ここに生きるしかないのです。今ここで、何をするかです。・・・」 これを読んで、わたくしが若い頃に流行った「実存主義」というのを思い出した。これもフランスの思想だった。だが実存主義というのはもう少し言葉がわかりやすかった。「投企」などというよくわからない言葉もあったと記憶するが。
 実存主義は何だかわからなかったが格好よかった。「見る前に飛べ!」 現代思想もこのような一般人にもなんとか通じる用語を作り出さないと、じり貧になっていくような気がする。(本当は実存主義も「勢い」勝負の説であって、内容があったかどうかは疑わしいと今になっては思うけれど。)

 サルトルカミュも小説や劇を書いた。読まれたのはその哲学書ではなく「嘔吐」や「異邦人」の方であり、それが直感的にでも実存主義の理解に資するとされたのであれば、千葉さんも小説が大ヒットして、千葉さんの名前が日本中に広がり、その小説は「現代思想」から見たわれわれの姿を描いているといわれるようになれば、それが日本の現代思想を一般の人に近づける一番の近道なのかもしれない。

 本書では付録として「現代思想の読み方」が論じられており、その最後は「このように、綴り間違いに見える言葉を新概念として提示することの自己正当化、つまりは言い訳を繊細に書くことで、みんなが信じているものへのひじょうに嫌味ったらしい挑発が行われるのです。僕は、これこそが知性だと思いますね。」となっている。

 しかし、これは無限後退へと通じる道なのではないかと思う。このような「新概念」はいくらでも提出可能であり、あらゆるものを否定することが可能である。しかしそうだとするとわれわれは動くこことが出来なくなってくる。

 昔々読んだ清水幾太郎の「倫理学ノート」(岩波書店 1972年)に妙に忘れられない一節がある。ヴィットゲンシュタインの「哲学探究」を論じている部分で、そこにヴィットゲンシュタインの「私たちは氷の上へ入り込んでしまった。ここには、摩擦がなく、ある意味では条件は理想的なのであるが、それだけに進むことが出来ない。私たちは進みたいと思う。それには摩擦が必要なのだ。ザラザラした大地へ戻ろう。」という部分(論考107)が引用されている。(p213)
 清水氏は「学問に縁のない人」は、ザラザラした大地にいるほかはないとしている。では学者は? 大部分は「すべすべした大地」にいるのだと思う。おそらく千葉氏はそれに反発して「ザラザラした大地」をめざしているのだと思うが、にもかかわらず、わたくしには氏はまだ「すべすべした大地」にいて「ザラザラした大地」にはいないと感じる。清水氏はヴィットゲンシュタインの転向は、かれが小学生を教えた経験がもたらしたとしている。もしも、小学生に何かを教えようとすれば千葉氏も変わるだろうか?

 この「倫理学ノート」は功利主義を論じたものだから、千葉氏には全く合わない本であると思うが、その最後は「飢餓の恐怖から解放された時代の道徳は、すべての「大衆」に「貴族」たることを要求するところから始まるであろう。しかし、それが不可能であるならば、「大衆」に向って「貴族」への服従を要求するところから始まるであろう。」という恐るべき「反動的」な文で結ばれている。

 そして時代はひょっとすると「飢餓の恐怖」がふたたび現実のものとなるかも知れない時代、ヨーロッパ啓蒙という伝統が根源的に否定されるかもかもしれない時代に直面してきているのかもしれない。
 千葉氏の本は本年2月に刊行されているが、ことしの2月と3月の間でわれわれの世界の見方にはある変化がおき ていると感じる。いくらドーキンスさんが怒り狂っても、もはや西側では「宗教」は根源的な力は持たなくなっていたはずである。しかし、うすめられた西側と思われていたロシアは実はそうではなかった、という問題にわれわれは直面することになった。ソヴィエトはマルクスという西側の人の思想に立脚していたのではなかったか? 中華人民共和国もまた。

 ドイツというのは西側でも特別な国で、ヒットラーのような人がでてくると元気になる国かと思うが、いずれにしてもこの本が書かれた時と今とで、ヨーロッパの内部の人も、日本のような極東に住む人間も、世界にたいする見方が微妙に変わってきたように思える。言葉の争いではなく、武器での勝負である、西側の優位は思想ではなく、武器生産能力にあるというとになると、千葉さんのような言葉の人、「現代思想」の方々の立ち位置は今よりも格段に難しくなるのではないかと思う。

 わたくしがこの本を買ったのはメモでは今年の4月28日となっている。これから世界がどうなるかはわたしのようなものには予想もつかない。しかし、わたくしから見ると、いろいろな見方を許容するところが西欧の良いところであるはずであるのに、西側が狭い単一の思考に収斂しようとしているように見えることには危機感を抱いている。

 この本を読むことで、久しぶりに過去に読んだいろいろな本を思い出すことが出来た。あまり自分は変わっていない、進歩していないことを改めて確認できた。その機会を与えられたことについて、千葉氏に大いに感謝したいと思う。

 また、千葉氏の意図ではないと思うが、現在日本で思想を業として生きることの大変さということも教えられた。世界がメカニックになり、「思想」?そんなもの過去の遺物でしょ! 今、だれがそんなもの必要としているの? とい方向が世界の大勢となり、争いは思想ではなく、ミサイルの飛行距離の長短などで競われるようになると、思想には表層的な問題についてではなく、100年単位での問題に腰をすえて取り組んでいくことが要請されることになるのではないかと思う。(千葉さんの本書執筆の意図とはまったく異なる方向であると思うが・・)

 「世界は開かれている」(ポパー)、「政界 一寸先は闇」(川島正次郎)であるとすると、われわれはその場その場でアドホックな対応をしていくしかないことになる。千葉さんの論を読んでいると、広くはヨーロッパ、狭くはフランスというお父さんは容易に倒れることのない強固なものであると安心して、それにいろいろな難癖をつけることでアイデンティティを確保している子供というようなイメージを感じる。
 だが、お父さんはそんなに強いのだろうか? それが意外ともろく簡単に崩れてしまうということはないだろうか? そうなると「現代思想」も一緒に崩れてしまうことはないのだろうか?

 書棚の後ろからはステイナーの「トルストイドストエフスキーか」(白水社 1968)も出て来た。(わたくしが持っているのは1971年刊の第二刷でこの頃の本はまだ箱入りである。)
 スタイナーの本は「ハイデガー」が滅茶苦茶面白かった。「現存在」などというのはあいかわずさっぱりわからなかったが、でもハイデガーという人について朧気にでもイメージがつかめたように思えた。「大地に立つ農夫」
本人はギリシャ正統の哲学をおこなっていたと自負していたと思うが「蒼白い人」ではない。ナチスへの傾斜もそこから来るのであろうが、さて正統派の哲学はトルストイの系列で、異端派はドストエフスキーの系列というようなことになるのだろうか? ドストさんはそんな軟なひとでないが、異端派というのは、正統派が存在してくれないと困るというのが大きな問題であると思う。世界のすべての哲学が「現代思想」一色になってしまったら「現在思想」の立ち位置は失われてしまう。